Good-bye my mars

黒周ダイスケ

VISIONNERZ

 それは先週末のこと。

 六月半ば、やけに蒸し暑い土曜の深夜。


 照明を落とした部屋の隅で、私はいつものように布団を被りながら動画サイトを見ていた。見ていたのはゲーム実況だか猫のハプニングだか……そんな中、ランダムに再生された一本の動画に見入ってしまった。数分のあいだ早送りのスワイプひとつもすることなく、何故だか私はそれをじっと見つめていた。

 横画面にしたスマートフォンに映っていたのは地平線の向こうまで広がる赤砂の荒野。起伏の激しい山や丘はあっても木々や森はなく、川も海もない。カメラの仰ぎ見る空もまたコーヒーミルクみたいな薄茶色をしていて、けれどその空気は不思議なほどに澄んでいる。

 内容といえば、一台のカメラがパノラマ画像を流しているだけ。派手な演出やテロップも劇的な音楽もない。これが何なのかの解説がついているわけでもない。動画は淡々と、音もなく映し続けている。


 でも。

 そこは地球上に存在しない。

 それだけは動画のタイトルを見れば分かる。


『Mars Rover's Camera(4K)』。


 その場所は、火星。

 火星の、どこか。


―――


 私は十七歳。まだ体験してないことも行ってない場所もたくさんある。

 もしこれから行きたい場所ができて、目標に向けて努力をしたのなら、私はたぶんそこに行けるだろう。必要なのはおカネか知識か。でもそれを為すだけの時間がある。山でも、街でも、島でも。国内でも、海外でも――それから月なんかも。


 例えばの話。もし月に行くのに本気だったら、私は今から一生懸命勉強をする必要がある。そしていい大学に入ってナントカ機構とかそういうのに所属して、そこで色んな研究をして、あのモコモコした宇宙服を着て……行けるかどうかは分からないけど、少なくともチャンスを掴むことはできる。

 もちろん、やればできる(かもしれない)ということと実際にやるかは別だ。本気で月に行きたいなんて思ってない。今のところ私は何かに向けてそこまで一途じゃない。月に行きたいなんてのはあくまで“例えば”だ。

 それに……いつか私がおばあちゃんになる頃くらいには、宇宙飛行士になんかならなくても、おカネさえ出せば誰でも月旅行くらいは行けるような……そういう未来になってるんじゃないだろうか。そんなことさえ身勝手に思っている。


 じゃあ火星はどうだろう?


 あの動画で見た、カメラごしの火星はどこまでも殺風景な荒野だった。もっと綺麗で雄大な場所は地球にもある。ウユニ塩湖とか、南極とか……そっちのほうが“いつか行ってみたいランキング”ではよほど上だし、現実的に行くことも(行こうと思えば)できる。

 でも火星はたぶん一生かかっても行くことができない。私だけじゃない、現代に生きるヒト達がどれだけ望んだとしても、今はまだ決して行くことができない。そこに辿り着けたのはナントカとかいう探査機だけ。


 どうしてそんな当たり前のことに思考が固着したのかはわからない。あの夜の私はずっとそんなことを考えながら動画を見ていた。どんなに努力をして、どんなに幸運に恵まれたとしても、直接その目で見ることは絶対にできない、そんな景色を。ただ、じっと。


 その由来不明の感情を“心惹かれた”と呼称するのなら、それはきっとそうなのだと思う。


―――


「早く起きないとまた遅刻するよ。あたし、先に出てるからね」


 そんなことを火曜の朝になってふと思い出したりした。つまり昨日まではすっかり忘れていたということだ。

 高校生活は何事もなく過ごせているし、気になることといえばそろそろ美容院に行きたいなという程度。未だ明けていない梅雨の湿気った空気は問答無用で前髪をグニャグニャにさせる。

 今朝もそうだ。出かける直前、跳ね回る髪を無理やり押さえつけながら、私はカバンの中身にあった進路希望シートが未記入なのを思い出す。進路と言われてもまだ分かるはずがない。学校に着いたら「進学」と書いて出せばいいだろう。一瞬だけ「宇宙」と書いてやろうかと思ったけれど、面白くもない冗談だったので止す。

 あの日に見た火星の景色に惹かれたから宇宙飛行士を目指すんです、なんて……そんなドラマティックな話じゃない。実際、この十七年間を生きてきて“どうしても行きたい場所”など見つけたためしがない。ずっとこの街で生きてきたし、何ら不満は感じていない。慣れた景色。慣れた道。慣れた家。それに飽きたことなんてない。旅行だって正直面倒くさいという気持ちのほうが勝っている。ましてや将来のことなど尚更で、マジメに考えたことなどないし、なるべく考えたくもなかった。

 なんとなく生きて。なんとなく高校を卒業して。なんとなく大学に行って?

 なんとなく旅行したり。なんとなく趣味を持ったり。なんとなく恋愛したりして?

