最初の夜

 レコード盤を手にしたクレアは、それが冷たいというより「無温」だと感じた。触れているのに、まったく体温が伝わらない。まるで現実世界の物質ではないかのようだった。


 プレイヤーは屋根裏にあった。亡き父が昔使っていた古い真空管アンプとセットで、埃をかぶったまま放置されていた。何年も触れていなかったのに、なぜか電源は生きていた。コンセントを差し込むと、かすかに「ジジ……」と真空管が温まる音がした。


 クレアはそっとレコードをセットした。


 針を置く――


 パチ……パチ……というノイズの奥から、徐々に「音」が浮かび上がる。


 最初は風の音だった。どこか遠い場所で木々が揺れ、葉がこすれる音。それに混じって、何人かの子供の笑い声が響く。


 クレアは眉をひそめた。それは記憶の中にある“どこかの夏の日”の音に酷似していた。


 やがて声が変わった。


 「クレア、待って! おいてかないで!」


 ――ジョナだ。


 はっきりと、テープではなく、まるで“今”そこにいるかのような生々しさで、兄の声が再生された。


 続いて、もうひとつの音。


 「チィ……チィ……」


 それは、あの“音”だった。兄が消えた夜、そしてつい先日森で聞いた、あの異様なノイズ。高く、細く、骨に刺さるような音。


 だが今回は、それが録音ではなかった。


 部屋のどこかから、“響いている”。


 クレアが振り向くと、屋根裏の隅にある古い鏡が曇り始めていた。霧のような白がガラスの内側から立ちのぼり、そこに映る景色が歪んでいく。


 鏡の中には、エルムヒルの森が映っていた。だがそれは今ではない。15年前の風景だった。まだ朽ちていない木の柵、ペンキの剥がれていない校舎の外壁――そして、森の入り口に立つ兄ジョナの姿。


 彼は何かを見ていた。鏡の中、奥へと進もうとする瞬間だった。


 クレアは無意識に手を伸ばした。ガラスの表面に触れた指先が、静かに沈んでいく。


 その瞬間、全身が引き込まれた。


 目を開けると、そこは夜の森だった。


 だが寒くない。風もない。音が消えた世界。全てが凍結されたかのように、止まっていた。


 木々の間に、誰かが立っていた。


 それは、もう一人の自分だった。


 15年前のクレア。少女だった頃の彼女が、森の奥をじっと見つめていた。


 そしてその隣に――赤い影が立っていた。


 目が、いくつもあった。笑っているのか、ただ“見ている”のかもわからない。ただ、確かに“気づかれて”いる。


 再生された“最初の夜”が、いま、再び始まった。

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