第2話-仕事終わりって、別に楽しいことばかりじゃない
「そういえば、西山って、スーパーヒーローについてどれくらい知ってる?」
「僕ですか?うーん……まあ、普通の人と同じくらいだと思いますけど。」
「なら問題ないな。俺だって、公式に正体が明かされてるポリス様みたいなのを除けば、誰が誰だかなんて知らないし。」
「じゃあ……その、これからスーパーヒーローに会うってことは、何か大事な話でもあるんですか?それとも、危険な任務とか……」
「いやいや、全然。ちょっとした顔合わせだよ。コーヒーでも飲みながら世間話する程度。最近の活動状況や記録を確認して、困ってることがあれば手伝うってだけさ。」
「そうなんですね……でも橘さん、なんで生のトマホークステーキなんか持ってるんですか?さっき昼飯食べたばっかりじゃないですか?」
「これな、まあ後で分かるって。だからさっきスーパーヒーローの知識を聞いたんだよ。ま、別に詳しくなくても大丈夫だけどな。ついでに、これから会うメンバーをちょっと紹介しとく――って言っても、知らなくても困らない情報だけどな。」
「まずはレジャイナ。彼女は、偶然異世界からこっちの世界に転移してきたエルフ族の女王さ。あっちの世界の文明レベルは中世くらいでさ、銃は使えなくて、クロスボウで戦う感じ。科学よりも魔法が主流みたいで、ちょっとした魔法も使えるらしい。」
「えっ、それってキャラ設定とかじゃなくて、本当に異世界ってあるんですか?」
「今の時代、どんなイカれたことだって起きるからな。――ま、とにかく行くぞ。」
橘と西山は車でDSA本部に戻り、エレベーターに乗ってある階の半分オープンな休憩スペースへと向かった。そこにはソファなどのくつろげる家具が並び、ドリンクバーや軽食も用意されている。
ふたりが中に入ると、すでにひとりの女性が静かにお茶を飲んでいた。銀色に近い長い髪に、知性を感じさせる緑の瞳、そして尖った耳――まさにエルフの特徴そのものだった。
彼女は、茶色と白を基調にした布製のシンプルな服に、緑色のマントを羽織っていて、まるでRPGの世界から飛び出してきた冒険者のような格好をしていた。
その隣では、人間よりも大きな体格の狼犬がカーペットの上で寝そべっている。淡いグレーのふわふわした毛並みが、ゆっくりとした呼吸に合わせて微かに揺れていた。
「……あの人ですよね?僕たちより若く見えるんですけど。」
西山が小声で橘に訊ねた。
「見た目に騙されんなよ。あの人、何百年も生きてんだから。」
「……あ、じゃあ何も言いません。」
ふたりがさらに近づこうとしたそのとき、狼犬がふいに反応した。突然跳ね起き、青みがかった鋭い瞳でふたりを睨みつけ、唸り声を上げながら戦闘態勢を取った。
「お、おい、落ち着けってば……今日はいいモン持ってきてやったんだぞ?」
橘はすっと西山の前に出て、敵意がないことを示すように手を差し出しつつ、ビニール袋に入った生ステーキを軽く揺らしてみせた。
「カニス!落ち着きなさい、座って!」
レジャイナがすかさず声を上げると、カニスは少し唸りながらも徐々に落ち着きを取り戻し、ゆっくりとその場に座り込んだ。
橘はビニール袋からステーキを取り出し、大きなお皿に載せてカニスの前に差し出す。さっきまで牙を剥いていたカニスは、一転して大人しくなり、その場で牛肉を夢中でかじり始めた。
「本当に……申し訳ないです。おふたり、大丈夫でしたか?」
レジャイナがすぐに頭を下げてきた。
「大丈夫だよ。まあ、久しぶりに吠えられたからちょっとびっくりしたけどな。ったく……だから言ったろ、この辺じゃ生きたニワトリなんて手に入んねーって。西山、おまえは大丈夫か?ん?やけに落ち着いてんじゃん?」
橘が西山の方を見ると、彼は特に驚いた様子もなく、いつも通りの表情で立っていた。
「え?ああ……なんとなく、吠えられるかもって思ってたので、心の準備は少ししてました。」
