3
戦が反射的にその場から飛び退った。片手を腰にさげた日本刀の柄に添え、距離をとって相手の姿を視界に入れる。
いつの間にか戦の背後――部屋の入り口に、一人の青年がにこやかに立っていた。まっすぐな長髪を小さな鈴がついたリボンでひとつにくくり、軽く首を傾けるとちりんと鈴の音が震える。
火亜がその姿をみとめて、戦に声をかけた。
「戦、刀から手を離して。敵じゃない」
「はい、敵じゃないですよー。僕は平和が好きな、ただの美青年です。ほらこの通り、武器も持ってません」
青年は両手を上げてひらひらと振ってみせる。不思議な身なりだった。白く線が浮かんだ石の耳飾りに、書生を思わせる服装。片目を覆うほど長く伸びた不揃いな紫色の前髪、猫のように細い目。本人の言葉通り、整った顔立ちをしている。確か、閻魔庁で働いていた青年だ。
見覚えのある姿と火亜の一声に、戦は少し緊張を緩める。
「貴方もお久しぶりです。何度かお会いしましたね」
細い目をきゅうっと吊り上げて、彼は楽しそうに笑う。戦は瞳に力をこめて、その笑顔を見上げた。
「……なぜ気配を消して近づいてきたのですか?」
戦はかなり気配に敏感なほうだ。それなのにこの距離までまったく気づかれず、扉を開ける音すらさせずに背後をとっていた。
「僕は空気みたいなものですから、気配とかないんですよ」
戦のぴりついた空気と測るような視線をものともせず、青年は飄々と笑って、火亜にくるりと向き直る。
「火亜殿、こちら書類のお届けです」
「ああ、ありがとう
「いえいえ」
二人の会話を聞いて、戦は青年に視線を移して小さく繰り返した。
「紫様、ですか」
「はい。そういえば、まともな自己紹介はまだでしたね」
古代紫に染めたような色の髪をはらりと揺らし、紫は綺麗に一礼した。
「僕は以前まで閻魔庁で働いていました、紫と申します。紫と書いてゆかりです。本日から火樹銀花宮の配属になりまして、一応火亜殿のお目付け役というか、補佐的なあれを……とはいってもほとんど顔は出さないと思いますし、まあ、いたらいるなー、いなかったらいないなー、くらいに思っていただければ」
随分適当な自己紹介だったが、戦はひとまず受け入れることにしてきちんと頭を下げた。
「……かしこまりました。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。鬼頭戦殿、で合っていますよね? 確か鬼頭家の次女で、次代当主の。鬼頭家の皆様には、いつもお世話になっております」
紫は不思議な笑顔を浮かべて、戦を見つめる。戦は思わず息を詰めた。
視線にとらわれているような、不思議な感覚がする。細すぎる瞳がどこを向いているかもわからないのに、見透かされているような、見抜かれているような、はかられているような。
鋭い眼差しに射抜かれたことも、鎖が絡みつくような強い視線にも覚えがあるが、これはそのどちらでもなく、実体のない霞か霧にまとわりつかれ、掴みどころもないまま足元が見えなくなって、動きが重たくなる、そんな――。
「紫」
「はい」
呼ばれた紫が火亜のほうへと顔を動かし、ふわりと霧の感覚は消えた。
戦は少し身構えたまま、火亜に近寄るその背中を見送る。
(鬼頭家に、お世話に……?)
獄卒鬼を含め、地獄に存在するありとあらゆる鬼の中でもトップクラスの鬼たちは
その中でも鬼頭家は永い間、鬼族の頂点に君臨する家柄だ。しかし現在は本来当主であるはずの戦の両親はいない。代わりに長兄の
お世話になっているということは、と戦は脳内で、両親を除く五人の家族を思い浮かべた。最も地位が高く人付き合いも広い遊戯か、はたまた常日頃途方もない人数から依頼を受けているために同じく顔が広い末っ子の
「では、こちらの文書を届ければよろしいですね」
「ああ、頼む」
戦が考え込んでいるうちに、紫はとんとんと書類を軽くそろえて小脇に抱えると、火亜の前から身を翻した。戦の横をすり抜ける瞬間、長髪を翻して薄く微笑む。
扉に手をかけて開いた紫は、体の向きを変え、軽く一礼した。
「では、これからよろしくお願いします」
底の見えない笑顔とともに、ぱたんと扉が閉まった。
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