1.5 美術館

 青年は薄暮の大通りの歩道を歩き続ける。


 交通費節約のためにバスは使わない。

 途中で護送車を見た。何かの容疑者達が連行され連れて行かれた。彼は反射的に物陰に身を隠してしまった。車が行ってしまい辺りを用心深く窺う。大丈夫だ。彼は先を急ぐ。


 太陽が落ちて青年の辿り着いた先は壮麗な建物だった。


 贅を尽くした彫像に煌びやかな照明が当てられている。正面は広く取られた大きな庭園だった。そこは景気のよいときは噴水から水が噴き出していたのだが今は涸れて久しい。


 所々に外国で買った雨ざらしの現代美術が居づらそうに佇む。ゴシックめいた正門はいたずらに大きく落書きが尽きない。どれもが沈黙し青年を待ち受けていた。


 美術館。


 文化振興とやらで夜でも市民に開放されている施設だ。その実、予算不足の開店休業状態である。


 値のつく作品の多くがあれやこれやの理由で流出していた。


 今や創立した大統領が触れることすら躊躇う赤字を垂れ流す廃墟。その悲惨な有様に対し美術館の苦肉の策が夜間解放だった。


 その結果、薬物から売春まで便利に使える待ち合わせ場所が誕生する。


 青年はそこに来るよう指示されていた。


 気怠そうな守衛に見送られ青年は展示室の奥深くを目指す。多くは市民お手製の作品で埋められていた。人影はまばらだがどこも人がいる。展示室ごとによからぬ企みに使われている。


 西洋画室は薬、東洋画室は女、彫像室は男、有史以前となれば密輸品の商談である。


 それらの退廃的光景を尻目に青年は現代芸術室に向かった。


 一応首都の美術館である。

 

 類い希な傑作も残されてはいた。

 自然それは盗まれにくい嵩張る大作になる。


 その部屋に青年が入ったとき思わず見上げるほどの絵画が飾られていた。

 絵の具が乱雑に塗りたくられ遠目には若い男女の裸体が描かれているのが分かる。ある者は性交し、ある者は肉を削ぎ食らい、ある者は何もかも踏みつけ切り刻み破壊していた。


 その形姿ときたら露悪そのものだった。


 よくまあこの形式ばかりの国でこれほどの冒涜的な絵が残されたものだと青年は感心し呆れる。

 

 その理由は明らかだった。

 

 踊り狂う悪鬼達は目が血走った兵隊や戦車と飛行機に追い立てられていた。それらが国で制式採用された軍服や兵器ばかりとあって加害者は国軍と臭わせる。更にそれらを猟犬のごとく使役するのが公安警察である。


 大統領に忠実な奴隷達。


 追い立てられ辱められ食われる人々は犠牲ではなく必要な損失と言わんばかりだ。

 その悪趣味の権化に青年は嫌悪が先に立ったが同時に引き込まれるものがあり腕組みしてしばし鑑賞してしまった。


「……気に入られましたか?」


 尋ねられて初めて他に人の居ることに気づく。


 部屋の隅から整った身なりの――かつ風紀をかき乱すような――細身の男性が歩み寄ってきた。


 配光の調子のせいで青年が顔つきを認めた時に抱いた感想は幽霊である。

 ともかく青年にとってこの人物が待ち合わせの相手でないことは確かだ。彼はにわかな感想を述べた。


「私は絵のことはさっぱり分からないのですが、力強さのようなものを感じます」


 本当は嫌悪だ。


 この国で本心は危険である。自然と嘘が流れ出た。

 それは正解だった。幽霊は喜んだ。


「これを描いたのは僕なんです。お目が高い。たいていの人は一目見て嫌な顔をしますからね」


 青年は同調を演じた。


 絵描きのその細く長い指先は如何にも繊細な筆さばきを駆使するように見える。

 青年は再び絵画に目を向けた。

 

 ところが印象ががらりと変わった。

 

 描かれていたものは嵐だ。色と肉が渦を描き見る者を飲み込まんとしていた。彼は新たに驚嘆に出会った。


 その絵描きは青年の新たな出会いを喜んだ。気に入りましたかと微笑む。聞かれた青年はええと答えてしまった。

 青年は約束がある。立ち去りたかった。なのについ話に乗ってしまった。


「……なぜここに展示されてるのですか?」


 色々な意味でだ。この部屋は本来美術品を置かない休憩所だった。絵画はトイレの真ん前にある。


「この絵がですか?」と絵描きは聞き返した。

「さあ。なぜでしょうね」と首を傾げる。


 作者なのに展示された理由を知らぬと言う。青年はこの絵描きが意地の悪い妖精のように思えた。森に潜み度々人を誑かし迷わすのだ。絵描きは肩をすくめて聞いた話を語った。


「噂では大統領が気に入ったのだとか」


 青年が顔色を変えた。


「大統領? あの?」と吃る。それはこの国の人間にとって普通の反応だ。絵描きは顰笑すると冗談めかして話を続けた。


「ええ。あの大統領です。この国の英雄にして絶対的なカリスマ。本当なら名誉なことですがね……私がここに来るのはそれが信じられないからです。あるいは晒し者にでもしたいのか」


「現にこうして……」と絵描きはトイレを指さす。彼の笑いは自嘲を帯びていた。


「これは私の思いつきで描いた大判の絵ですよ。ただ思いの侭書きなぐった絵です。

 それがすぐに評判となり大統領の目にとまった。

 できすぎです。ですが、大統領の決めたことですからね。

 誰も異議など訴えられませんし。そう言うことでよいのでしょう。

 たとえ糞便のごときと揶揄されていたとしてもね」


 青年はただ首肯し迎合し大統領の目利きを褒めねばならない。それが曲がりなりにも彼の心を捉えた絵画に対する侮辱だとしてもだ。


 青年は用事があり、絵描きは思いやりがあった。


 去り際に絵描きは小さな紙切れを差し出した。


「失礼。お急ぎのところ話しかけて申し訳なかったですね。近々街の画廊で個展を開く予定です。ご縁があったらお越しください」


 何のことはない。彼はここで営業していたのだ。青年は礼を言って受け取った。

 絵描きの名はハルシー。青年が初めて聞く名だった。


 青年は絵描きと別れて目的地がすぐ隣の展示室と気づいた。


 現代芸術室は広い。数多の多様な価値を放り捨てたような場所だった。

 振り返れば絵描きの姿は消えていた。青年は気を引き締める。この迷宮のどこかに待ち人がいるはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る