「その勘、案外鋭いな。レジャイナ、紹介しとくよ。こっちは西山、最近DSAに入った新人だ。」
「はじめまして、西山と申します。よろしくお願いします。」
「こんにちは、レジャイナです。初対面なのに、こんなハプニングがあってごめんなさいね。こちらこそ、よろしくお願いします。」
そう言って、橘と西山はそれぞれドリンクを手に取り、三人はソファに腰を下ろした。軽い挨拶を交わしたあと、橘はさっそくレジャイナとの会談を始め、西山はその横で静かに観察しながら、内容を記録していった。
「それで、レジャイナ。最近は元気にやってるか?」
「ええ、おかげさまで。橘さんは?」
「まあ、いつも通りって感じかな、はは。……さて、君の最近の活動記録をざっと見させてもらったけど、かなり順調みたいだな。いくつかの事件をうまく未然に防いでるし、間接的な被害もかなり抑えられてて、助かってるよ。俺の仕事量も減ったしな、感謝感謝。」
「ふふっ、いえ、それが私の役目ですから。」
ふたりのやり取りは、今のところとても和やかで、どこか親しい雰囲気さえ漂っていた。
「たださ……ちょっと確認したいことがあってな。最近、カニスと一緒に外で狩りをしてるって話を何件か聞いたんだけど……?」
「ええ、そうなんです。私たちの元の世界では、時々狩りに出るのは普通のことだったんですよ。カニスもどんどん大きくなってきて、家の中だけだと運動不足になりがちで……。食事の量も増えてきたので、ちょうどいい運動になるかなって。それに、食材も手に入りますし。」
「なるほどね、事情はわかった。……でも、残念だけど、こっちの世界ではそう簡単にはいかないんだ。どこでも自由に狩りできるわけじゃないし、どんな動物でも捕っていいわけじゃない。ちゃんと許可された狩猟区でやらなきゃダメなんだ。」
「――ああ、そうだったんですね……それは本当に申し訳ありません。ご迷惑をおかけしていないといいのですが……」
(もう十分迷惑かけてるけどな……)
橘はそう心の中で毒づきながらも、口には出さずに飲み込んだ。
「いや、大丈夫。……まあ、動物保護団体とか、公園の管理事務所とか……あと、君のアンチっぽい人たちからも何件かクレームは来てるけどさ、どれも小さい話でね。いまのところは特に他に問題が出てるわけじゃ――」
「では……どこなら合法的に狩りをしてもいいのか、どうやって調べれば?」
「え?……いや、ネットで調べればいいんだよ。ほら、ググるってやつ。」
「ネットって、あの“インターネットに繋ぐ”ってことですよね?それはもう覚えました。でも……ググるって、何ですか?」
その瞬間、西山はそっと橘の顔を盗み見た。「うわ、めんどくせぇ……」という表情が浮かんでいた。
「えっと……前に渡したスマホ、覚えてるか?今、持ってる?」
「あっ、それなら……ここにありますけど、なぜか数日前から動かなくなってて……」
レジャイナはポケットからスマートフォンを取り出して橘に見せた。
画面には、バッテリー切れを示すアイコンがはっきりと表示されている。
「このマークな、バッテリーが切れてるって意味。だから、ちゃんと充電して使わないと――」
「バッテリーって、なんですか?」
「…………」
「そういえば、うちにある“超でっかいスマホ”も、なんかよく分かんないボタン押したら映らなくなっちゃって……」
「……“超でっかいスマホ”? ……まさか、それって……テレビのこと?」
「あっ、そうそう、それ!テレビ! あなたたちのハイテク機器は、まだ私にはちょっと難しくて、えへへ……」
「…………」
「……あれ?もしかして、怒ってますか?」
「い、いや? 怒ってなんかないよ? ただ最近、ちょっと顔面神経がアレでね。」
「顔面……?」
「――どうでもいいってば。」
