FAKE

「お姉ちゃん。東京にいた時って、どうだった?」


「何よ?」

「ううん、なんでもないけど」

「楽しかったよ。月並みな言い方になるけど、大学行って、友達と遊んで、その勢いで朝まで飲んでさ。はじめて親元離れて……最初の頃は自由が得られたことより不安のほうが大きかった。でもそれは他のみんなも同じだったから、仲良くなるのも早かった」

「そうなんだ。東京ってどんなところだった?」

「日常の景色に山が無かった、が最初の感想だったかな」

「山?」

「この町は向こうのほうに山が見えるでしょ。普段は意識なんかしてなくても、街外れの開けた場所とか、ショッピングモールなんかの高いところとかに行くと、向こうに山」

「山がないほうが西。それ以外には山がある。それが当たり前の景色」

「あたしが下宿してたのは世田谷で、近くに大きな公園もあったから、よく言われるみたいに『窮屈で自然がない』ってのは無かった。でも山が見えない。遥か遠くにあったとしても視界が開けてないから見えない。見えて当たり前のものがそこにない。それにけっこう戸惑った」

「本能的な、違和感?」

「そんなに大袈裟なものじゃないわよ。すぐ慣れたし。あとは……人は多くてもずっと賑やかって感じでもなかった。建物はぎゅうぎゅうだけど住宅街は夜も静かだったし」

「生活は便利だった?」

「クルマがなくてもなんとかなるってのが一番大きかったかな。食品や日用品を買うスーパーは徒歩十分くらいで行けるし、それ以外も駅前まで行けばだいたい揃ってる。都心に行かなくてもね」

「こっちとは全然違うね」

「日常の生活圏が狭いの。都心にだって電車に少し乗れば行ける距離にはある。でも乗り換えは多いし、行ったところで色んなものが溢れすぎてて、逆に何を見ていいかわからなくなっちゃってさ。好きなアーティストのライブとかイベントにすぐ行けるのだけは最高だったけどね」

「お姉ちゃん、『ZOEA』とか好きだったもんね」

「こっちだと遠征で一日まるまる使うか、下手すれば一泊だし。だからまあ、ヒマとおカネ、それから興味にかける気力さえあれば、適度に出かけられていつまでも楽しんでいられる……かもしれない。あたしはヒマはあったけどおカネはあんまり無かったし、気力もそこまでは無かったから、二年生の後半くらいからはしばらく下宿先とバイト先と大学の往復になってた。もともと賑やかなのは好きだったはずなのに。勿体なかったかな」

「じゃあ東京って場所は、あんまり良くなかった?」

「向こうには向こうの良し悪しがあるし、こっちにはこっちの良し悪しもある。観光に行くのと住むとでも全然違う。もしあんたが向こうの大学に行ったとしたら、予想以上のこともあるし“思ってたほどでもない”ってこともあるかもしれない」

「ふうん」

「って、なに。妹の進路相談やらされてんの、あたし?」

「あはは。そういうわけじゃないよ」

「何よ急に笑ったりして。まあ、もしあんたにその気があるなら行ってみてもいいんじゃない? 楽しいか楽しくないかなんて体験しないと分からないわよ。あたし個人としては“東京の大学”ってシチュエーションそのものが一番良かった。さっきも言ったけど、あたしはあたしと同じように上京してきた友達と一緒にいたから良かったわけだし。それに色んな境遇の人がたくさん集まるのって、単純にそれだけで刺激が多いわけだから」

