Episode 7: Before the Howl - Victor

 ライブハウスの片隅に、電子音が響いていた。それは誰もが一度は耳にしたことのあるクラシックの旋律──たとえば『月光ソナタ』、『ジムノペディ第1番』、そして『G線上のアリア』──を大胆にテクノアレンジしたメドレーだった。


 低く唸るようなベースラインに、粒立ちの細かいビート。

 滑らかに繋がる音と音。その奥に微かに混ざる不穏なざわめき。


 レオンは、バイト先であるライブハウスで、食器類の整理をしていた手を思わず止めた。仕事中にもかかわらず、その音に引き寄せられるように。


 小さな箱庭のような音の世界が、耳から染み込んできた。

 身体の奥のほうが、ぞくりと震えた。


 スケジュールを見ると「ヴィクター 20:00~」と名前だけ書いてあった。


 ステージの中央には機材に囲まれ、肩を揺らしながら演奏する一人の青年がいた。

 鍵盤の前に座っているのに、まるでドラムを叩いているかのような緊張感と躍動感がある。音の構築も演奏も、驚くほど洗練されていた。


 髪は少し長めで、色素の薄い肌。表情は読めない。

 けれどその指先は、確実に世界を操っていた。


 ──これが、ソロでやってるやつの音か?


 レオンは無意識に前へ歩いていた。

 音が導くままに、ステージの傍まで。


 ノイズを含んだシンセサウンドが炸裂し、観客席の空気を一瞬で支配する。

 その刹那、レオンの中で何かが噛み合った。


『こいつがいれば、俺たちの音は変わる。完成する』


 その確信は、言葉になるよりも先に、身体の奥に沈み込んでいた。


 家に帰ってからエコーに、こう言った。


「今度、お前に聴かせたい音がある」



 ──1980年後半、サンフランシスコ。


 サンフランシスコは海からの風が強く、霧のかかる日も多い。夏でも肌寒いことがあり、青空が広がる日よりも、灰色の空が彼の記憶には残っている。


 ヴィクター・グレイブは、教育熱心な家庭に育った。 父も母も共に高学歴で父は歴史、母は音楽の教師だった。息子にも当然のようにそれを求めた。

 幼い頃からクラシックピアノを学び、英才教育を受けてきた彼にとって、音楽は常に“正解”をなぞるものだった。


 ピアノの鍵盤は、ヴィクターにとって「正しくいないといけない場所」だった。

 それは、親が求める「完璧な子ども」であることを強いられる檻でもあった。


 両親の職業柄どちらも旧体質で、新しい音楽文化にも懐疑的だった。


 リビングには学校さながら時間割表が貼られ、毎週末には音楽コンクールや模試のスケジュールがびっしり書き込まれていた。


 ピアノの練習も楽しいと思ったことはなかった。

「間違わないように、もう一度」

 母の言葉に、ヴィクターの指は震えた。弾きたい音は出せず、弾かされる音だけがあった。

 ヴィクターがお願いして流行りの曲を弾かせてもらうこともあったが、それも楽譜に書いてあることをなぞるだけで、何も楽しいことはなかった。


 高校生になったある日、放課後に友人から聞かせてもらったCDが、彼の中の何かを揺さぶった。

 それは、Underworldの『Born Slippy (Nuxx)』だった。


 最初は、ただの雑音のように思えた。

 低音が脈打ち、リズムが崩れそうで崩れないまま、どこまでも繰り返される。

 意味のない単語の羅列が、叫びのように重なっていく。

「drive boy dog boy dirty numb angel boy...」


 だが、その混沌の中に、確かな熱を感じた。

 わかろうとする前に、身体が揺れていた。

 感情が言葉を越えて流れ出し、構造も秩序も無視して、ただ「生きている音」がそこにあった。


 耳の奥にずっと残っていたピアノの残響が、まるで上書きされるようだった。

 その瞬間、彼は初めて「間違ってもいい音楽」が存在することを知った。


 そんな、テクノとの出会いは、彼にとって“自由すぎて怖い音楽”だった。

 間違いがない世界に生きてきたヴィクターにとって、その曖昧さが、逆に不安だったのだ。


 だからこそ、彼は葛藤した。

「これは本当に音楽なのか? こんなものに自分が惹かれるのは、間違いじゃないのか?」


 そのCDを貸してもらい、何度もCDを聴き直すうちに、混沌の中に確かに息づく美しさに気づいた。

 整っていないからこそ、感情が染み出す余地があった。

 それは、彼が鍵盤の上で何度も閉じ込めてきた感情そのものだった。


 そこからの彼は早かった。

 独学で打ち込みソフトを学び、古いラップトップに無料のDAWを入れて、毎晩コードと音を繋げていった。

 ピアノで培った指先の感覚が、電子の世界で新たな意味を持ち始めていた。


 ただ、家ではその音は歓迎されなかった。

 露骨に否定されるわけではない。だが、肯定もされなかった。


 音を流すと、母はそっとドアを閉めた。父は何も言わなかったが、食卓でその話題に触れることもなかった。


「……あなたの好きにしなさい」


 その一言が、逆にヴィクターを深く迷わせた。

 まるで、その音楽に関しては“息子であること”を放棄されたかのように。


 それでも、ヴィクターはやめなかった。

 なぜなら──初めて、音楽が「楽しい」と思えたからだ。


 家ではクラシックのレッスンが高校を卒業するまで続けられたが、 ヴィクターはその傍らで、自分の“音”を模索し続けた。


 そして、高校卒業後、ヴィクターは親から離れるためにシアトルの大学に進学した。専攻は情報工学。音楽ではなかった。 しかし、それは親の期待に応えるためというよりも、音を扱うテクノロジーそのものへの興味からだった。


