SELF

 今日は天気が良かった。だから順調に進むことができた。


 天気も良ければ体調も良い。足取りも軽い。裸足の裏が砂を噛む感触が心地よくて、私は一歩一歩を踏みしめるように歩く。

 吹いていた嵐はようやく止んで、今は穏やかな微風が頬を撫でるくらい。空は澄んでいて太陽光をいっぱいに浴びられる。いつもは強烈に降り注ぐ紫外線さえ今日は少し和らいでいるように思える。視界も良好でどこまでも遠くを見通せる。毎日がこんな天気だったらこの旅はどんなに順調だろうか。呼吸を整え、どこまでも歩く。歩くことは私の使命。でも強制されて歩いてるわけじゃない。これが私の目的だと、心からそう思ってるから。


(私が持たない感情が、私の中にある)

(東京だって、海外だって、月だって、私はどこにでも行きたいと思っている)

(たとえそれが手の届かない場所であっても)


 見たことのない景色。踏み入れたことのない場所。もっと見つけないといけない。もっと探さないといけない。向こうに行けないなら、別の方に行けばいい。私にはそれができる。留まることは許されない。私は行かなくてはならない。私は進まなくてはならない。


 太陽が真上に昇る頃、突如として左脚が刺すように痛み、私はその場に膝をついた。へこんだままの左脚。着陸した時に挫いたもの。なんとか誤魔化しながら歩いてきたけれど、不調は日に日に増していく。


 再び立ち上がろうと砂に手をつく。

 砂が、少しだけ湿っていた。


―――


 火星に水はない。川や海の痕跡はあるからかつては存在していたらしいけれど、それはもう数十億年前も昔のことだという。今は乾いた大地があるだけ。水がなければ命は生きられない。だからここには命はない。

 火星に水はない。……ない、とされている。もし今でも残っていることが分かったのなら、それは私達にとって大きな一歩だ。私が自分の脚で踏み出す一歩よりも大きな大きな一歩。水があるというなら、どこかにきっと命も――。


「……」


 私は湿った砂を掴んで自分の手に擦り付ける。間違いない。やっぱり湿っている。手に取った砂の一部を口に含んでみる。私の舌は砂の苦みと少しの塩味を感じる。塩化ナトリウム、それから塩化マグネシウム――ミネラルを多量に含んでいるのだろう。


「……っと」


 ともかく水だ。火星に水がある。無くなったはずのそれを、私は見つけた。身体を起こして周囲を見渡す。この発見を誰かに伝えないといけない。ここに水があることを、ここに命の可能性があることを。叫びたくてたまらない。私が居る場所のことを誰かに――。


「ちょっと。……ねぇ!」


 誰かに、腕を掴まれた。


―――


『気象庁から、関東甲信・北陸地方の梅雨明け宣言が発表されました』

『今年は例年より大幅に早く、七月を待たずして……』


 土曜日。昼。砂浜近くのコンビニ『スライドストップ』。店内に流れるFMラジオが夏のはじまりを告げる。


「はい、これ」

 渡されたミネラルウォーターは掌に刺さるほどに冷たい。慌ててジーンズのポケットから財布を取り出そうとしたけれど、そこには何も無かった。財布もない。スマホもない。何も持っていない。

「今度返してくれればいいよ。まあ、別に返さなくてもいいけど」

 店内の隅にあるイートインコーナーに二人で座る。


『今後は……に渡って暑さが続くと見られ……』

『不要な外出は……水分を……』


 海水と砂にまみれたジーンズの両裾はようやく乾きだしている。サンダルを履いた足の裏は砂浜の熱にやられてヒリヒリしていた。

「偶然と、あたしの目の良さに感謝してよね」

 ナツキは額から流れる汗を袖で拭い、手に持っていたキーを指でもてあそんでいる。窓越しに見える駐車場には炎天下に晒された真っ赤なバイクが一台。エンジンが剥き出しのネイキッドとかいうタイプで、ナツキのものだ。メタリックレッドのタンクが太陽光を反射してぴかぴかと光っている。

 梅雨明けのショートツーリングでたまたま海沿いの国道を走っていたナツキは、砂浜を裸足でうろつく私を遠目で見つけ、その様子のおかしさから駆け寄ってきてくれたらしい。おまけにその時の私は履いていたサンダルを脱ぎ、小石の散らばる砂浜を裸足で“一歩ずつ踏みしめながら”歩いていたらしい。

 らしい、らしい、というのは、その間の記憶が私に無いからだ。

「砂浜を散歩してるだけかなと思ったけど、それにしちゃ様子がヘンだったし、おまけにいきなり膝をついて砂を舐め出すんだもん。声かけてもなかなか反応ないし」

 私が“自我”を取り戻した瞬間に目にしたのは、珍しく焦った顔をしたナツキだった。それから軽い脱力感を覚えた私は近くのコンビニまで連れられ、こうして介抱されている――というわけだ。直射日光に晒され水も飲まずにふらついていればこうもなる。

「入水でもしそう勢いだったよ、さっきのあんた」

 なんでもないよ、と返す。

「それならいいけどさ」

 本当はもっと呆れた顔をしたいだろうし、言いたいこともあるのだろうけど。

「散歩するなら水分とって、日焼け止めくらい塗らないと。小学生じゃないんだし小麦色の肌で誰にアピールしたいわけでもないでしょ」

 私はナツキに、ごめんね、と言った。ヒナのことといい、彼女もよくわからない行動をとる友人二人をもって心配をかけさせているはずだから。


 体内にこもる熱が冷房で徐々に抜けていく。冷静になると何か甘いものを口にしたくもなる。レジ上にあるメニュー表を見る。ホットスナック。ソフトクリーム。そして新発売のハロハロかき氷。これ食べたい、と伝えると、ナツキは今度こそ呆れた顔を浮かべた。


