〈短編〉想いをゆらう場所

夕砂

想いをゆらう場所




 町のはずれに、その小さな花屋はあった。


 看板の横にある文字はすこし掠れていて、「伝えたい想いは、花に託して」と書かれていた。


 毎朝、店主は同じようにシャッターを上げ、花々に水をやる。


 開店時間を知らせるベルはなく、店内にはクラシックの音楽が静かに流れているだけだ。


 棚には、特別に目立つ花は置いていない。ただ、季節の空気をひそやかに映したような草花たちが並んでいる。


「あと三日で閉店なんですって?」


 通りがかった女性が、ふと店主に声をかけた。


 店主は、その言葉に笑って応える。


「花は、咲いて散るから美しいんです」


 


 最後の日、最初に訪れたのは、ランドセルを背負った小さな男の子だった。


 迷ったように入口で立ち止まり、そっと靴の音を忍ばせながら、店内に入ってきた。


「お花……ひとつ、ください」


 小さな声は、真っすぐだった。


 店主はしゃがんで、目線を合わせた。


「どんな人に贈るの?」


「……おばあちゃん。もういないけど、命日だから。お花が大好きだったんだ」


 男の子はそう言って、少しだけ微笑んだ。


 店主はうなずいて、小さな鉢の中から一輪の青い花を選んだ。


「この花、忘れな草っていうんだ。おばあちゃん、きっと喜んでくれるよ」


「……わすれなぐさ……」


 男の子は、ゆっくりその名前を口にしたあと、丁寧にお辞儀をして帰っていった。


 扉が閉まると、店内にまた静寂が戻る。


 けれど、小さな男の子が残したあたたかな空気は、まだ花たちの間に残っていた。



 午後になると、陽が少し傾き、店内にも長い影が差し込んでくる。


 木のドアが、カランとやさしく音を立てる。


 次に訪れたのは、スーツ姿の年配の男性だった。


 胸元のネクタイが少し曲がっていて、どこか不器用な佇まいがあった。


「カスミソウ、ありますか」


 目を伏せながら、男性はそう尋ねた。


 店主はうなずき、小さな白い花束を包みながら言った。


「奥さまへの贈り物ですか?」


「……ああ、いや。今日は、結婚記念日なんです」


 男性は照れたように笑った。


「昔、プロポーズのときにこの花を渡したんですよ。

 でも妻は“花より団子ね”なんて言って……今日は花束と一緒に、団子でも買って帰ろうと思ってます。」


 店主は黙って、そっとリボンを結ぶ。

 その手つきが、言葉よりも多くを伝えていた。


 花束を受け取った男性は、ふっと息をついて店をあとにした。


 その背中は、どこか誇らしげだった。



 陽が少し陰りはじめた頃、三人目の客がやってきた。


 風のように静かに現れた若い女性。長い髪をまとめ、瞳に少し影を落としていた。


「花を……贈りたい人がいます」


 そう言ったきり、彼女は少し黙り込んだ。


「どんな気持ちを伝えたいですか?」


 店主がそっと尋ねる。


 彼女は目を伏せて、かすかに笑った。


「ありがとう、と。……それから、ごめんなさい」


 店主は迷わず、ピンク色のスイートピーを手に取った。


「別れの花です。...でも、それだけじゃない。旅立ちの花でもあるんです」


「旅立ち……」


 彼女は、その言葉を小さく繰り返し、花を両手で受け取った。


 まるで、大切な人の手をとるように。


 


 


 日が完全に落ちる前、最後にやってきたのは高校生の女の子だった。


 制服のリボンを少しゆるめていて、どこかそわそわと落ち着かない様子だった。


「友達に……花をあげたくて。でも、ちょっと照れくさいっていうか……」


 店主は、チューリップを手に取った。

 赤くて、真っすぐで、春を思わせる花。


「この花は、はじまりの花。言葉にできない想いを、きっと届けてくれますよ」


 少女は花をじっと見つめてから、ポケットからくしゃくしゃのメモ用紙を取り出した。


 何度も書き直した跡が残るその紙に、ようやくたどりついた一言が書かれていた。


「――ありがとう」


 その言葉と花を胸に抱えて、少女は外の春風へと駆け出していった。


 夜。店主は、花の棚を静かに拭いていた。

 空っぽの棚はほのかに花々の匂いを残している。


 今日で全ての花が旅立っていった。


 でも不思議と、寂しさはなかった。


 シャッターをおろそうとしたとき、誰かがそっと、扉を開けた。




「こんばんは」


 顔なじみの郵便屋さんが、少し息を弾ませて立っていた。


「これ、お届けものです」

 彼が笑顔で差し出したのは、小さな花束だった。


 花は色とりどりで、丁寧に結ばれたリボンの端に、短い手紙が添えられていた。


 ――花屋さんへ

 今までたくさんの花をありがとうございました。

 あなたが届けてくれた想いは、今も私たちの大切なところで咲いています。

 最後は、私たちから花を贈らせてください。


 差出人は「この街の住民たち」。


 店主がこの町で渡してきた“すべての想い”の束だった。


 


 花束を胸に抱え、店主は小さく目を閉じた。


 店内が、ふわりと花の香りに満ちていく。

 色とりどりの花々が、今度は店主のために咲きはじめた。


 店主は静かに、嬉しそうに、笑っていた。


 店の灯りが、夜の街をやわらかく照らす。

 


 花屋は、あした静かに幕を下ろす。

 けれど、ここで生まれた想いは、

 きっとこれからも、誰かの心の中で咲き続ける。




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〈短編〉想いをゆらう場所 夕砂 @yzn123

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