「……もういいや。じゃあこうしよう。今後、狩りに行きたくなったら、まずうちに来て。こっちで誰か案内役をつけるから。あと、スマホとかテレビとか、そのへんの不調も、後でスタッフを一緒に家まで送って確認してもらうよ。」
「えっ、本当ですか?ありがとうございますっ!」
レジャイナは心から嬉しそうに笑った。――その笑顔を前に、橘の“営業スマイル”の口元が、わずかに震え始めた。
会談もひと段落し、レジャイナはクロスボウと矢筒を手に取り、カニスを呼んで帰る準備を始めた。
そのとき、カニスが尻尾を振りながら橘の方へと歩み寄ってきた。
「ん?なんだよお前……俺に何かくれるのか? へえ、やるじゃん。」
橘は少しかがみ、カニスの大きな口元に手を差し出した。
次の瞬間、カニスはその巨大な口を開き――
ガリガリに噛み砕かれたトマホークステーキの骨を、べっちょべちょの唾液まみれのまま、橘の手のひらに落としてきた。
隣で見ていた西山も、さすがにその光景には目を見開いた。
そして橘は――口元の営業スマイルが完全に崩壊寸前だった。
「橘さん、西山さん、本日はありがとうございました。またお会いしましょうね。」
レジャイナは丁寧に一礼し、カニスも「わん」と小さく鳴いてふたりに別れを告げた。
「バイバイ。」
橘と西山はふたり並んで手を振りながら、彼女たちがエレベーターに乗り込むのを見送った。
そして――エレベーターの扉が完全に閉まった、その瞬間。
橘は手に持った、唾液まみれの骨をぎゅっと両手で握り――
バキッと音を立てて真っ二つに折った。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!このクッソ犬がぁぁぁぁ!!お前のヨダレくっっっっっっさ!!」
橘はそのまま骨をゴミ箱に叩き込むと、無言で洗面台へ直行。
石鹼をこれでもかというほど泡立てて、手を鬼のように洗い始めた。
「橘さん……大丈夫ですか?」
「はぁ……今日って、ある意味ラッキーだったかもな。あの人、珍しく“二百年前の家出エピソード”を語り出さなかったし。……前回なんて、一時間以上延々と語られたからな……」
橘は鬼のように手を洗ったあと、電話を取り、内線を押した。
「……あ、俺だけど。悪い、あの“おばあちゃん”とその犬、ちゃんと面倒見てくれる人手配してくれ。いや、一人じゃ足りないな、二人……いや、いっそシフト制で何人か回してくれ、頼むから。俺、もう限界。」
そう言って電話を切ると、橘は無言でコップに飲み物を注ぎ、一気に飲み干した。
「ふう……やっと落ち着いた……」
「橘さん、このあとはどうしますか?」
「んあー、本当はパリピと面談の予定だったんだけどな。どうやら出席率の問題で、先生に補習残留させられたらしい。まあ、あいつらにはまだまだいろいろ問題が出てくるだろうけど……俺たちが手伝えるのは、せいぜい出席率とか単位の話くらいだな。」
「……高校生か……」
西山も思わず、ぽつりとつぶやいた。
「ん?西山、お前の高校時代はどうだった?今思い返すと懐かしかったりする?」
「……うーん、もうそんなに昔になったんだなって、それだけです。」
「だよなあ。あいつら見てると、つくづく時間って早いもんだって思うよ。
気づいたら俺も三十越えた立派なおっさんだし、はは……。
――さて、今日の予定はこんなところか。そろそろオフィスに戻ろうか。」
橘と西山はオフィスに戻ると、橘は西山に事務作業の流れや内容を教え始めた。
「まあ、普通の会社員とそんなに変わらないよ。決まったSOP(作業手順)に従って、事務作業を淡々とこなすって感じかな。
例えば、さっきの戦闘後の現場整理の報告とか、午後に行ったヒーローとの面談内容なんかをまとめて、資料にしてアップロード提出。
それから、メール対応もある。社内のものもあれば、外部からの問い合わせも来る。」
橘はディスプレイに映し出されたメールを指差しながら続ける。