「うん」

「あんたって昔から……だしね」

「なにか言った?」

「いーや、別に」

「変なの」

「変なのはあんたの方でしょ。あ、あとちゃんと友達は選んで作ったほうがいいわよ。ヤバい友達にあってヤバいところとかについていかないこと。あとオトコもね」

「ありがとう。お姉ちゃん」


「……」

「どうしたの?」


「なんか、あんたの声をすごく久々に聞いた気がするわ。いや、毎日は喋ってるけど、そういうことじゃなくて、なんというか」


「そう?」


「まあいいや。おやすみ」


「おやすみ、お姉ちゃん」


―――


 私は、いつもの私だ。

 私は私なのに、おかしなものだなと思う。


―――


 翌日。木曜日。昼休み。


 どうやって学校に来たか思い出せない。


「なんか日焼けの痕、また黒くなってない? ちゃんとケアしとかないと肌ガサガサになるよ。クリーム塗ったげる」

 保湿クリームをまとったヒナの細い指が私の二の腕を滑っていく。暖かく、柔らかく、湿った……こそばゆいような、心地良いような感覚。

「ありがと」

 私が礼を言うと、ヒナの指がぴたりと止まった。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

「“私の声をすごく久々に聞いたような気がする”って言いたげな顔してた」

 ヒナは慌ててかぶりを振る。

「いやいやそうじゃない、そうじゃないって。なんでそんなこというかなあ?」

「私は私だよ」

「なーに言ってんのよ」

 少しだけ強めにクリームが塗りたくられ、最後にぺちんと肌を叩かれた。

「罰ゲームでもしてんの?」

「あ、ミツキ。聞いてよ。私がせっかく気を利かしてるのに、この子ったら変なことばっか言ってさ」

 ミツキが隣の席に加わり、二人で私を囲む。いつもの席順だ。

「変なのは確か」

「ミツキまでそんなこと言う?」

 私がけたけた笑いながら言うと、ミツキはそれを茶化さず、真顔になってこちらの顔を覗き込む。

「あんたとはだいぶ付き合いも長いけど、少なくとも、クソ暑い中でスマホや財布も持たずに砂浜を裸足で歩くようなガラじゃなかったよ」


 キュイ、と目の奥で何かが高く唸る音がして、彼女の顔に焦点があう。

「そうかもね?」

 私は彼女の顔を見つめかえし、そう返事をしてまた笑った。


「まあまあ。色々興味が出てきたのはいいことじゃん」

 何かを察したように、ヒナが私達の間に滑り込む。

「それより今週末、久しぶりに三人で“駅前”まで行こうよ。せっかくこの子が“ガラ“になったっていうなら、色々やらせてみたいじゃない」

「あたし達が保護者やってるみたいな言い方するわね。まあ、いいよ。ちょうど新しいバッシュ買いたかったから」

「身に着けるものってネットで見ても分からないしね」

「日曜でいい? 土曜は家の用事があるし」

「私はどちらでもいいよ」

「決まり。日曜日ね」


 あっという間に七月も初旬が過ぎ、来週の半ばからは長い休みになる。

 休みになるということは、学校にもしばらく行かなくなるということ。

 学校に行かないということは、みんなと会う機会も減るということ。


 勿体ないな、と思う。

 せっかく人がいるのに。

 こんなにも賑やかなのに。


―――


 放課後。天文部にヒナと私とで行く。本も返したから特に用事もないのだけれど、ヒナが「いちおう、顔を出しに」というので私もついてきた。


「夏の観測会、どうすっかな。去年までは向井先生がノリノリで主導してたからほぼ任せっきりだったけど」

「無理してやることもないんじゃないですか」

「そりゃあそうなんだが。最後の夏だし。俺も最後の部長としてちゃんとしねえと先生にも先輩にも申し訳が立たねえ」

「ねえダイキ。最後、ってどういうこと?」

「ヒナには言ってなかったっけ。天文部、今年度で廃部なんだ」

「えー」

「そりゃそうだろ。部員は俺達二人で、来年はダイキしかいねえ。今年まだ残ってるのも部室の後始末させるのが目的みてえなもんだ」

「でもこの前、体験入部がどうのって話してたじゃないですか」

「入ってくれるならありがたいけどな。半分はジョーダンみたいなもんだ」

 私とヒナはいつものように顔を見合わせる。


「じゃあ、なおさら最後の観測会、やらないといけませんね」


 そう言った瞬間、姉……それからヒナとミツキに続いて、ダイキとフミヒト先輩もまた私の顔を見た。

「あ、ああ……だからまあそういうことだ。でもアシがねえから去年と同じにはならないだろうな。夜中に山登りするわけにはいかねえし」

「海とかはどうですか。砂浜で」

「周りに光源が少なけりゃいいからそれもアリ。どこでやるにしたって泊まりで合宿なんかやれないから特別感は薄れちまうけど」

「どこであれ、誰かと空を見るのって素敵なことじゃないですか」

 もう一度、フミヒト先輩は私の顔を見る。

 そんなことを言う人間だったか? と言わんばかりの表情で。


「結局、二人ともどうするの?」

「どうしようか。とりあえず月末くらいまでに決めておく。わかったらダイキにメッセージしておくね」

「飛び入りでもいいぜ。事前に予約するものもねえしな」


―――


 誰かと空を見るのは素敵なこと。

 それは一人で見るよりもずっといい。


 何よりそれらをすぐに伝えることができる。

 データ送信なんかじゃなく、自分の声で。


 そのために、私には言葉がある。


―――


 梅雨空が去り、季節は本格的な夏。海開きの日もたぶんもうすぐ。


 季節が巡れば景色も変わる。遙か地平線の彼方――地球の大気が作り出す立派な雲が傾きかけた太陽に照らされ、オレンジ色の輪郭を作っている。

 この町の冬は低い雲がずっと垂れ込めていて、日本海側から強い風が吹き付けてくるし、太陽が出る日のほうが少ない。だから夏の青空と立派な雲はなおさら印象深い。空、気温、植物、人々の装い。同じ場所でも全然違う。それが私達の町の四季。目映すぎるほどに鮮烈な地球の四季。


