一章 帰り者⑤
「何がおこるか、わからないですよ。あの場所は」
あの樹海には、常ならぬ生き物が
生きるために仕方なく神奈備へ入っているが、深くは入り込みたくない。
「危険は承知。ただとは言わない。礼は
一勾金と聞いて、十十木も
五人家族が十日間米の飯を食べれば、一
一勾金は一玄銀の百倍。
そもそも一勾金は金貨。数も少ない。常に手元に置けるのは、国主や郡主、その近侍たる兵たちだけだ。六路がただの兵仗ではないのが、この言葉からも明らか。しかしそれよりも十十木は、礼の額に興奮した。
(そんな大金を、千千木に残してあげられたら!)
たとえ
こちらの心を見透かしたかのように、六路の笑みが深くなる。
「一勾金、支払う。どうかな?」
「それは……前払いですか?」
「無論」
すかすように、六路は小首を傾げる。
「
急に
「本当に、一勾金を……」
「ねぇねっ!」
突然、背中に抱きつかれた。驚いて、背後に首をねじ向けると、千千木だった。十十木の背に額を
「ねぇね。神奈備の奥へ、行っちゃだめ! ねぇねが帰れなくなったら、いやだ! 帰ってきても、また俺のこと忘れてたら、いやだ」
「聞いてたの? 千千木」
外の人の気配が気になって、千千木は戸口近くで聞き耳を立てていたに違いない。
「いっちゃ、やだ。いっちゃ、いや」
腰に回された手を、優しく
「でもね、千千木。わたしが行けば、たくさんお金が……」
「そんなのいらない。俺はねぇねが、そばにいてくれるほうがいい」
額を押しつけられた背中が、湿って熱い。十十木は目を伏せた。
千千木の動揺が、体温とともに伝わってくる。こわい、こわい、行かないでと、湿った温かさが肌を通って胸に響く。
弱々しいながらも、必死に抱きつく弟の細い腕を
(そうか。わたしがしなればならないのは、命があるうちに、わたしの死についてゆっくりと語って聞かせて、心の準備をさせてやることかもしれない。お金よりも……)
千千木にはまだ、根糸のことを話していない。
視線を前に戻すと、気の毒そうな村長の視線とぶつかった。
阿嶽は、どうしたものかとおろおろと、六路と蘇馬に伺いを立てるように交互に見ているが、蘇馬は険しい表情を崩さず、六路は薄ら笑んだまま。
「すみません、お三方。わたしには、この弟がいます。この子をおいて、神奈備の奥深くへご一緒できません」
告げると、六路は不思議そうな顔をした。
「礼は一勾金だよ?」
「それでもお断りします」
しばし六路は沈黙したが、ほどなくあっさりと
「わかった。無理強いはできぬから、他を当たろう」
「え、でも! 六路様。彼女のような人は、他には見つけられませんよ」
阿嶽が慌てたように六路の
「手を離せ、無礼な。若が決められたことだ」
「けれど……」
言いつのろうとする阿嶽にかまわず、六路は村長に言う。
「どうやら、彼女には承知してもらえないようだ。手間をかけたね、村長」
「すみません」
「かまわぬよ。隣の村へ行き、別の者を探すとする。旅に必要なものを、今日中にそろえてもらえるかな? 明日、立つ」
それだけ言うと六路は背を見せ、蘇馬を従え、さっさと歩き出す。阿嶽は彼らに追従しながらも、未練がましく幾度もふり返っていた。
「悪かったな、
村長は千千木の頭を撫で、六路たちの後を追っていった。
腰にしがみつく千千木の腕をほどかせると、十十木は正面にしゃがんで、弟の両手を握る。
「ほら、泣かないで。わたしは、神奈備へは行かないから。ね」
「本当? どこへも行かない? 俺をおいていかない? ずっと、どこへも行かない?」
一年後か、二年後か、間違いなく十十木は千千木をおいて消えてしまう。今これを良い機会として、己の余命を伝えるべきなのだろうか。
迷ったが、涙いっぱいの
「うん。ずっと、どこへも行かない」
十十木は噓をついた。
伝えなければならないが、今でなくても良い。もう少しゆっくりと。
十十木と千千木は、日が暮れるとすぐに横になる。
火皿に
それが習慣だったので、今夜のように満月で、灯りがなくとも夜道を歩けるほどの夜であっても、二人は早々に横になっていた。
千千木の隣に
(今夜は満月だった)
袖をまくって、
今朝の出来事は、千千木に十十木の余命を伝える良い機会だったのかもしれない。しかしあんなに泣きじゃくる弟に、到底言えなかった。もっと千千木の体調が良くて、気持ちが落ち着いているときに、伝えるべきだ。しかし早いうちに、とは思う。
寝返りを打ったそのとき、小さく戸を叩く音がした。
上半身を起こして耳をすます。するともう一度軽く、戸が鳴る。
「すみません、夜分に。わたし、あの、阿嶽です。今朝、お目にかかった」
細い声が聞こえた。
今朝やってきた、三人の中のひとりだ。草学者と紹介されていた男だったはず。その人がなぜこんな夜更けにやってくるのかと思ったが、起き上がり土間に降りた。
戸を開くと、
「寝てましたよね、すみません。でも、……どうしても、お目にかかってお話を聞いてほしくて。明日の朝、六路様は隣村へ向かうと仰せなもので」
「なんですか? お話って」
寝ている千千木を起こさないように、後ろ手に戸を閉めて外へ出た。
「どうしても、あなたに神奈備に同行して欲しいんです」
「今朝も言いましたが、病弱な弟をおいて行けません」
背を向けようとしたが、阿嶽の言葉が十十木の動きを止めさせた。
「その大切な弟さんを、永久に見守りたいとは思いませんか?」
永久に見守れるものならば、見守りたいに決まっている。
「不慮の事故や、病などで、人は不意に簡単に死んでしまう。けれど死ぬことなく、ずっと弟さんを見守っていきたいとは思いませんか。できるならば、永久に」
なぜいきなり彼が、こんなことを問うのか。余命を常に意識している十十木には、嫌な問いだった。
「死を免れる生き物はいないでしょう。この世の摂理ですから」
「摂理から外れることは、できます」
「どうやって? 世迷い言にしか聞こえません。証拠があれば信じますが、そんなものないでしょう。わたし、明日も早いので」
冷ややかに言うと、阿嶽に背を向けて戸に手をかけた。
「待ってください。証拠と言うなら、わたしが証拠です」
つい、笑ってしまう。
「あなた? あなたの何が証拠ですか」
「わたしは、百年以上前の生まれなんです」
風が吹き、小屋の裏にある木立がざわりと鳴った。
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