「ほら、これ見てみ。
『こんにちは、青羽高校です。文化祭にポリス様をお招きしたく……』
アイツ歌も踊りもできねーのに、何しに行くんだよ……ってのはもちろん返信できないからな。
SOP通り、こう返すんだ:
『お問い合わせありがとうございます。ご本人の意向とスケジュールを確認のうえ、ご連絡いたします』――って感じで。」
橘は次のメールも開いた。
「んで、こっちは……
『こんにちは、私たちはVERNEXアウトドア用品会社です。新商品のPRにルーキーさんをぜひ……』
は?アウトドア?あの子、外なんか一歩も出ねーぞ。でも、サンプルはもらっとくか。公関品もらえるならアリだな、ハハ。」
橘はひと通りふざけ半分で説明を終えると、二人はそれぞれの席に戻り、しばらく黙々と仕事を続けた。
いつの間にか外は夕方になり、橘は周囲を軽く見渡してから、自分の荷物を片付け始め、西山のデスクに声をかけに行った。
「よう、西山。そっちはひと段落ついたか?よかったら、あとで俺の友達らとメシでも行かない?」
「えっと……すみません、でも今週と来週はまだ覚える業務があって、他の先輩方も順番に来るらしくて……」
「そっか、お疲れさん。
まあ、そのうち会議とか報告系の仕事も出てくるけど、慣れればたいしたことないし。
何かあったらいつでも聞いてくれていいぞ――ただし、俺は退勤したら基本もう仕事のことは考えないタイプだからな?ははっ。
じゃ、お先に~」
「はい、橘さんもお疲れさまでした。」
===============================
橘はオフィスを後にし、エレベーターの前で到着を待っていた。
「ピンポーン」という音とともに扉が開き、中には先客が一人いた。
「あ……どうも……」
「こんにちは……」
お互いに少しだけ気まずそうに挨拶を交わし、橘もそのままエレベーターへ乗り込んだ。
中にいた女性は、橘が乗ってくると少し後ろに位置をずらす。
彼女は橘よりも小柄で、金髪のショートカットが目を引く。
服装は濃い色のゆったりとしたTシャツとロングパンツにスニーカー――
加えて、大きめのフレームのメガネとキャップを被っており、まさに街中でよく見かけるカジュアルスタイルだった。
エレベーターの扉が閉まり、下の階へとゆっくり動き出す。
今、箱の中には二人きりだった。
「……」
「……」
「……仕事、今終わったところ?これから帰るの?」
「うん、まあそんな感じ……」
「そっか、一日お疲れさん。」
「あなたもお疲れさま。」
しばらくの沈黙のあと、橘が口火を切った。
だが二人とも、互いを見つめることなく、正面や別の方向を向いたまま話していた。
「……」
「……」
再び沈黙が訪れ、エレベーター内には控えめなBGMだけが流れていた。普段は人との会話に長けた橘でさえ、今は言葉が見つからず、心の中では「なんでこんなに時間かかってるんだよ……まだ二十何階だぞ……」と苛立ち始めていた。
ふと、背後から視線を感じた橘は、そっと振り返って彼女の様子を伺う。しかし彼女も橘の視線に気づくと、すぐに目を逸らしてうつむいてしまう。キャップのツバが邪魔をして、橘には彼女の表情がよく見えなかった。
「……車、呼んだほうがいい?」
「ううん、大丈夫。さっき呼んどいたから。ありがとう。」
「そっか、それならよかった。」
「……」
「……」
再び沈黙が落ちる。
橘はふと思いついたように、上着の内ポケットに手を伸ばし、小さなミントタブレットの箱を取り出した。
「……食べる?」
「うん、もらう。」
女性がうなずくと、橘は箱を開けて、いくつかを彼女の手のひらに落とす。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
橘も自分用に数粒を取り出し、口に放り込んだ。
ひんやりしたミントの感触が、沈んだ空気を少しだけ和らげた。
