5-A

 思わず手を伸ばす。去ろうとした腕を掴んで、家の中に引きずり込んだ。日菜子から渡された紙袋が、その勢いで落ちて鳴った。

 扉が大きな音を立てて閉まる。夕日の最後の一差しが遮断される。暗がりの中で、なぜか視界は明瞭だった。近付いた香りに、頭が煮える。

(……あまい)

「ど、どうしたの、橙くん……」

 戸惑いながら見上げる目が、僅かに艶めいて飴玉のようだ。首筋が白く浮き上がって見えた。握った腕の中で、血が温かく脈打っていた。

「……ごめん」

「え? ……な、にが……?」

 許されることじゃないのは分かっている。許されたいとも思わない。けれど、その言葉を言わないわけにはいかなかった。意味のない音だけのものになるのだとしても、最後に残された理性が言うべきだと主張していた。

「ごめん。本当に、ごめんな。でも、でも、……腹が減って、仕方ないんだ……!」

「え、えっと? お腹、空いてるなら、ご飯……」

 怯えている。当然だろうな、と思ったのだけれど。目線が揺れ、口元が引き攣って、けれど笑みのかたちは崩さない彼女の様子に、橙牙は僅かに驚く。

「わたしが、持ってきたやつ。食べればいいよ。あ、でも、足りないかな……?」

「……ごめん」

 目を爛々と光らせて、歯をがちがち鳴らして、自分の腕を容赦なく握っている相手を、彼女は気遣う。幼馴染で、恋した相手である橙牙の優しさを信じているから、彼女も迷うことなく優しさを差し出している。

 けれど、もう。橙牙はそれに報いることはできそうになかった。

「ごめん。好きになれなくて、……真っ当に好きになれなくて、ごめん」

 掴んでいる腕を、口元に寄せた。白い手首。ほんの僅かに日焼け止めの匂いがした。滑らかな肌の下、甘い血の香りを感じ取る。

 日菜子の手首に橙牙の唇が触れた。少女はキスシーンのようだと思ったけれど、それに浮かれることはできなかった。

「ごめん、……ありがとう、」

 なぜなら、その口づけの意味は、恋情ではなく、欲情でさえなく、

「――いただきます」

 純然たる食欲なのだと、日菜子は歯が差し込む痛みで理解してしまったからだった。

 あまりの痛みに、思考がぼやけていく。もがくことも逃げることも、いつの間にか忘れていた。筋肉も骨もひと息に噛み千切られて、どこにそんなに鋭い歯を隠し持っていたのだろう、と呆けてしまう。

 橙牙も驚いていた。けれどそれは自分の咬合力にではない。

(ああ、……うまいな)

 血はどんなものよりも甘く芳醇に香っている気がした。肉は柔らかく弾み、けれど口内で簡単に切れて蕩けるようだった。骨は白く、飴菓子のように舐りたいくらいだった。全部、ぜんぶ、橙牙が夢想していた以上に美味だった。彼が驚愕していたのは、その味わいにこそだった。

 床に血が零れそうになって、勿体ないな、と思ってしまう。慌てて啜って、喉を潤した。日菜子が痛みに息を呑む。顰めた顔、寄せられた眉の悩ましさに、橙牙の腹が低く呻った。手首を完全に千切り取る。

「う、うあ……」

 片手が取れただけなのに、重心を見失って頽れてしまったことに日菜子は驚く。けれど橙牙が腕を掴んでいたおかげで、尻餅はつかずに済んだ。

(……おかげで?)

 何を考えているのだろう。どう考えても命の危機で、それを与えているのは橙牙なのに。血が吸われすぎたせいか霞む思考の中、並ぶ言葉が腑に落ちず、自分を詰ってしまいたくなる。

 けれど同時に、彼女は気付いていた。歯が差し込む勢いも、腕を握る力も、あまりにも容赦が無いけれど。それと同時に、彼は、日菜子を最大限慈しんで、何より深く感謝を持って、彼女の血肉を喰らっているのだ。

 彼は理性を失くしても、人ならぬ食欲に突き動かされていても、日菜子を労わることを忘れていない。爛々と光る目の中に、彼らしい優しさが残っているのだと、日菜子は気付いていた。たとえ気のせいであったとしても、気休めであったとしても、そう気付いたのだということにしたかった。

「い、……いたい、よ。橙くん……」

「……そうだな。ごめん」

 橙牙は、それだけ言った。それだけは言うことができた。血の香りに、肉の味わいに、骨の歯ざわりに夢中になってしまっているけれど、その音を発することだけはできた。

 ず、ず、と音がする。手首の断面から、橙牙が血を吸う音だ。二人以外に誰もいない静かな家に、その音は這うように響いた。

 血の気が引いて、背筋が冷える。その感覚を言葉として理解する前に、日菜子は気を失った。その眠りは、もはや絶命と同じ意味だった。

「……が、……ぐ、うまい、……」

 橙牙は目の前の肉に酔い、溺れていた。それを動かしていた人格の名前も、このときには忘れ去っていた。ただ美味だと、ずっと口にいれていたいと耽るばかりだった。なぜ自分がさっき謝ったのか、なぜ自分の目から涙が零れているのか、何もかもを放り捨てていた。

 やがて、月が高く昇る頃。その家の玄関にいるのは、たった一人だけだった。すでに人間ではなくなった、ひとつの化物だけだった。

 肉も骨も残さずに、血の一滴も零さずに食べきったのに、まだ甘い匂いがして、彼は首を傾げる。どこだろうと辺りを見回そうとして、

「やあトウガ。ようやく、狩りが上手くいったようで何よりだよ」

「……マキ。うん、うまかったよ」

 眼前に現れたもうひとつの化物に、かつて少年だった化物は笑みを返した。

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