『静けさの向こうへ』 ①
それは、何の変哲もない火曜日のことだった。
清瀬衛、四十五歳。都内の印刷会社に勤める営業マン。年齢の割に落ち着きがないわけではないが、目立った取り柄もない。
今はただ、毎月のノルマに追われて街を歩く、そんなごく普通のサラリーマンだ。
その日も彼は、古びたパンフレットを小脇に抱えて、アポイントの取れない顧客先へ「ついでに寄ってみた」だけのつもりだった。
が、目的のビルには関係者以外立入禁止の札。
インターホンを押しても応答なし。やれやれ、無駄足か――。
彼は肩をすくめてから、昼食を取ろうと近くの飲食店を検索する。だがスマホの画面は陽射しに白く霞み、どこか気怠さを感じた。
ふと、目に留まった脇道。
商店街の裏手にある、誰も通らないような狭い路地だった。昼なのに、妙にひんやりとした空気が漂っている。
気まぐれに足を踏み入れてみる。
こういう気の抜けた瞬間に、少し変わった定食屋にでも出くわさないかという、営業マンとしての長年の勘だ。
だが、そこにあったのは飲食店ではなく――。
「……旅行会社?」
路地裏の壁に、ぽつんと存在する一枚の木製看板。
小さな扉と、その上に取り付けられた洒落た真鍮のエンブレム。
看板にはこう記されていた。
「NEXUS Gate Tours」――あなたの願い、異世界までお連れします。
冗談みたいな謳い文句だった。
清瀬はしばらく看板を眺めていたが、なぜか視線が離せなかった。
笑って通り過ぎようとした。しかし、足が動かない。
――異世界に、行けたら。
その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、胸の奥に眠っていた何かがざわめいた。
忘れられない女(ひと)がいた。
もう二度と会えないと、自分に言い聞かせてきた。
それでも、彼女が最後に何を思って自分の元を去ったのか――その答えを、知りたいとずっと思っていた。
思い出すのは、たとえば雨の日のことだった。彼女、美咲は濡れるのも気にせず歩くのが好きな女だった。
傘を差さずに歩く彼女に「風邪ひくぞ」と声をかけたとき、「あなたが隣にいるなら、きっと大丈夫」と微笑んだ。その言葉が、妙にくすぐったくて、でも嬉しくて、清瀬はそれ以来、雨が嫌いじゃなくなった。
それから、寒い冬の朝。凍えた手をこすり合わせるように重ねたとき、彼女が「手ってね、記憶が詰まってるんだって」と言った。
「優しい人は、温かさの代わりに、悲しみもたくさん抱えてる。あなたの手、そういう手だね」
そのときは何を言ってるのかよくわからなかったけど、今でもその感触は忘れられない。
一緒に行った旅行先では、美咲は必ず“道に迷った”ふりをした。
「だって、ちゃんとあなたが探してくれるって思ってるから」
迷ったように見せかけて、振り返ったときの笑顔が、まるで少女みたいだった。
いつも、何かを思い出すような瞳をしていた。何かを思い出そうとして、でも届かないような、遠くを見る目。
彼女の容姿は、なぜか思い出せない。
笑った顔も、泣いた顔も、手を伸ばせば届きそうなくらい近くにいたのに――ぼんやりと、記憶の輪郭だけが残っている。
美しかったのか、平凡だったのか、それすら曖昧だ。ただ、確かに「美咲」という名だけが、胸の奥に焼き付いている。
あの日、突然いなくなった理由を、清瀬は訊けなかった。
問いただす資格もない気がした。ただ、ひとつだけ、聞きたかったことがある。
――俺のこと、本当に、好きだったのか?
清瀬はゆっくりと、扉に手を伸ばした。
真鍮のノブは驚くほど冷たく、そして確かな重みを持っていた。
店内に入った瞬間、空気が変わった。香水とも線香ともつかない、異国の風のような匂いが鼻をくすぐる。床は深い赤褐色の木材で、壁には手描き風の地図や奇妙な風景写真が飾られていた。どこか現実離れした空間――まるで、時間の流れが違う場所に迷い込んだようだった。
「いらっしゃいませ。ご来店、ありがとうございます」
優雅な声音が響いた。
カウンターの奥にいたのは、銀髪の長い髪を編み上げた女性。整った口調に、ふわりとした雰囲気。しかし、どこかこの世界の人間とは違う“異質さ”がある。
――耳が、尖ってる……?
目を凝らした清瀬は、思わず息を呑んだ。明らかに人間離れしたその姿に戸惑いながらも、彼は問いかける。
「ここ、本当に……旅行会社なんですか?」
銀髪の女性――フィリアは微笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
「はい〜。正式には“NEXUSゲートツアーズ”っていいますの。お客さまの“行きたい”って気持ちを、異世界まで、ふわっとお連れする……そんな、ちょっと風変わりな旅行会社なんですよ〜」
フィリアはやわらかく微笑みながら、手を差し出して店内奥のテーブル席を示した。
「どうぞどうぞ、お掛けになってくださいませ〜。お飲みものは、あったかいお茶でよろしいですか?」
言われるがままに椅子に腰かけた清瀬は、ふぅとひと息ついたのち、ゆっくりと口を開いた。
「……異世界旅行って、冗談で言ってるわけじゃないんですか?」
清瀬がそう問いながら視線を巡らせたとき、ふと、鼻腔に漂う香りに気づいた。
あたたかく、どこか懐かしさを帯びた香り。深煎りのコーヒーのようでいて、わずかにスパイスのような香ばしさが混じっている。まるで焚き火の煙がほのかに残るカップから、静かに湯気が立ち上るような、そんな香りだった。
――こんな香りのコーヒー、今まで飲んだことがあっただろうか。
その問いが胸の内で膨らみかけたとき、フィリアが湯のみを彼の前にそっと置いた。
「いえいえ、冗談なんてとんでもないですわ〜。NEXUSはですね、お客さまの“強い思い”が鍵なんですの。たとえば、夢を叶えたい人とか……過去をやり直したい方とか……何か、大事なものを探している方とか〜」
彼女は、棚から取り出したカタログのような冊子をパラパラとめくりながら続けた。
「たとえばですね〜、砂漠のオアシスで本物の龍を見に行くツアーとか、千年に一度だけ咲く魔法の花を見る秘境コースとか……
最近人気なのは、“涙で語る吟遊詩人の国”なんてのもありますのよ〜。けっこうしんみりするらしいですわ〜」
清瀬は呆気に取られて言葉を失った。だが、どこかでその話がまるで絵空事に聞こえなかったのは、店の空気のせいか、それとも目の前のフィリアのせいか。
フィリアはページをめくる手を止め、ふと湯気の向こうに目を細めた。
「……実は、本日のお客さまにぴったりな場所がひとつ、思い当たりましたの」
「そして……」
フィリアは、ふっと声を落とした。
「今回、特にご案内したいのは、“記憶の
水面に触れますとね、ご自身の“忘れたくなかったもの”が映し出されるんですのよ〜」
「忘れたくなかった……もの?」
思わず繰り返す清瀬の指先が、無意識に揺れていた。胸の奥で、何かが微かに反応する。
「はい〜。記憶って、とっても繊細なものですの。
無理に忘れたふりをしていると、心の奥で泣いていることもありますから……
お客さまが“確かめたい何か”があるなら、きっと、この泉はぴったりですわ〜」
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