話さなくても気まずくならない、そんな時間が流れる。
少し経ってから、女性がぽつりと口を開いた。
「……これ、新しい味?」
「うん。今朝コンビニで買ってみた。どう?」
「……ココア味、かな……?」
女性は考えるようにしながら答える。
「……チョコミントっぽくなるかなーって思ってたんだけど……ハズレだったな。」
「「まずっ。」」
二人の声がぴったり重なった。
そして、つい笑みがこぼれた。
「……なんか、子ども用の歯みがき粉舐めてるみたい。」
「いやいや、本当にうまいチョコミントを食べたことないだけだよ。」
「まずいって分かってて、人に勧めるとかどういう神経?」
「いや、さっさと食べきって次の味に乗り換えたかったんだよ。感謝してる。」
「……アンタ、一回も殴られたことないでしょ?」
「頼むから勘弁してくれ。俺絶対勝てないから。」
そんな軽口を交わしながら、気づけば二人の間にほんの少しだけ笑みが戻っていた。
やがてエレベーターが一階のロビーに到着した。
「……あ、来てる。私の車、あれだ。」
彼女はロビーの外、道路に停まっている車を見つけた。
「じゃあ、そこまで送ろうか?」
「……いいけど、本当に?大丈夫?」
「まあ、これも一応仕事のうちだからな。」
「もう退勤してるくせに……アンタ、そんなキャラだったっけ?」
「うるさいな。じゃ、やめとくか?」
女性はうつむき加減に、苦笑しながらも橘と一緒に車へ向かった。
車のドアが自動で開くと、橘は手を伸ばし、ドアと屋根の間にそっと添えた。
「ありがとう。」
女性は軽く体をかがめて車に乗り込み、ドアが再び静かに閉まった。
だが、車はすぐには発進せず、彼女は窓を少し下げた。
橘は車体に軽く身を預けながら、片手を屋根に置いた。
女性がふいに口を開いた。
「……で、これから何か予定あるの?」
「んー……メシ食って、家帰って、ダラダラして、風呂入って寝る。いつも通りって感じ。
もう若くないし、最近じゃ夜更かしするのもしんどくてさ、はぁ。」
「そんなこと言わないでよ。それじゃ、私まで歳とったみたいじゃん。」
二人はふっと笑い合った。
だが笑いが静まると、短い沈黙が訪れた。
言葉もなく、ただお互いを見つめる時間が流れた。
「あの、わたし……」
「ブー……ブー……」
女性が何かを言いかけたその瞬間、橘のスマホが突然鳴り出し、二人とも思わずビクッとしてしまった。
「ご、ごめん……」
「だ、大丈夫。出ていいよ。」
「悪いね……ああ、俺だよ。うん、そう。OK、じゃあ俺は……」
橘はスマホを耳に当てたまま、少し車から距離をとって話し始めた。その間にも、彼は何度か女性の方をちらりと見て、何かを気にしているようだった。しばらくして通話を終えると、再び車のそばに戻ってきた。
「いや、悪かったね。大したことじゃないよ。友達から夕飯一緒にどうかって誘われただけ。……さっき、何か言いかけてた?」
「ううん、なんでもないよ。早く行ってあげなよ。私ももう帰るし。」
「そっか。じゃあ、また今度な。バイバイ。」
「うん、バイバイ。」
二人は軽く手を振って別れ、車はそのまま走り出した。橘は数秒ほどその後ろ姿を見送ったあと、静かにDSAを後にした。
====================================
一方その頃、夜。
西山は少し疲れた様子で自宅に戻ってきた。
シャツや髪は乱れ、どこか焦りが残っている。
彼はまず眼鏡を外し、ポケットから職員証を取り出して静かにしまい込んだ。
軽く顔を洗ったあと、ソファに倒れ込むように座り、何となくスマホをいじりながら頭を休める。
しばらくして、ふと一つのニュース記事が目に入った。
「……“129事件”から、まもなく十五年。犠牲者を悼む慰霊碑には、今年も多くの人々が――」
西山は無表情のまま画面を見つめていたが、
