赤き遠吠え

店主

Episode 1: The Howl Returns

 小雨が降り続く18時前。

 日が暮れ、肌寒い風が通り抜けていく。

 その中で一か所だけ夏のような熱気を生み出している場所があった。


 シアトルの中心部、周囲のビジネス街やカフェ、飲食店に囲まれたエリアにある「アリゲーター」――

 地元の音楽ファンに長く愛されてきた歴史あるライブハウスだ。


 赤レンガ造りの建物は2階建てで、入口は通り沿いにあり、夜になるとネオンのサインが輝く。

 狭くて密度の高い空間は、かつて数々の伝説を生んできた。




 ギターの弦が、わずかに震えていた。


 レオン・ヴァスケスは控室の隅に腰を下ろし、静かに爪弾く。アンプには繋いでいない。鳴るのは生音だけだが、彼の中にはすでに“あの音”が蘇っていた。

 歪んでいて、荒々しくて、それでいて誰にも届くと信じていた音。


 ――Crimson Howl。あの遠吠えは、もう一度世界に届くのか。


 「……弦、緩いぞ。Dがちょい下がってる」


 エコーことエリック・モリスが、ベースを抱えながら目線も動かさずに言った。相変わらず、狂いのない耳だ。


 「Dなんか、誰も気にしねえって」

 レオンはそう言って笑いながら、ペグを回して微調整する。


 エコーは無言で頷くだけだったが、その頷きがなんとなく懐かしかった。


 部屋の中央、ジェイド・ローソンはあぐらをかいて床に座り、スティックを指の間で器用に回していた。まるで何かを待っているような、けれど焦っていないような、不思議なリズムで。


 「久しぶりに叩くなぁ、“First Howl”」


 レオンが顔を上げる。


 「覚えてんのかよ、それ」

 「手が勝手に動くってやつ。体ってウソつかないんだよね」


 “First Howl”――2006年、1stアルバム『VOID』の一曲目。

 Crimson Howlがまだあまり知られていなかった頃、地下スタジオで吼えるように録音した4人の最初の咆哮。

 粗削りで、技術も未熟で、でも魂だけは確かに宿っていた。


 レオンがギターの弦を軽くはじきながらつぶやく。

「“First Howl”、やっぱり1曲目だな」


 エコーがベースを調整しながら答えた。

「そうだ。あの曲は俺たちの原点の叫びだ。まだ無名で、技術も未熟だったけど、熱だけは誰にも負けなかった」


 ジェイドがドラムスティックを回しながら微笑む。

「ライブの最初に鳴ると、体中が震えるんだよな」


 ノートPCの光がふと強くなり、ヴィクター・グレイブが軽くヘッドフォンを外す。

 無言のまま、音の波形を見つめ、何かの設定を確認してから画面を閉じた。


 彼の横に置かれた写真立てに、レオンの視線が向く。


 古びた黒縁のフレーム。その中には、今よりずっと若い四人が並んでいた。

 狭いスタジオ、剥がれた壁紙、ノイズ混じりの照明。

 それでも目だけは、燃えていた。何かを掴もうと、狂おしいほどに。


 「……あれから、何年経った?」


 ふと、誰ともなく漏れたレオンの声に、沈黙が落ちる。

 誰もすぐには答えない。それが、すべてを物語っていた。


 「開演まで、あと5分です!」


 スタッフの声がドア越しに響いた。

 空気がわずかに張り詰める。


 誰かが息を飲む音。

 誰かが立ち上がる気配。

 誰かが、手のひらを握りしめる音。


 Crimson Howlは、7年の沈黙を破って再び咆哮をあげる。


 これは“復活”じゃない。

 “続き”でも、“終わり”でもない。

 これは、ただ音を鳴らすための始まり。


 VOIDから這い上がったあの夜のように。

 俺たちは、また吼える。


 ──ギターとの出会いが、すべての始まりだった。

 次回、「Before the Howl - Leon」

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