Episode 2: Before the Howl - Leon

 灰色の雲が垂れ込めるシアトルの冬の空。

 一年の大半を冷たい雨が包み込むこの街で、レオンの部屋の窓はいつも曇っていた。

 両親は仕事や外出で家にいることが少なく、家の中は静まり返っている。

 感情を言葉や態度で表現する場がなく、彼は自分の内側に渦巻く思いをどう解放すればいいのか、まだ知らなかった。


 それはまだ中学校に通いだした頃だった。古びたラジオから流れてきたのはNirvanaの“Something in the Way”。

 静かで沈んだメロディが、レオンの孤独と閉塞感に寄り添うように響き渡った。

 感情の爆発はまだ遠く、胸の中に抱えたもどかしさが静かに揺れ動く。


 "Underneath the bridge / The tarp has sprung a leak / And the animals I've trapped / Have all become my pets..."


 言葉の意味をすべて理解できたわけじゃない。

 けれど、その湿った音と言葉の隙間から滲み出す孤独と、割り切れない閉塞感。

 レオンは、まるでその声が自分の奥にある“何か”を代弁しているように感じた。


 雨に打たれ続ける街と、感情を出す場所のない静かな家。

 それが自分と歌が重なった。

 頭の奥で渦を巻いていた焦燥が、その歌に触れた瞬間、ほんの少しだけほどけていく。

「誰かの言葉で、こんなにも救われることがあるんだ」と、初めて気づいた。


 "Something in the way, mmm..."


 カート・コバーンの声はまるで、レオンの心の底に静かに沈んでいた感情の層を、

 ゆっくりとすくい上げていくようだった。

 自分でもまだ言葉にできない心の奥にある「何か」を初めて認識できた気がした。


 この頃のレオンは、まだギターを弾くことも、自分が歌うことも想像していなかった。

 けれど、この曲と出会った日から、「音」が彼の中に居場所を作り始めていた。




 高校に入学したが、誰かと打ち解けようとは思えなかった。

 感情はあった。ただ、それをどう外に出せばいいのか、まだわからなかった。



 その年、赴任してきた音楽教師――ミラー先生は、

 どこか学校に馴染まない雰囲気をまとっていた。

 クラシックだけじゃなく、ロックやブルースの話を平気で授業に混ぜ、週末には地元のジャズバーでギターを弾いているという噂もあった。


 高校一年の秋の放課後。教室の片隅に取り残されたレオンに、先生は言った。

「お前、なんか爆発寸前って感じだな」


 レオンは黙っていた。答える言葉を持っていなかった。

 だが、先生は言葉を続けた。


「音楽ってのは、声にならない気持ちを形にする道具だ。俺はずっとそうしてきた」

「感情の行き先なんだ。ぶつけたって、ちゃんと受け止めてくれる」


 翌日、ミラー先生は古いCDを手渡してきた。

 赤ん坊が泳ぎながらお札を追いかけているジャケットだった。


 家に帰ってCDプレーヤーで再生した。

 静かで湿った音がスピーカーから流れ出した。


 いつものように、寝転んで天井と窓を見ながら聞いていると、あの時聞いた曲が流れてきた。

 Nirvana – “Something in the Way”



「何かが、道をふさいでいる」

 まさに、レオンの感情を言い表したような言葉だった。

 あの時も感じた、閉塞感の理由が分かった気がした。



 それから、放課後は音楽室にいることが多くなった。

 放課後の音楽室は、いつも静かだった。校舎の端にあるせいか、生徒もあまり寄りつかない。それがレオンにちょうどよかった。


 普段話しかけてこないミラー先生が、珍しく話しかけてきた。

「君、指が長いな。ギター、触ってみないか?」


 そう言って差し出されたのは、使い込まれたストラトキャスターだった。白いボディはところどころ塗装が剥がれていて、ピックガードには無数の傷があった。


「これ……先生の?」


「もう20年の付き合いだ。いい音、出るぞ。貸してやるよ」


 ぎこちなく構えたレオンの手を、ミラー先生はそっと直してくれた。

 コードの押さえ方。ピックの握り方。アンプのスイッチを入れる音。

 ひとつひとつが、レオンの中の静けさに波紋を広げていった。


 初めて鳴らしたEコードは、少しビリついたけど、胸の奥にずしんと響いた。


 ミラー先生の声が、乾いた冬の空気に染み込んでいく。

 その日から、レオンは毎日のように放課後の音楽室でギターを弾くようになった。



 シアトルの夜は、昼よりも雨がやさしく感じる。

 霧雨に滲んだネオンサインを目印に、レオンはひとり、小さなライブハウスの前に立っていた。


 ある日の放課後、ギターを弾いているレオンに手書きの地図と日時が書かれた紙を差し出した。

「俺にもな、週末は“先生”じゃない時間があるんだ。興味あるなら、来てみろ」


 教室での柔らかな口調とは違う、少し挑戦的な言葉だった。


 入り口の上には、手書きのような文字で書かれた黒板看板。

 バンド名を見てレオンもさすがにこんな名前にしていいのかと苦笑した。

「Tonight only: The Chalkdust Riot」



 中は思ったよりも静かだった。

 照明は薄暗く、天井の低い空間に、テーブルと椅子が無造作に並んでいる。

 バーカウンターの奥では、数人の大人たちが静かにグラスを傾けていた。


 そして、ステージ。

 アンプに繋がれたギターを肩に、ミラー先生がマイクの前に立っていた。


 彼がピックをひとふりすると、空気が変わった。

 鋭いストロークでギターをかき鳴らし、アンプからは歪んだ音が空間を切り裂く。

 ドラムが炸裂し、ベースが地鳴りのように響く。

 ミラー先生は叫んでいた。「教壇」ではなく、「ステージ」で、魂をぶつけるように。


 その音は、レオンの知っている“先生”ではなかった。

 教壇の前で気だるげに黒板にチョークを走らせる姿ではなく、

 自分の感情を、正直に、まっすぐに音へと変えていた。


 何曲かの演奏が続いた後、MCでミラー先生がふっと笑って言った。


「人生に大事なのは、言葉より音だと思ってる。

 言えないことも、音にならできる――俺はそう信じてる」


 レオンは黙って、ステージを見つめた。

 自分の中の何かが、静かに震えた。


「こんなふうに、音で、気持ちを伝えられたら――」


 胸の奥に、まだ名前のない炎が灯った。

 それは、後にレオンをギターへと向かわせる、原点となった。



 それから、先生の口利きもあり、ライブハウスでウェイターとしてバイトをすることとなった。

 レオンにとっていろんな人の歌を聴きながら仕事ができる環境は最高だった。


 そしてそのバイト代で先生のギターを買い、自分自身のギターを手に入れた。




 雨の街、シアトル。

 今日もまた灰色の空が広がっている。


 だけど、彼の胸の中には、小さな音が鳴っていた。

 最初は歪で、頼りなく、でも確かに鼓動していた。


 それは、いつか誰かの心に届くかもしれない音――


 レオン・ヴァスケスは、まだ何者でもない。

 けれど、ギターを手にしたこの瞬間から、

 彼の「咆哮」は、もう始まっていた。


 ──反響が生まれたのは、あのときだった。

 次回、「Before the Howl - "Echo"」

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