一章 帰り者⑤

「何がおこるか、わからないですよ。あの場所は」

 あの樹海には、常ならぬ生き物がむ以上に、何かがあるのだと感じる。

 生きるために仕方なく神奈備へ入っているが、深くは入り込みたくない。

「危険は承知。ただとは言わない。礼はいつこうきん

 一勾金と聞いて、十十木もむらおさも、ぎょっと六路を見やる。

 五人家族が十日間米の飯を食べれば、一げんぎんが必要だと言われる。米の飯は、かなりのぜいたく。少しの米に、麦やひえあわを混ぜた庶民が口にする飯ならば、十日どころか三十日は食べられる。

 一勾金は一玄銀の百倍。

 そもそも一勾金は金貨。数も少ない。常に手元に置けるのは、国主や郡主、その近侍たる兵たちだけだ。六路がただの兵仗ではないのが、この言葉からも明らか。しかしそれよりも十十木は、礼の額に興奮した。

(そんな大金を、千千木に残してあげられたら!)

 たとえかむで何かがあって、十十木が戻れなくなっても、一勾金あれば千千木は当分困らない。成長して体が丈夫になるまで、充分に暮らしていける。

 こちらの心を見透かしたかのように、六路の笑みが深くなる。

「一勾金、支払う。どうかな?」

「それは……前払いですか?」

「無論」

 すかすように、六路は小首を傾げる。

如何いかがか?」

 急にのどの渇きを覚え、十十木はつばを飲み込む。

「本当に、一勾金を……」

「ねぇねっ!」

 突然、背中に抱きつかれた。驚いて、背後に首をねじ向けると、千千木だった。十十木の背に額をこすり付けて、押し殺した必死の声で言う。

「ねぇね。神奈備の奥へ、行っちゃだめ! ねぇねが帰れなくなったら、いやだ! 帰ってきても、また俺のこと忘れてたら、いやだ」

「聞いてたの? 千千木」

 外の人の気配が気になって、千千木は戸口近くで聞き耳を立てていたに違いない。

「いっちゃ、やだ。いっちゃ、いや」

 腰に回された手を、優しくたたく。

「でもね、千千木。わたしが行けば、たくさんお金が……」

「そんなのいらない。俺はねぇねが、そばにいてくれるほうがいい」

 額を押しつけられた背中が、湿って熱い。十十木は目を伏せた。

 千千木の動揺が、体温とともに伝わってくる。こわい、こわい、行かないでと、湿った温かさが肌を通って胸に響く。

 弱々しいながらも、必死に抱きつく弟の細い腕をで、十十木はため息をつく。

(そうか。わたしがしなればならないのは、命があるうちに、わたしの死についてゆっくりと語って聞かせて、心の準備をさせてやることかもしれない。お金よりも……)