「運動系の部活だと、夏休みも学校来たり、気合い入れて夏合宿とかやったりするんでしょ。女子バスケもそうだってミツキが言ってた。こんな暑いのに大変だなって」

「充実してる夏だと思わない?」

「てっきり、ダルいよねーなんて言うと思ってた。そういえばそっちも最初はソフトボール部に入ろうとしてたんだっけ?」

「なんとなく、ね」

「みんなそうだよね。部活も進路も“なんとなく”でさ」

「でも“なんとなく”でも、その中で好きになっていくこともあると思うな」

「好きなわけでもないのになんとなく部活に入ったつもりが、いつの間にか好きになってたり。ダイキも同じようなこと言ってた」

「きっとね」

「面白いよね。選ぶも選ばないも自由なのに。ミツキも、家の旅館を継ぐのって強制されてるわけじゃないんだって。でもあの子はそれを選んだ。私は『イマドキじゃないなあ』なんて思ってたけど」

「自由って難しいよ。束縛されてるようでも自由に感じられることはたくさんあるし、逆に自分の道を自分で決めてるように見えても実際は自由なんかじゃなかったりして」

「部活くらい入っておけば良かったって後悔した?」

「ううん。部活に入らなかったのも、それが私の“なんとなく”だったから」

 ヒナは私の顔を覗き込む。 

「……やっぱり変だよねー、なんか」

「そう?」

「いきなり深いこと言うようなタイプじゃなかったのに」

「ヒナ、私のことをなんだと思ってるの?」


 ああ。何もかもがあの場所とは違う。

 色とりどりの景色があって、気さくに話ができる友達もいる。


「“駅前”の改札でも同じようなこと考えてたの、私」

「うん」

「行っても良かったんだ。新幹線に乗って東京まで。誰も止める人なんかいなかったし。でも私は行かなかった」

「なんとなく?」

「なんとなく家出して、最後の最後まできて“なんとなく”私は東京に行かなかった。って……私、変だな。何言ってんだろうね」

「わかるよ」

「ほんとにぃ?」

「ほんとだよ」

「……まあ、変なのはお互い様だね」

「うん」


 二人いれば、こうして話もできるし笑い合うこともできる。

 それは、一人ではできないこと。


「週末。楽しみだね。もういきなり東京とか行かないからさ。遊ぼうよ」

「そうだね」

「夏休みになっても遊ぼうよ。もちろん三人で。面倒くさいなんて言うのはナシだから」

「そんなこと言わないよ」

「普段なら言いそうなのに」

「私、今は“変”だから」

「そうだね」


 空の向こうには、いつの間にか真っ黒な雲が現れていた。


―――


『部活終わって帰ろうとしたらゲリラ豪雨だもん』『嫌んなる~』

『私達が家についてすぐくらいだもんね』『降ってきたの』

『いいなあ』(鬼の形相をした“おいかわ”のキャラスタンプ)『この帰宅部どもめ』

『そういえば』『バイク乗ってる時に雨降られたりしたらどうすんの?』

『まだ降られたことないからわかんないけど』『お兄ちゃんはずぶ濡れになってても走れば乾くって言ってた』

『洗濯乾燥機みたい』


 ヒナとミツキと私のグループチャット。いつも通りにメッセージを交わす。お互いに既読がついて後が続かなくなったくらいで、スマホの電源をオフにして充電ケーブルに繋ぐ。そしていつも通りに布団へと潜り込み、いつも通りに眠りにつく。

 でも今日の気分はいつも通りじゃない。真っ暗になった自室には虚空と静寂が沈んでいる。窓の外を見ても黒く塗りたくられた世界があるだけ。おまけに何の音もしない。それが私の心をひどく不安にさせる。消したばかりのスマホの電源を点けても、眩しいばかりで不安は晴れない。


 気付けば、私は掛け布団をひっつかんで自室を出ていた。


「お姉ちゃん」

「うわ! ちょっ……びっくりした」

 隣にある姉の部屋に入る。照明を落とした暗い中、姉は枕元のポータブルテレビで録画したドラマを見ていた。

「な、なになに、どうしたの」

 布団を抱えた妹がいきなり幽鬼のように入ってきたのだから、それは驚くだろう。


「一緒に寝ていい?」


 申し訳ないと思いつつ、私は返事も聞かずに床へと寝転がって掛け布団をかぶる。

 私の中に湧き出したひとつの感情が、ごろごろと異物のように澱み沈んでいるのがわかる。それに一人で向き合いたくなくて、私はここに来た。


「まあ、いいけど」

「ありがとう」

「ってか、あのさ」

「うん」


「なんであんた、何も着てないの?」


「さあ?」


―――


 そして私は“私”になった。


 ここから先の記憶は――とてもおぼろげになっている。

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