 これからもそういう風に生きていくのだろうと思っている。


 学校に着く。進路希望に「進学」と書いて提出する。担任は私のシートを一瞥しただけで、すぐに他のみんなと同じシートの束に差し込んだ。


 私は十七歳。


 自分が何をしたいのか、何処へ行きたいのかも分かってない。


 でも私は、きっと一生のうちに火星に行けることなんてない。


―――


 生きているうちに火星に行けるかどうか、なんて普通の人は考えない。

 ……それはそうなのだけど。


 週末の夜に見たあの火星のパノラマ画像が、今朝になってからもアタマの隅に残り続けている。「忘れられないほど感動した」なんて言うほど大袈裟でもないけど、小さなトゲみたいにずっと引っかかり続けている。


 ドラマも小説を見た後の感動もだいたいは一過性だ。日常に戻って学校へ行って、家に帰ってお風呂に入って寝たりすれば、大抵は忘れてしまう。「あのドラマ、楽しかったよね」なんて後から思い出すくらい。

 今回もどうせそうなるのだろうと思っていた。日常生活を送るうちに、何かの拍子で消えてしまうのだろうと。

 でも、そのトゲは抜ける気配がない。


「あんた、どうせまた昼ご飯食べてないんでしょ。夕飯の支度するから先にお風呂沸かしてて」

 お姉ちゃん、火星のことって知ってる? なんて突然言い出したら変な妹だと思われるだろうか。もちろん本当に聞いたりはしない。興味があるものなんて今どき手元のスマホでいくらでも調べられる。あの動画だっていくらでも見返せる。

「お父さんたち、月末に帰ってくるってさ」

 ご飯を食べて。お風呂に入って。リビングでドラマを見る姉に「おやすみ」を言って。私はいつものように平日の夜を過ごす。

「明日の朝、いつもより早く出るからね。起こしてあげられないから、今夜くらいは夜更かししないでよ」


 部屋に戻る。ベッドの縁に座ってメッセージアプリの新着履歴を確認する。友達から送られてきた動画を見て、アホだね、とか適当に返信したりする。そんなことをしているうちに長針はどんどんテッペンに近づいていく。照明を消して横になり、スマホを充電ケーブルに繋ぎ、起床アラームをオンにする(普段つけないから、やり方に戸惑ってしまった)。それからいつもの手癖で検索バーを開く。


『火星 探査機 カメラ』


 そこまで打ち込んだあたりで急激な眠気が来る。

 普段ならこんな時間に眠くなるわけもないのに。

 夜更かしするな、と言われた通りにしたわけでもないのに。


 握っていたスマホが手元から滑り落ちる。

 全身の力が抜け、意識が遠退いていく。


 身体が溶けるような感覚。

 風に吹かれるような感覚。


 それから……。


―――


 意識が飛ぶ。


 気付けば、私はどこかの荒野に立っていた。

 ぼやけた意識は時間をかけて覚醒し、同時に視界も鮮明になっていく。硬直していた身体もそれに伴って動かせるようになる。


 はじめに感じたのは身体の重さだった。時間をかけてようやく右足を踏み出すと、きめ細かな赤砂が足の裏をふんわりと覆う。それからもう一歩、と思っても――次の左足はまるで動かない。仕方なく右足だけを踏み出した姿勢のままあたりを見渡してみる。足と同じように首もなかなかうまく回らなくて、左から右までたった数十度を見渡すだけでもすごく時間がかかった。


 しばらく経ってからようやく身体が自由に動かせるようになってきた。左足を前に踏み出し、もう一度、今度は右足を踏み出す。一歩、一歩と歩く。そのたびに砂の柔らかさを感じる。ふわりふわりと私は荒野に足跡をつけていく。

 さらに行く先にはごつごつした岩がいくつも転がっている。あれに躓けば転んでしまうだろう。迂回しなけば。


 ふと後ろを振り替えると、私が踏みしめてきた足跡があった。それは人間の裸足の跡ではなく、しましまの帯……履帯の跡に変わっていた。


 目の前には丘がある。見上げるほどに高く思えるけれど、そうでもないような気もする。実際のスケール感はあまりにもめちゃくちゃで、大きなものが小さく見えたり、小さなものが大きく見えたりする。

 どちらにしても登るしかない。ところどころの急斜角を避けつつ、どうにか上れる場所を探しながら歩く。何故そこまでしてこの丘を上ろうとしているのかは自分でも分からない。でも上らなくちゃいけない。私は丘を越えた先に行かないといけない。その思いだけがある。


 考えれば考えるほど、私の身体は再びどんどん重くなっていく。


―――


 意識がまた飛んだ。


 気付けば私はいつの間にか丘に登っていて、その上で歩みを止めていた。

 見晴らしはよく、大パノラマというには程遠いけれど、彼方に広がる景色を見渡すことができる。それぞれ模様と濃さの違う赤土に覆われたいちめんの荒野。薄茶色の空。でも埃っぽくはなくて、大気は不思議なほどに澄んでいる。


 荒野は微かな風が吹いていた。私はそれを肌で感じていた。

 荒野は暖かくも冷たくもなかった。私の肌は温度を感じることがなかった。

 荒野は他に何もなかった。私の他に動くものはなかった。


 もう一度首を動かして周りを見る。するとどこかの方角からか、白い光が山の向こうに沈もうとしていて、周囲の空だけがぼんやり青く染まっていた。薄茶色の空に美しいグラデーションを描く青……それは見事な“夕焼け”の青だった。


 私はこの場所を知っている。


 この場所は、火星。

 火星の、どこか。


―――


 意識がさらに飛んだ。


 気付けば私はベッドで丸まっていた。窓からは灰色の空が見える。たた、たた、と、打ち付ける雨の音が響いている。ここはどこだっけ、とアタマが状況を認識するまでに、またしばらく時間がかかった。


 急激に覚醒し、手元のスマホを見る。

 今日は水曜日。地球の、日本標準時にして――時刻は午前十時過ぎ。


 午前七時に設定したはずのアラームは……オフのまま。

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