第24話


「こんな時間に一人でいるなんて。どうしたんだい?」


 かがんでくれたおかげで端正な顔立ちが目と鼻の先にある。夕闇で陰影がくっきりだ。一拍どきりとして、ぽつりと、思わず泣き言を漏らしてしまう。


「家に、帰りたくないんです」


 はっと口をつぐむ。

 他人に、ましてや海東家の人にする話じゃない。それに、我が家の実情を知られたくないという一端いっぱしの恥もあった。

 でも、もう遅い。

 勇さんには全てお見通しなのだから。


「お母さんに殴られるから、だよね」

「なんでそれを」

「暑くなってもずっと長袖だから妙だなって。それに勉強会で、胸元に痣があるのが見えちゃって。だから、もしかしたらと思ったんだ」


 公然の秘密だったのだろう。

 悪い意味で話題に事欠かない家庭だ。八手ヶ丘の住民一同が虐待を疑っていてもおかしくない。また、誰も通報していないあたり、女ケ沢家の嫌われ具合がよく分かる。アバズレの娘がどうなろうと知らぬ存ぜぬ我関せずなんだろう。

 涙腺は決壊寸前、もはや我慢できるはずもなく。

 私は訥々とつとつと、涙声で全てを語った。

 母親からの仕打ちに学校や地域での扱い。仲間達のおかげで穏やかに過ごせてはいるものの、またいつ地獄に叩き落されるか不安でいっぱいなこと。何度も話が脇道に逸れるし、感情が先走って要領を得ないし。拙い告白だったと思う。

 それでも勇さんは黙って耳を傾けてくれた。

 気付けばあたりは真っ暗だ。時計の針は午後八時を示していた。


「うちにおいでよ。夜の公園は色々と危ないからね。怪しい人がうろつきやすい時間だし、何より、君の家をよく思わない住民が多いから」


 その通りだろう。

 むしろこれまで無事だったのが奇跡だ。想護君達と親交を深めたのが、幾分抑止力になっていたのかもしれない。街の悪意を自覚して鳥肌が立ってしまう。

 母の客人がいつ頃去るか分からないし、他に行く当てもない。

 しばしの逡巡しゅんじゅんを経て、私は勇さんのご厚意に甘えることにした。


「お、お邪魔します」


 促されるまま、高級マンションの敷居を跨ぐ。夜分遅くの訪問が申し訳なくて、ずっと俯いたまま。背中を丸めて扉を潜る。

 部屋の景色は一変していた。

 勉強会では折り畳みテーブルがずらりと並んでおり、子ども達の喧騒でごった返していた。ひるがえって夜の風景は静寂そのものだ。片付けられたフローリングは大海原のように広く、ぼんやり灯る間接照明が大人の雰囲気を醸し出していた。


「飲み物を切らしちゃって。コーラしかないけど、いいかな?」

「は、はひっ。大丈夫れふっ」


 声が裏返ってしまう。

 何を緊張しているのだ。勉強会と同じ場所じゃないか。違うのは時間と人数だけだ、と己に言い聞かせるも、心臓は激しく暴れてしまう。

 落ち着こうとして、差し出されたコーラを一気飲みだ。炭酸ガスの逆流に耐えられず、不意にげっぷが出てしまう。恥の上塗りだ。頬がかっと熱くなる。それなのに勇さんは「いい飲みっぷりだね」と二杯目を注いでくれる。


「こ、これはその……えーっとですね」


 おしゃべりで誤魔化そうかと画策するも、言葉が喉元で詰まってしまう。

 生まれてこの方引っ込み思案。咄嗟に話題を提供できるはずもなく。追加のコーラで唇を湿らせるばかりだ。


「そうだ、こないだ解いた問題集なんですけど」


 やっとのことで勉強会の話を紡いだ。

 教えを乞う生徒という立場なら話題も多い。苦手な算数や理科について矢継ぎ早に質問する。本当はこんな話をしたいんじゃない。我が家の実情を打ち明けたのだから、助言の一つや二つ聞かないと。

 でも、踏み出せない。

 彼に迷惑をかけたくないと無意識にブレーキをかけていた。

 そうこうしているうちに、段々と睡魔が忍び寄ってくる。自覚した途端、意識は瞬く間に沈み込む。川遊びで突然、深みに嵌ってしまったかのような感覚だ。頭を支えていられない。視界がぐらぐらと揺れる。勇さんの顔があやふやになっていく。

 駄目、もう限界。

 まぶたが落ちる直前、勇さんは笑っていた。普段の人好きのする微笑ではなく、あざけるような口元の歪み方。それはまるで、罠にかかった獲物を見下ろす狩人のようで……。

 ブラックアウト。

 そこで一旦、記憶が途切れた。





 目を覚ますと一糸纏わぬ姿だった。

 全裸だ。すっぽんぽんだ。生まれたままの格好でベッドに寝転がっていた。

 はて、いつの間に服を脱いだのだろう。パジャマを着ずに寝転ぶだなんてはしたない。せめて下着を履かないと。寝冷えしちゃうじゃないか。

 いや、おかしい。

 我が家にベッドはないはずだ。毎日、かび臭い布団で眠っている。

 とすると、ここはどこだろう。

 頭の中に芯が残っているような感覚だ。寝起きの脳を回転させて、散逸する記憶を手繰り寄せる。

 床につくまで何があったのか。

 夕方、一人公園に残っていて。通りすがりの勇さんに家庭の事情を打ち明けた。それから自宅に招待されて、緊張からコーラをがぶ飲みした。

 そうだ。その後、急に眠くなったのだ。

 思考が纏まってきた。

 つまり私は、勇さんの家で寝落ちして、起きたら全裸だったという訳だ。


「あちゃー。もしかして、もう目が覚めちゃったかんじかな?」


 寝起きの視界が徐々に鮮明さを取り戻していく。

 まさか、もしかして。

 そんなの信じたくない。だが、最悪の答えがそこにある。

 鼓膜を揺らすのは他でもない、彼の声なのだから。


「なん、で。勇、さん」


 舌が回らず途切れ途切れで問いかける。

 優しいはずの青年に現実を否定してもらいたかった。

 きっと何か理由があるはず。熟睡中の私を裸にする必要性が、やむにやまれぬ特別な事情があったのだ。そうに違いない。とうに答えは出ているのに、それが嘘だと思いたかった。


「なんでって。そりゃあ君が、の玩具だからに決まってるでしょ」


 好青年の相貌が粘着質に歪んだ。

 なんて醜悪なのだろう。芽生えたばかりの憧れを、根こそぎ残さず枯らしていく。

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