やがて眉が寄り、口元がわずかに歪む。
手に力が入り、スマホを握る指先が白くなる。
――パキッ。
乾いた音とともに、画面にひびが走った。
西山はしばらくそのまま手を止めたあと、
静かにスマホを脇に置き、目を閉じて横になった。
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橘は自宅に戻るとシャワーを浴び、下着一枚のままソファにどさっと身を沈めた。鍛えられた体には、大小さまざまな傷跡がいくつも残っている。
「今日はちょっと飲みすぎたかもな……」
目を閉じたまま、背もたれに頭を預けて休む橘。ひとり暮らしの賃貸マンションは、今は妙に静かだった。
しばらくして、ふと何かを思い出したように目を開けた橘は、ゆっくりと上体を起こし、財布の中から一枚の写真を取り出した。
そこに写っているのは、制服を着た女の子。年の頃は高校生くらいだろうか。純粋さの中に少しだけ茶目っ気のある笑顔と、まっすぐな黒髪――誰もが一度は恋をしたことのある、あの頃の「初恋のイメージ」そのものだった。
橘は何も言わずに、その写真を長い間じっと見つめたあと、ぽつりと語りかけるように口を開いた。
「よう、俺だよ。別に元気さ。ただ……ちょっと飲みすぎたせいか、ふと君のこと思い出してさ。」
「最近は……まぁ、なんとかやってるよ。ちょっと疲れてはいるけど、そろそろ寝ないとな。明日も仕事だし、はぁ……」
「しかも中村のやつ、結婚して新婚旅行行ってからずっと休みっぱなしで、
その尻拭いまで俺がやらされてんの。……クソが。」
「今日な、高瀬のやつが新人の面倒見ろとか言ってきてさ。俺、そんなに暇そうに見えたのかね。……まぁ、実際よくサボってんだけどさ。」
「新人の名前は西山っていってさ。」
「あんまり喋るタイプじゃないけど……DSAに入ってきたってことは、何かしら凄い才能があるんだろうな。」
「結依や陽介みたいに、どこか光るものを持ってるのかもしれない。」
「そうだ、さっき結依と陽介と三人で居酒屋行ってきたんだ。」
「そこの唐揚げがめちゃくちゃ美味しくてさ。どうやって作ってるんだろうな、あれ。」
「それからさ、陽介が最近彼女できたんだって。」
「だからもう、俺たちと一緒にキャバクラ行けないかもな〜とか言っててさ。……あ、話がそれたな。まあ、分かるでしょ?大人になると、なんか変なところで楽しみ見つけようとするんだよ。」
「いつかさ、君とも一緒にお酒が飲めたらいいなって……」
「それで……うん、ごめん、俺……」
「あ、そうそう。最近ネットで見た猫のミームがさ、めっちゃ笑えてさ。君もきっと気に入ると思うよ。」
「俺、猫とか飼ったことないけど……君はどう思う?俺も何か飼ってみたほうがいいかな。」
「正直、世話とか面倒くさそうだし、ずっとそういうの避けてきたけどさ。でも……やっぱ、誰かがいるって悪くない気がするんだよな。」
「あ、そういえばさ……前に一緒にやってたあの監督、なんか新作映画もうすぐ公開らしいよ。」
「時間があったら観に行ってみようかなーって思ってるけど……予告だけでもうダメな匂いしかしないんだよな、正直。」
「やっぱ、君みたいなすごいヒロインがいないからかな、あの監督……ははっ。」
「……ごめん、俺……」
「……ま、そんなわけで。俺は最近、そこそこうまくやれてるよ。ありがとう。」
「……君みたいに優秀な人間には、きっと一生なれないけどさ。
それでも……俺なりに、もうちょっとだけ頑張ってみようとは思ってる。本当に。」
「……じゃあ……今日はこのへんで。うん、会いたいよ。おやすみ。」
橘は途切れ途切れに言葉を重ねたあと、そっと写真を財布に戻した。
それから薬を一錠飲み、静かにベッドに潜り込んだ。
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