1.4 これは恋?
しばらくして青年が気づく。
「……代金は?」
彼は初めてリルの顔を見た。
そこに居たのは彼の想像以上に幼い少女だった。髪はばさつき着ているのはぼろの下着だ。彼の知る限りそんな身なりの子供はいずれも荒む。ストリートチルドレンのそれである。
だが眼前の少女は澄んだ目をしていた。
珍しく思い、素性を聞こうとしてつっかえた。彼は自制する。いずれこの少女も虚ろな目で世界を眺めるようになるのだ。諦め挫け退廃を選ぶ。政治を呪い世界を呪い自分を呪う。
彼のようにである。
そう思うと青年は少女が居たたまれず席を立とうとした。場末の店で同情などお門違いだ。
足を止める。
通りに人の気配を感じた。いや、気配どころでない殺気だ。その客は通りから青年を睨んでいた。青年は店に留まることを選んだ。
通りの男は歩き出した。
水たまりをものともせず真っ直ぐに店へだ。
彼はリルの首が痛くなるほどの大男だった。常に怒りを堪えているような相貌で店構えを詮索するように顔を振る。やがて身分を明かした。
「……公安警察だ。煮炊き中の所すまんが、お嬢ちゃん、母親はどこかね? 呼んでもらいたいのだが?」
それはリルを頑なにさせる問いだった。彼女は言葉が分からぬとばかりに身を縮こめた。その様子に大男は再び問う。さっきよりきつい言い方だ。
「……母親はどこかと聞いてる。君のような子供にも市民の義務がある」
その威圧的な言い方に青年が思わず男を睨めつけた。それが大男の関心を呼んでしまう。
「……君は何か知っていることでもあるのかな? この子の親族かね? 助言の一つでもあるなら是非聞かせて欲しい。当局は市民の率直な意見を常に歓迎している」
青年のする表情をその大男はよく知っている。
散々に多くの市民から投げつけられた侮蔑と恐怖の感情だ。他愛もないと鼻であしらう。大男がさらに秘密を探ろうとした。青年は用心深かった。
「……いえ別に。ただの客です……」と消え入りそうな声でうつむく。
大男は慣れている。彼としても時間は貴重だ。その場は些事として一応の念押しをした。
「私は捜査中でたまたま立ち寄った者だ。最近、反動的政治思想に浴した者が潜伏しているとの噂を耳にする。すぐ隣の地区で事件も起きている」
「どんな事件です?」と青年が尋ねる。大男はカウンターの少女を一瞥すると遠慮なく青年に告げた。
「殺人事件だ」
その言葉に少女は身を引いた。青年は動じない。
「それは怖いですね。犯人は捕まえたのですか?」
その返しを大男は慎重に見定めると答えた。
「心配には及ばん。対処済みだ」
「流石ですね。この街の警察は大変優秀なようだ」
勿論青年の嫌みである。大男は気にする素振りもなく念のためと注意を促した。
「もし不審人物やいつもと違った何かを目撃した場合には私のような警察官か当局に申し出るように」
「はい。そのようにします」
大男は目を合わそうとしない青年に呆れながら改めてリルにも顔を向けた。怯える彼女にようやく名乗った。
「私は公安警察特別監督室の警部ガルゾだ。母親が戻ってきたら公安警察の訪問があったとだけ伝えたまえ。大抵の市民はそれで分かる」
リルの了承も待たずにガルゾは出口に向かった。ついでと身を強ばらせた青年に忠告する。
「君は学生かね?」
青年は無言だ。
「このような町を彷徨くのは感心しない。学業に専心したまえ。この町の住人のようにはなりたくなかろう?」
変わらず青年は無言を貫いた。
目を伏せ唇は真っ青だ。
その態度はガルゾの職業意識を喚起する。青年のそれは不審人物である。警部は問い詰めようと一歩踏み出したとき、その鋭敏な聴覚が少女の声を聞いた。
「……ママはいません」
ガルゾは思わず少女を見る。
彼には馴染みある表情だ。
それ以上に思うところが込み上げる。
警部はらしからぬ動揺――しばしの黙考のみではあったが――を見せた。彼なりの労りはリルが身を引くような言動で表れた。
彼は言う。
「なら、店の主人に伝えたまえ。それが市民の義務だ」
そう言い放たれた少女の目は絶望している。構わずガルゾは睨み付けることで青年への警告とした。それから足早に立ち去ってしまった。
足音は速やかに遠ざかり聞こえなくなった。
何事か分からずにいるリル。青年は小声で毒づいた。
「……秘密警察め。やつらは
……人殺しだ」
その呟きは幸いリルには聞こえなかった。聞こえていたが理解できなかった。きょとんとして青年をただ見ている。その視線に気づいた青年が立ち上がった。
「……水、ありがとう」
そう言って店を出ようとした。立ち上がる彼にリルの声が響く。
「またいらしてください!
お待ちしております!」
その懸命さに青年は戸惑った。
頬を赤らめた少女の姿に彼は顰笑する。
それは二度と来るまいとの確信からくる罪悪感だった。彼は一人の少女の善意すら自らに値しないと戒める。それは彼の残り少ない時間によるものだ。
それで口を滑らせた。
「……この国はきっとよくなる。君が大人になるまでにはと……」
彼は背を向けると歩き出した。
恥ずかしくて逃げ出すみたいに。
リルは青年の姿を店の敷地の際まで追った。彼は大通りに向かう。少女は追いかけようとしたが水たまりが阻む。つま先立ちになってまで彼女は青年が去りゆくのを見届ける。青年は角を曲がって消えた。
大通りは車が煙をまき散らし、歩道を疎らな人々が背中を丸めて葬列のごとく歩いている。重苦しい絶望が伸し掛かる首都だ。
青年にとってここは死んだ街だった。煤煙で黒ずんだビルは墓石のごとく連なり、喧噪はカラスが鳴き散らす悲鳴のようだった。そこに住まう人々は棺桶の中だ。
そのように青年は心の中で毒づいた。
青年は思い返す。
リルの居たあの通りは別世界だった。あそこは黄泉路だった。彼が死に至る険路に湧き出した泉のような場所だった。死人が徘徊し聖者を惑わす奈落だった。
だから彼は忘れた。
あの少女との出会いさえもだ。
リルがまた暇になった。
あとはベンネの到着まで待つ。リルは高揚して落ち着かなかった。いつもならアルコール中毒者や浮浪者を恐れてベンネが来るまで生きた心地がしなかった。
今日はそのことを全て忘れて記憶との遊びに耽っている。
心臓の高鳴り。
感情が熱病に冒される感覚。
手が震え眦に涙がきらめく。彼女はあの青年の再来を心の底から望んでいた。幼い彼女はその理由を知らない。
ふと外を横切る影があった。リルの目が追いきれない。ツバメだ。
リルの小さな部屋の隣の巣の主だ。
影は素早く遠ざかり影でつがいが喧しくさえずった。リルはその内ツバメ達は海を渡るのだろうかと思った。ツバメの飛び行く姿を眺めながらリルは自分を落ち着かせようと努めた。
要するにリルは青年を好きになったのである。
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