 シアトルの街は、ヴィクターにとってまた違った空気を持っていた。

 雨の多い灰色の空と、濡れたアスファルトの匂い。

 その静けさは、かつての霧の街とは別種の寂しさを抱えていた。


 昼間は真面目に授業に出て、夜は自室で音を紡いだ。

 大学の課題より、気づけばDAWの画面に向き合う時間のほうが長かった。


 電子音楽サークルにも所属したが、そこでの活動に満足することはなく、あくまで“ソロ”にこだわって音を作り続けた。

 仲間と作る音楽では、自分の中の曖昧で不穏な衝動を表現しきれなかったからだ。

 それでも、ライブハウスでの出演はサークル経由で増えていき、少しずつ名前を覚えられるようになっていた。


 そんな中でも、両親の希望は変わらなかった。

 教師になりなさい──というのが、いつしか家の方針のように語られていた。


 ヴィクター自身も、自分が音楽で食べていけるとは思っていなかった。

 将来の安定を考えれば、教員免許を取るという道は、現実的だった。


 教員免許を取得するためには教育学のコースを履修し、教育実習を経て州ごとの認可を受ける必要がある。

 ヴィクターは大学の最終学年、情報工学を主軸としながらも、副専攻で教育学を選び、教員資格を取得するための単位を揃えていった。


 自分の進路に明確な熱意があるわけではなかった。

 ただ、選ばなかった音楽の代わりに、選ばざるを得なかった“正しい道”が、そこにあった。



 ヴィクターがライブハウスで2度目の演奏を行った夜。

 ステージの音が鳴り始めた瞬間、観客席の隅でひときわ強い視線を向けていた二人がいた。

 前回の演奏で強く心を動かされたレオンが、今回はエコーを誘っていた。


「こいつの音、聴いてくれ。間違いなく、何かが変わる」


 その言葉の意味を、エコーは最初わからなかった。

 だが、音が流れ出した瞬間、理解した。


 照明が落ちたステージの上で、ヴィクターは孤高の演奏者としてその空間を塗り替えていた。


 ヴィクターの指が奏でる音には、長年積み重ねてきたクラシックの技巧が滲んでいた。

 だが、それだけではなかった。コードの選び方、エフェクトの使い方、間の取り方──どれもが計算されていながら、それ以上に"危うさ"をはらんでいた。


 ただの技術ではない。感性が叫んでいた。


 その音に、エコーの身体が自然と反応する。

 喉の奥から湧き上がるような震えと共に、彼は思った。


 ──この音なら、ベースが要る。

 ──この音なら、俺の音が共鳴する。


 レオンの隣で立ち尽くすエコーの瞳には、確かな光が宿っていた。

 それを見て、レオンは少しだけ口元を緩めた。

 やっぱり、響くよなと、どこか確信めいた想いと共に。


 その夜、四つ目の音が共鳴した。


 演奏が終わると、レオンが迷わずステージ脇に向かい、ヴィクターに声をかけた。


「なあ、お前の音、すげぇな。俺たちと一緒にやってみないか?」


