1.2 うさんくさい事務所
「ご用件は何ですか?」
そう尋ねたのは欠伸を堪えた中年男だった。
窓を背に組んだ指を合板の机に乗せて座っている。部屋は掃除が行き届き調度品は上品で木目のものばかりだ。
一方で置物は少なく殺風景なのが彼の商いの特殊さを醸し出していた。外は驟雨である。錆びた窓枠の隙間から雨水がしみ出していた。
濡れ鼠の尋ねられた男は突っ立っている。鋭い目で観察し考えている。
このにやつく中年男は物騒な仕事を請け負うと評判だ。その割に用心棒一人侍らせず不用心だ。
対する中年男は自分の白ワイシャツの襟を指で整えると首を傾げた。
「どうやらお悩みの様子ですな。
こういうときは思ったことを口に出してしまうのも手ですよ? 差し障りない一言が思わぬ玉石たることもあり得ます。もちろん私の経験の上での話ですがね」
そう言って慈善に満ちた笑顔を中年男は作った。
対する目の鋭い男ガルゾは濡れたコートのまま腕組みして立っている。
最近起業した会社の事務所だ。書類上の怪しいところはない。だが彼は自分の目で確かめたかった。
彼は部屋に居るもう一人に視線をやる。中年男の机から少し離れて応接のソファに座る女だ。暗緑色の国民服を淫らに着崩している。
その女は見るからに退屈そうでずっとタバコを吹かしていた。挙げ句に男二人のつばぜり合いに欠伸して見せる。
気にせずガルゾはコートを開けて制服を露わにする。
口にした言葉は次の通りだった。
「公安警察の者だ。先ほどこの裏手の川の上流で女性の遺体が上がった。何か知っていることがあれば教えて欲しい」
机の男は慌てて立ち上がると眉を曇らせ首を傾げた。
「これはこれはお勤めご苦労様です。大統領閣下の誕生日も近いというのに女性の不幸など……恐ろしいことです。が、私も初めて聞くことで……詳しく教えていただければ何か思い当たることがあるやもしれません。例えば女性の年齢とか、ご職業とか」
机の男に対しガルゾはつれなく応じる。
「知っていることがないなら構わん。そう言えば、街で聞いたのだが貴様は犯罪の相談を受けていると聞いた」
机の男が破顔微笑した。
「残念ながらその通りです」と筆記用具を右手で遊ばせて迷惑げに答える。
「無論警察を勧めるのですが……ご存じでしょう?
お上の手を煩わすのを嫌う人間も多いのです。わたくしなど弁護士でもないのに奇妙なことと思いますがね。
慈善活動と思って話し相手にはなっております。
内容次第では当局にお伝えしたこともあります。ご存じかと思いますが」
その淀みない言い訳にガルゾは不満だった。言葉の調子に反して思ったよりこの男は堅固と彼は思う。押し問答したところで無駄と即断し警告を食らわして仕舞いだ。
「この界隈にも多くの模範的な市民がいる。
そのような人物を頼り頼られるのは不思議なことではない。
貴君も言っていたとおり、手に余るようなことがあれば最寄りの警察に相談するといい。
なお貴君の申し述べたことは追ってこちらでも調査する。
疑義があればまた連絡する」
中年男は満面の笑みで頭を下げた。
ガルゾは鼻であしらうと敬礼のみで表に出て行こうとする。中年男はすんでの所で引き留めた。ガルゾの名を尋ねる。相談するにも紹介があれば差しつかえない。公僕の証明を得るべしとの慎重な判断もある。
ガルゾは妥当と思い身分証を見せつけた。
「公安警察警部ガルゾだ。
ボルヤゾさん。
警察の窓口に来庁頂いた際には、私の容姿を付け足せば話は容易だろうよ」
ボルヤゾはその名をどこかで聞いた気がしたが愛想笑いを優先した。
見送りなど意に介さずその警部は霧のごとく姿を消す。
部屋が落ち着きを取り戻す。
中年男は緊張が解けて椅子に尻を落とした。女は肺にため込んでいたタバコを吐いた。そこに隣の部屋から眼鏡の年若い男が扉を開けて現れた。
「もう行きましたかねボルヤゾさん?」と慎重に窓辺に近づくと外を伺う。
「おそらくね。朝っぱらからご苦労なことだ。公僕が真面目な国はまだ見込みはある。ルーミルくん。あのガルゾとか言う公僕に目をつけられたと思うかね?」
ルーミルと呼ばれた窓辺の男は首を振った。彼は別室で一部始終を見守っていたのだ。
「違うと思います。公安警察のやる手ですよ。女の死体云々は本当でしょ。それを口実に怪しげな所に探りを入れに来たと」
公安警察。
この国を制御統制する手足だ。市民から忌み嫌われ恐れられている。ルーミルも勿論同じだった。
「標本抽出的にあちこちで警告して回るんです。それが彼らの治安維持なんです。
どこかに眼があり耳がある。そう思わせれば安全を買える。
公安警察最大の味方は模範的市民てやつですよ」
ルーミルの悪言にボルヤゾは同意しかねた。彼の方が年の功だ。
「みなが三文役者とは思わぬことだな。
思うに、この国の市民は従順なふりをするのがとかくうまい。その実不平不満が渦巻いている。確かに肩で風切る警官を見ればへりくだるのを厭わない。
本当は今に見てろと皆、思っている」
ボルヤゾは笑う。ルーミルは同調せず首肯だけしておいた。
無関心を装っていた女はそのルーミルを睨めつける。それに気づいたルーミルがはにかんだ。気まぐれな女は気分を害し立ち上がるとルーミルのほっぺたを指でつつく。
「この国の独裁者は怖いのよ。粗相は命取り。余計なことは言わない。しない。
覚えておいて」
ルーミルは愛想笑いで応じる。
「ピーンさん。それでは商売あがったりですね」
その顔に真剣味はない。冗談でないと秘書の女ピーンはこのバカと毒づいた。
「それより死んだ女の人が可哀想よ。ドブ川に放り込まれるなんてよっぽどだわ。
怖い怖い。命より大事なことってあるのかしら?」
ちっとも気の毒そうでないピーンの問いにルーミルは自信満々に答える。
「勿論ありますよ。お金です。この世がどれだけ酷くなろうが、お金さえあればなんとでもなりますからね。せいぜい稼がせて貰いましょうよ」
そう言って彼は野心の燻る笑みを浮かべる。女は呆れてボルヤゾに助けを求めた。ボルヤゾは肩をすくめる。
「金の続くうちは君らは私の大事な謀臣、と言うことかな。せいぜい働いてくれたまえよ。警察の接待だってしてもらう」
ピーンはがっかりした口調で「では早く人を雇ってください。特別な仕事とやらのためにね」と愚痴る。
ボルヤゾとルーミルは互いに見やった。ボルヤゾはピーンを宥めてやった。
「もう何人かに絞ってるよ。有望な者達だ。最後の試験もクリアできるだろう。特に飛び入りの若者とか驚かせてくれる」
それでも女はふて腐れていた。椅子に座り直しローテーブルのライターを拾う。二三度火花を飛ばして紙タバコに火をつけた。吹かして彼女は零す。
「大統領殺しの鉄砲玉なんて嫌な話」
彼女はボルヤゾにもタバコを勧めた。彼は断った。タバコも酒もやらないのだ。なぜならと彼は誓った。
「独裁者を打倒するまで控えるよ。我々の仕事を果たすまではね。それに煙草は健康によくないよ」
そう言うと椅子から身を乗り出し後ろを振り返った。
窓外の雨は降り続いている。
彼は闖入してきた警部の名前がどうも引っかかっていた。
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