最終章:黄昏から生まれた光

第37話 愛しき人

 昼下がりの雲ひとつない帰り道。自然と歩みが早くなる。肩にかけたかばんの中で無造作に突っ込んだ絵筆の束がカチャカチャぶつかり合った。


 夏はとっくに終わりを告げ、樹々きぎの青葉が彩りを変えて晩秋ばんしゅうの匂いを深める。街では通りにせり出した店がのきを連ねて通行人を呼び込み、仕入れたばかりの鮮魚や青果せいかを売る声で大賑わいだ。燻製にしたのち熟成させたニシンが目についたので買った。彼女はニシンが好物だ。でも今は生で食べるのは控えたいと寂しげに言っていた。燻製なら食べられるだろうか。


 そこら辺の知識は彼女が詳しいので、勉強させられてばかりだ。


 朝、仕事で家を出る際に「リンゴが食べたい」と所望されたのを思い出し、忘れずに鮮度の良いものを買い求める。夕食後、蜂蜜で煮詰めて出してあげよう。


 黒い切妻屋根きりづまやねを乗せたレンガ造りの我が家が見えてきて、とうとう脚が走り始めた。急がなくても逃げないと分かっているのに、はやる気持ちをどうしても抑えきれない。


「――――ただいま!」


 居間の扉を開け放ち、必要以上の大声で帰宅を知らしめる。


 けれども揺り椅子の背もたれをこちらに向けて腰かける彼女は、軽くドラロッシュを振り返るにとどめ、前に置いてあるキャンバスと向き直った。身体を思うように動かせない彼女は、日がな一日、こうして手慰てなぐさみに絵を描いたり書物を読んだりして暇を潰している。


「おかえり」


 一応、返事は寄越してくれるらしい。そっけない態度が照れ隠しに思えて嬉しさが増す。


 荷物の片づけをしながら彼女の絵筆が奏でる色彩を盗み見る。赤い建物に白い屋根。オディリアに捨ててきたダンヴェールの屋敷だろうか。淡い色遣いが過ぎた年月を思い出させ、なつかしい気持ちになる。


 単純に『青』と一括ひとくくりにしても、その中には明暗や濃淡、緑混じりや灰色混じり、微妙に異なる色合いで溢れているのに、彼女の描く空は水色一色いっしょくだ。奥行きが感じられない。雲も、白く塗れば良いってものじゃない。快晴の空の下、光ある場所には必ず差すはずの影はどこに行ったのだろう。


 正直、子供が描いたような仕上がりだ。それでもしきりに難しそうな息をつきながらキャンバスを色づけているので、ドラロッシュはやれやれと笑うしかない。


 生前、『光と影の調律師』なんて仰々ぎょうぎょうしい異名をつけられたオーギュスト・ハルメンソンの血を引く唯一の実子なだけに、密かに期待していたのだが、名声をほしいままにするような画力は受け継がなかったようだ。


 もしかしたら、本来の『クラウディアン』なら画才がさいに恵まれていたかもしれない。なんて考えがふっとよぎる。


 ……持たなくて良い。あんなもの。


 かぶりを振って投げ捨てた。見目麗しい平民の女流画家なんて、ハルメンソンやドラロッシュ以上の食い物だ。ドラロッシュは稀有けうな才能を思う存分発揮して彼女と何不自由ない生活を送れているが、だからといって全面的に肯定できるものではない。目覚ましい才能が必ずしも幸福をもたらすとは限らないことを、ドラロッシュは身をもって痛感している。


 描き終えたのか、彼女はふうと伸ばしていた背筋を背もたれに預けた。硬いクルミ材の揺り椅子は、彼女のために取りつけた綿詰めの敷物のおかげで座り心地が抜群だ。歩み寄り、髪を結い上げて露出した白い耳に囁きかける。


「絵を描いてたんだ?」

「うん。……でも、全然下手」


 自覚があって何より。


 むすっと不満そうに眉をひそめる横顔が可愛らしくて、つい目元に唇を落とす。びっくりした彼女が握ったままの絵筆を振りかざした。紙一重で避ける。


「うわっ、と」

「……ドラロッシュ!!」


 彼女は顔を真っ赤にして細い眉をいからせた。毎日のようにやってきたたわむれだが、十数年程度の歳月ではいまだ耐性がつかないらしい。


 今にも絵筆を頭上に掲げて追撃してきそうな彼女をなだめ、抱き締める。


「怒らないで。お腹の子がびっくりしちゃう」

「誰の、せいだと……っ」


 深々と揺り椅子に腰を落とす彼女は、膨らみの目立つお腹にドラロッシュの顔を当てがわれて身動きが取れない。白貂しろてんの毛皮でふち取った黄色の上着に包まれ、お腹の中の子供は今日も活発に動いていた。手なのか足なのか分からないけれど、膨らみの形を変えんばかりに内側から押し上げてくる。腹部の右側から左側を力強くなぞり上げるような胎内たいないの動きに、彼女も辛そうな息を吐いた。


 彼女が『クラウディアン』でないと知れば知るほど、オディリアやヴェレニスとは異なる世界の国の話を事細かに聞き入るにつれ、強く惹かれていった。ドラロッシュの歪みやけがれきった暗い部分もすべて理解した上で、なおも受け入れてくれる――――恋情を抱いてくれる彼女が、愛しくて我慢できなかった。『好きになれない』と最初に突き放したのは彼なのに、今や彼女が傾けてくれる愛に溺れてしがみついている。


 否、昔から彼女がいなければ生きていけなかった。色恋の伴わない執着が激しい恋慕れんぼに変わっただけ。幼い頃から育ててきた、という事実は罪悪感と化してドラロッシュをちくりと刺すものの、彼女自身が別世界の成熟した娘で、先に恋に落ちたのがあちらだったのが彼の意識を多少なりとも軽くした。


 彼女の幸せを願って一度は放そうとしたけれど、振り切ってこの娘はドラロッシュを選んだ。――――誰にどうなじられようが、二度と逃がすことはできない。

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