第6話 名前のない書庫

【前書き】


書かれなかったもの。記されなかったもの。


それは“存在しなかった”のだろうか?

それとも、“存在していた”からこそ、記せなかったのだろうか。


書物のない書庫。

名前のない書棚。


あなたの名前もまた、そのひとつだったのかもしれない。



【本文】


■ 書庫の入口で、扉が語り出す


「入るには名前を捨てなさい」

石造りの扉がそう告げる。


エイレンが迷ったそぶりを見せると、扉は続ける。


「名とは、他人があなたを記憶するための鍵。

 ここでは、その鍵が錠を壊すの」


扉を抜けると、目の前に広がったのは――本のない書架が果てしなく並ぶ、書庫の墓場。


それぞれの棚に、見えない“気配”がある。声がある。記憶のような、あるいは亡霊のような。



■ “記録の空白”を読む少女


再び、あの少女が現れる。だが今度は「名前を持たない」と言う。


「この書庫には、誰かが“語ろうとしなかった物語”が集まってるの」


彼女は白紙の本を取り出して、読み始める。


──何も書かれていないはずなのに、エイレンの頭に声が響く。


「俺の夢は……本当は、俳優になることだった。

でも、父の農地を継いで、気づけば60になってた。

最後まで、誰にも言えなかったけどな」


「わたしの娘、確かにいたの。

あの子は、ちゃんとここで生きていた。

…でも、戸籍もないし、写真も燃えちゃったし、もう、信じてもらえないの」


それは、エイレンにとって“無関係なはずの人々の心”だった。


だが、なぜか心が痛む。喉が詰まりそうになる。


少女はそっと言った。


「……それ、全部、“あなたが忘れた記憶”なんだよ」



■ “名前”の変質


書架の中に、エイレンの名前が彫られた石板を見つける。


だが、その名は……見覚えのない筆致だった。しかもいくつもある。

・エイレン・ルヴァンス

・エイレル・バロウズ

・エレン・Z・マルキス

・“名無し”


「なぜ……?」


「あなたの名前は、既に何度も“上書き”されてきたの。

 あなたが見捨てた選択肢、消した他者の記憶とともに、少しずつ別人になっていったのよ」


エイレンは混乱する。


「じゃあ、俺は……誰なんだ……?」


少女は微笑む。


「それを探すために、あなたは“この森”に来た。

 ……“毎回”、ね」


■ 書架の最奥、“自分を読もうとする誰か”


奥の間。

そこには、“読む側”の人間が座っていた。


背を向けたその人物が、エイレンの履歴書のようなものを読んでいる。


ページには、こう記されていた。


「本名:不明

来歴:断絶

記憶:再構築中

接触者:読者」


「……誰だ

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