 突然の申し出に、ヴィクターはわずかに眉を動かしたが、すぐには答えれなかった。今まで誰とも交われなかった音楽性が、心の奥に疑心暗鬼を生み出していた。 だからこそ、突然の誘いには警戒が先に立った。


 沈黙の中で、レオンの後ろに立つエコーの視線が重なる。 その瞳には、明らかに揺れるものがあった。


「でも、君たちの音楽を知らない。そんな状態で、組むなんて無理だ」


 ヴィクターは、慎重に言葉を選んで答えた。過去の経験から、衝動だけで動くことを避けるようになっていたのだ。


 その様子を見て、レオンは軽くうなずいた。

「わかるよ。俺も知らない相手に“組もう”なんて言われたら、警戒する」


 エコーも、それを聞いて苦笑いをしながら肩をすくめた。


 そして、レオンは少し離れた棚から一枚のCDを持ってきた。


「これ、俺たちの音が入ってる。もしよかったら、今ここで聴いてくれないか?」


 ヴィクターは驚いたように一瞬目を見開いたが、受け取ったCDを無言で見つめた。レオンがすぐさまテーブルの脇にある簡易プレイヤーにCDを入れると、空気が一変した。


 流れ出したのは、Crimson Howl名義の初音源──『Howl at the Moon』。


 音が空間を満たしていく中、ヴィクターの表情がわずかに揺れた。その音には、レオンの叫びとエコーの低く太いベースが絡み合い、混沌とした中にも明確な方向性と情熱があった。


 演奏が終わると、ヴィクターはしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。


「……少しだけ、気になったかもしれない」


 それを聞いたレオンは、少し笑って言った。

「音楽の方向性が違うのは、たぶんお互いわかってる。でもな──そういうやつと一緒にやるほうが、もっと何かが生まれる気がするんだよ」


 エコーも、そっと視線を向けた。

「俺たち、ずっと探してた。あんたの音が、何かを変えるかもしれない」


 ヴィクターはその言葉を胸の中で転がしながら、小さくうなずいた。


「次、ここでまた演奏するから──その時、ドラムも入った音を聴いてくれ」


 レオンがそう言い添える。


「今度こそ、全部の音が揃った、Crimson Howl の音だ」


 数日後、ヴィクターはライブハウスの隅の椅子に腰かけ、ステージを見上げていた。照明が落ち、わずかに光る中でレオン、エコー、そしてジェイドが音を重ね始める。


 レオンの叫びが鳴り、エコーのベースがうねるように絡み、ジェイドのドラムが雷鳴のように支えた。


 ──あのCDで聴いた音が、いま、目の前で現実となっている。


 ヴィクターは無意識に手のひらを握りしめた。

 その心に、またひとつ音が、重なった。

 それは、彼がこれまで一人で積み重ねてきた音の層に、初めて誰かと重ねる音だった。


 ──4人が揃いCrimson Howlがついに"吠える"。

 次回、「Howl Now」

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