「今度、ダムダムハンバーガーのセット。あんたの奢りね」


―――


 ナツキがバイクに乗っているという話は前に彼女自身から聞いていた。年上の兄の影響もあり、自分も乗ってみたくなったのだという。老舗旅館の跡継ぎとして両親からは緩く反対されたというけれど、結局は教習所の代金も半分出してくれたらしい。あの赤いバイクも兄のお下がりで、私達の生まれ年と同じ〇七年製……今では珍しい四気筒の二五〇CC……とかなんとか。私にはよくわからないけど。

「趣味くらい好きなものやらせてあげたいってのもあったのかもね」

 女子バスケの部活にも入っていて、おまけにバイク乗り。学校ではむしろ女子にモテるタイプ。この高校生活を一日も無駄にすることなく全力で取り組んでいる。それがナツキだ。

 バイクがあるということは自由に出かけられるということでもある。自分の意思で、電車やバスの長い待ち時間を気にすることもなく、改札をくぐることもなく。いつでも、どこへでも。

 もちろん言葉通りの意味ではない。学校もあれば家もあるから自由な旅なんて出来るわけでもない。そして彼女はこの町にある旅館を継ごうとしている。それは両親からの期待だけではなく、自身がそうすると決めたことだ。だから進路希望も迷っていない。


「東京までバイクで行けるかって」

「そりゃ行けるけど……関越使って、練馬インターまで、えーと二百七十……うげ、お尻が痛くなりそう。お兄ちゃんのシービーなら余裕だろうけど」


 この町から東京までは約二百七十キロメートル。

 この町から月までは約三十八万キロメートル。

 この町から火星までは約一億キロメートル(それ以下、あるいはそれ以上)。


「後ろに乗せる? あたし免許取ったばっかだし。一年以上経たないと出来ないし。あとメットもないし」

「いつか、ってことね。わかった。来年のゴールデンウィークで一年経つから、そうしたらイケるよ。メットはお兄ちゃんの借りればいいか……さすがに三人乗りは出来ないから、あんたとヒナとで順番こにしよう」


 ナツキは、私やヒナみたいなのをどう思っているのだろう。

 聞いてみたくても、今まで聞いたことはない。


「じゃ、あたしはもう行くから。そっちはゆっくり休んで。ちゃんと帰ってよ」


 クオーンと甲高い音(彼女いわくエンジン音が好きなのだという)をたててバイクは颯爽と駐車場から出て行く。私はそれをガラス窓ごしに見ながら、溶けかけのハロハロかき氷をスプーンで崩し、残しておいたトッピングのパイナップルを口に運ぶ。


 駐車場の向こうには海が見える。

 青い空の下、水平線の向こうまで広がる日本海。


 そして海開き前の、まだ閑散とした砂浜。


―――


 サンダルをペタペタと鳴らし、家に着いたのは夕方前。姉が帰宅する前に帰ってこられたのは幸いだった。財布もスマホも置きっぱなし、おまけに玄関には鍵もかかっていない。そんな状況を見られたら家出少女にしか思われないだろう。両親も不在の中、これ以上姉に余計な心配をかけたくない。


 どうして私はあんな場所にいたのか。

 姉は朝から出かけていて家は私一人だった。朝食を食べたところまでは覚えているけれど、以降の記憶がない。気付けば私は財布も持たずに家を出て、海水浴場でもない小さな浜を一人で歩いていた。数日前の放課後と同様、自分の意思と関係なく勝手に……山が難しいなら今度は海、と言わんばかりに。

 まるで何かを探すかのように。

 まるでここではないどこかへ進もうとしているかのように。

 まるで火星探査機のように。


 夜中に私が“火星に行ってしまう”のと同じように、逆のことがこの身体に起きている。入れ替わり。あるいは同一化。まさか。異世界転生のほうがまだ夢がある。探査機は生き物じゃないし意思もない。入れ替わりなんて起きるはずがない。そう思いたいけれど。


 全身は汗まみれ。部屋の冷房を全開にし、洗面所の蛇口から水を飲み、それから着ているものをすべて脱ぎ捨てて風呂場に駆け込み、茹だりかけのアタマを覚ますように冷水のシャワーを浴びた。汗と海風で粘つく髪を丁寧に洗う。うっすらと焼けはじめの肌が刺すように痛む。私の肌はセラミックや合金で出来ているわけじゃないし、私の脚はタイヤじゃない。裸足で焼けた砂を歩き、紫外線を浴びればこうもなる。今から対策しても何の意味もないだろう。


 それから、外見には何の変化もないけれど、左脚の痛みもまだそこにある。


―――


 荒唐無稽には違いない。誰に打ち明けられることでもない。でもそれは実際に私の中で起きている。だから私が私でなくなる前に解決しなければいけない。もし本当にそれが現実で、火星探査機が私の意思と身体をジャックしているのだとしたら、いったい“それ”が何が目的なのか。

 かたや日本海側の地方都市にいる女子学生が一人。かたや人類が踏み入れたことのない場所にいる機械が一基。私達を隔てる距離は数億キロメートル。話しかけても届かない距離。行こうとしても届かない距離。


 まだ姉は帰ってきていない。汗まみれの洗濯物を洗濯機に突っ込んだ後、私は冷房の効いた自室に戻る。自室デスクの上には、天文部の部室から“借りて”きたあの古い本がある。昨晩まで読んでいたページをめくり、再び読み返す。

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