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 疲れていたせいか、随分寝入っていたらしい。こんなに深く眠ったのは生まれて初めてかもしれない、などど、ぼんやりと窓の外を見た。

 日の光は黄金色。空は橙色に染まっている。時計を確認すれば、午後六時半。半日以上寝ていたなんて。その驚きで、少しだけ頭が冴えた。

 何をしようとも思いつかなかったが、取り敢えずベッドから降りる。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 寝すぎて痛む頭に響く。顔を顰めて部屋を出て、何となく扉を開けた。開けてしまった。

「あ、橙くん! 元気? 体調悪かったりする?」

「……麻屋、どうして」

 そこには日菜子が立っていた。手には小さな紙袋を携えている。彼女は橙牙の言葉に、少しだけ唇を尖らせた。

「どうして、はこっちの台詞だよ。夏期課外にも部活にも出てこなかったらしいじゃない」

「あ、ああ、うん。寝てたから……」

「寝てたって……一日中ずっと? 良くないよ。どうせご飯も食べてないんでしょ?」

 食事なら、充分に。そう思ってしまったのが嫌でいやで、けれど吐き気もしない。それどころか、日菜子の首筋に、話す度にちらりと見える歯に、どうにも惚けて、鼻を鳴らしてしまいそうになる。

(……美味そう、なんて、思いたくないのに)

 そう思うことさえ避けたかったから、距離を置こうとしていたのに。何でよりにもよって、日が暮れだしてからこの家に来たのか。自分の不甲斐なさからくる苛立ちを、日菜子へと転化したくなって、しかし堪えた。

 何で来たのか、なんて分かっている。橙牙が学校にいなかったから。何故今なのかも分かる。日菜子は真面目に課外にも部活にも出て、それが終わってからここに来たからだ。

「もう……はいこれ。夕飯、少しだけどお裾分け」

 橙牙が黙ってしまったのを、日菜子は肯定だと思ったらしい。持っていた小さな紙袋を差し出して微笑む。思わずそれを受け取ってしまって、慌てて靴箱の上に置いた。

「……どうして」

「え?」

「なあ、日菜子。何でお前、こんなことするんだ。してくれるんだ」

 どうせ応えられないのに、何で。

 最後は、声にもできなかったけれど。それは橙牙が、ずっと思っていたことだった。

 呆然とした顔で、心底からただ訝るだけの橙牙を見て、日菜子はフリーズしてしまう。久しぶりに名前を呼んでもらえたことも、気にする余裕が無かった。

「何で、って……橙くん、本当に、気付いてなかったんだね」

 昔は、憎からず思ってくれていたはずなのに。それはきっと、日菜子の自惚れじゃあなかったはずなのに。この春に再会したばかりの幼馴染は、いつの間にか、すっかり自信を無くしていたのだと。彼女は今、ようやく理解したのだった。

「――好きだからだよ。……ずっと、ずっと好きだったからだよ! わたしが転校する前、好きだって、ずっと一緒にいてくれって、そう言ってくれたきみのことが、ずっと……!」

 その言葉に、今度は橙牙の方が硬直する。

(……そんなことを、俺が)

「……わ、るい。俺、覚えてなくて……」

「分かってるよ。四月に会ったとき、名前も顔も忘れられてたんだし。そもそも橙くん、昔から、人のこと覚えるの苦手だし」

 日菜子の言う通りだった。

 橙牙は昔から、人の顔や名前を覚えるのが異様に苦手だった。毎日顔を合わせるクラスメイトや担任ですら、誰が誰だか曖昧なのだ。親切にされても、褒められても、その相手のことを覚えていない。向けられた感情に、適切に返すことができない。その罪悪感と、橙牙はこれまでの人生を共にしてきた。

「でも、橙くんは優しいから。覚えていられないことを、親切に親切で返せないことを、申し訳なく思えるくらい、優しいから。だから、好きだって言ってもらえて、凄く嬉しかったんだよ」

 日菜子の声は、少し潤んでいる。顔は逆光で窺えなかったけれど、口角が上がっていることは分かった。橙牙への恋慕で満ちた表情を浮かべているのだと、直感できた。

 だからこそ、応えられない、と思った。渡される好意どころか、自分が渡した好意すら覚えていない不誠実な自分は、その想いに見合わないと、脳裏に言葉を並べた。けれど、その奥に。わざわざ並べるまでもない心底からの言葉が、想いが、願いがあった。

(人喰いの化物が、こんなやつの傍にいちゃいけないだろ)

 人間でいたいとは思う。人を食べたくないとも思う。けれど自分は、実際に人の血肉を食べてしまっている。人を、美味いと思ってしまっている。

 今だって、橙牙の腹は呻っている。満たせ、喰らえと低い声で。日菜子が視界に入るだけで、涎が口内に湧いて出る。その喉を噛み千切って、溢れた血を啜ったら、どんなにか甘いのだろうと、そんな想像が過ってしまう。

(ああ、――そうか)

『好きだ』なんて。『ずっと一緒にいてくれ』なんて。

 それは、日菜子が喜んだような、優しいものじゃあなかったのだ。覚えていない台詞の意味を、けれど橙牙は正確に推定した。

 渡したのは好意ではない。恋慕でもない。独占欲ですらなかった。それは、ただの、

(食欲)

 なんだ、俺は、とうの昔に化物だったんじゃあないか。

 橙牙は内心でそう独り言ちた。

 口を噤んでしまった橙牙に、日菜子は怪訝そうに首を傾げる。さらりと揺れた髪から零れた香りが、橙牙の鼻腔をくすぐった。

 日が沈んでいく。空の色は濃いオレンジから、黒に近い深い青へ。あの黄金色の光が届かなくなれば、それが自分の理性が途切れるときだろう。煮え立つようにぐらつく思考で、彼はそれを確信してしまっていた。

「……ねえ、どうしたの、橙くん」

 歯を鳴らしたくなるのを、どうにか堪える。

「ご、ごめん。困らせちゃったね。……あの、あんまり深く考えなくていいからね。そんなことより、ちゃんとご飯食べる方が大事だもの。きっとお腹空いてるから、ぼんやりしちゃってるんだよね」

 日菜子は少しだけ眉を下げて、揺れる声で言う。光が薄くなって、暗がりの中にあるはずのその顔が、よく見えた。

「じゃ、じゃあ、そろそろ帰るね。あっ、持ってきたタッパーはまた今度返してくれたら大丈夫だから。また明日ね!」

 数歩、後ろに下がりながら。彼女は手を振る。小走りに帰ろうとするその姿に、橙牙は、


 手を伸ばした→5-Aへ

 声を掛けた→5-Bへ

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