壁紙の裏

 クレアが目を覚ましたのは、寝室の床だった。夜の明かりも朝の光もなく、ただ静寂が部屋を満たしていた。


 意識が戻るにつれ、頭の奥でまだあの音――骨をかくような「カリ……カリ……」という音が微かに残響していた。耳ではなく、思考のどこかをこすっている。


 立ち上がると、視界がわずかに歪んだ。家具の輪郭が微妙に揺れて見える。部屋は以前と同じはずだったが、何かが“ずれて”いる気がする。


 壁の一角に、異様なものを見つけた。寝室の北側、長年カレンダーをかけていた場所――そこに、何枚もの紙片が乱雑に貼り付けられていた。


 クレアが近づくと、それは破れた“壁紙”だった。ところどころ剥がれ、裏面には小さな文字がびっしりと書き込まれている。


 掠れたインクで、延々と繰り返されていた言葉。


「ノイズの中に隠れろ、見つからないように、音を消せ、音を――」


 その文字列が、何百回も重ね書きされていた。


 クレアは壁紙をさらに剥がしていった。紙が破れるたび、部屋の温度が一度ずつ下がるように感じた。爪がインクまみれになり、皮膚が紙に引っかかって赤く染まっていく。


 すべて剥がし終えたとき、現れたのは一枚の絵だった。


 壁そのものに、赤黒い絵具で描かれていた。奇怪な建造物、うねる地形、そして中央には“目”――何十もの目が渦を巻くように集まり、クレアの視線をじっと吸い込んでくる。


 目が合った気がした。


 同時に、耳元で「また見つけた」と囁く声が聞こえた。


 クレアは咄嗟に後ずさった。だが背中に冷たい感触が触れた。誰かが――否、“何か”が、壁の向こう側に立っている。


 次の瞬間、電話が鳴った。


 古びた黒電話。実家の階段下にずっと置き去りにされていたはずのものが、いつの間にか寝室の角に現れていた。


 ベルの音はやけに低く、耳に響くというより、骨を震わせるようだった。


 クレアはおそるおそる受話器を取った。


 「――レコードの針を戻せ。あの夜に」


 声は男だった。だが明らかに人の声ではなかった。機械のように無感情で、無機質に整いすぎている。


 「なぜ……私を……」とクレアが問うたとき、電話の向こうで何かが“笑った”。


 そして受話器が熱を持ち、突然焼けるような痛みが走った。手から滑り落ちた黒電話は音も立てずに床へ消えた。まるで、存在しなかったかのように。


 代わりに、そこには一枚のレコード盤が残されていた。真っ黒で、中心に文字はなかった。ただ、レーベル部分に赤く指でなぞったような手書きの文字。


「Side A:最初の夜」

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