 千千木にはまだ、根糸のことを話していない。

 視線を前に戻すと、気の毒そうな村長の視線とぶつかった。

 阿嶽は、どうしたものかとおろおろと、六路と蘇馬に伺いを立てるように交互に見ているが、蘇馬は険しい表情を崩さず、六路は薄ら笑んだまま。

「すみません、お三方。わたしには、この弟がいます。この子をおいて、神奈備の奥深くへご一緒できません」

 告げると、六路は不思議そうな顔をした。

「礼は一勾金だよ?」

「それでもお断りします」

 しばし六路は沈黙したが、ほどなくあっさりとうなずいた。

「わかった。無理強いはできぬから、他を当たろう」

「え、でも! 六路様。彼女のような人は、他には見つけられませんよ」

 阿嶽が慌てたように六路のそでつかむが、蘇馬が叩いて払いのけた。

「手を離せ、無礼な。若が決められたことだ」

「けれど……」

 言いつのろうとする阿嶽にかまわず、六路は村長に言う。

「どうやら、彼女には承知してもらえないようだ。手間をかけたね、村長」

「すみません」

 おびえたように村長は腰をかがめたが、六路はにっと口の端をつりあげる。

「かまわぬよ。隣の村へ行き、別の者を探すとする。旅に必要なものを、今日中にそろえてもらえるかな? 明日、立つ」

 それだけ言うと六路は背を見せ、蘇馬を従え、さっさと歩き出す。阿嶽は彼らに追従しながらも、未練がましく幾度もふり返っていた。

「悪かったな、も、安心おし。ねぇさんはどこへも行かないから」

 村長は千千木の頭を撫で、六路たちの後を追っていった。

 腰にしがみつく千千木の腕をほどかせると、十十木は正面にしゃがんで、弟の両手を握る。

「ほら、泣かないで。わたしは、神奈備へは行かないから。ね」

「本当? どこへも行かない? 俺をおいていかない? ずっと、どこへも行かない?」

 とつに答えられなかった。

 一年後か、二年後か、間違いなく十十木は千千木をおいて消えてしまう。今これを良い機会として、己の余命を伝えるべきなのだろうか。

 迷ったが、涙いっぱいのひとみを見ていると可哀相で、告白する勇気がしぼんでいく。

「うん。ずっと、どこへも行かない」

 十十木は噓をついた。

 伝えなければならないが、今でなくても良い。もう少しゆっくりと。


 十十木と千千木は、日が暮れるとすぐに横になる。

 火皿にあかりをともすと無駄な油を使ってしまうので、日のあるうちにゆうをすませ、暗くなると寝る。そしてお日様と一緒に起きるのだ。

 それが習慣だったので、今夜のように満月で、灯りがなくとも夜道を歩けるほどの夜であっても、二人は早々に横になっていた。

 千千木の隣にむしろを敷いて、十十木は横になる。胸の上にそでをかけ、煙抜きから射しこむ月光を見つめた。

(今夜は満月だった)

 袖をまくって、ひじの内側を月光にさらしてみる。青い筋がくっきりと、細いつる模様のように浮かんでいる。

 今朝の出来事は、千千木に十十木の余命を伝える良い機会だったのかもしれない。しかしあんなに泣きじゃくる弟に、到底言えなかった。もっと千千木の体調が良くて、気持ちが落ち着いているときに、伝えるべきだ。しかし早いうちに、とは思う。

 寝返りを打ったそのとき、小さく戸を叩く音がした。

 上半身を起こして耳をすます。するともう一度軽く、戸が鳴る。

「すみません、夜分に。わたし、あの、阿嶽です。今朝、お目にかかった」

 細い声が聞こえた。

 今朝やってきた、三人の中のひとりだ。草学者と紹介されていた男だったはず。その人がなぜこんな夜更けにやってくるのかと思ったが、起き上がり土間に降りた。

 戸を開くと、せた男の姿があった。月明かりのもとで、申し訳なさそうに肩をすぼめている。

「寝てましたよね、すみません。でも、……どうしても、お目にかかってお話を聞いてほしくて。明日の朝、六路様は隣村へ向かうと仰せなもので」

「なんですか? お話って」

 寝ている千千木を起こさないように、後ろ手に戸を閉めて外へ出た。

「どうしても、あなたに神奈備に同行して欲しいんです」

「今朝も言いましたが、病弱な弟をおいて行けません」

 背を向けようとしたが、阿嶽の言葉が十十木の動きを止めさせた。

「その大切な弟さんを、永久に見守りたいとは思いませんか?」

 まゆをひそめてしまう。彼が十十木の病を知っているはずはないのだが、今の自分に、当てこすられたような気がしたからだ。

 永久に見守れるものならば、見守りたいに決まっている。

「不慮の事故や、病などで、人は不意に簡単に死んでしまう。けれど死ぬことなく、ずっと弟さんを見守っていきたいとは思いませんか。できるならば、永久に」

 なぜいきなり彼が、こんなことを問うのか。余命を常に意識している十十木には、嫌な問いだった。

「死を免れる生き物はいないでしょう。この世の摂理ですから」

「摂理から外れることは、できます」

「どうやって? 世迷い言にしか聞こえません。証拠があれば信じますが、そんなものないでしょう。わたし、明日も早いので」

 冷ややかに言うと、阿嶽に背を向けて戸に手をかけた。

「待ってください。証拠と言うなら、わたしが証拠です」

 つい、笑ってしまう。

「あなた? あなたの何が証拠ですか」

「わたしは、百年以上前の生まれなんです」

 風が吹き、小屋の裏にある木立がざわりと鳴った。

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