ヒーロー異聞録 : 橘煉司

Noah Nova

第1話-ようこそ、DSAへ。 本当に、仕事を始める覚悟はできていますか?

「ピンポーン」

軽い電子音と共に、エレベーターのドアが静かに開いた。中にいたのは、眼鏡をかけ、少し変わった形のマスクをつけた男だった。彼は周囲をちらっと見渡したが、他には誰もいないようだった。スーツ姿の男は、胸元に「中村直樹」と書かれた社員証を下げている。

男は特に気にする様子もなく、一歩踏み出して廊下を歩き始めた。天井の蛍光灯が彼の影を長く伸ばし、革靴の「コツ、コツ」という音が静かなビル内に響き渡る。

時刻は夜の九時過ぎ。ほとんどの社員はすでに退勤しており、この時間に会社に残っている者はごくわずかだろう。だが、男にはまだやるべきことがあるようだった。

案内板を頼りに進んでいき、目的のオフィスの前で立ち止まる。社員証をかざしてロックを解除し、ドアを開けて中へと入っていった。

「えっ……すみません、どちら様ですか?」

部屋の中には、ちょうど一人の社員がまだ残っていた。彼はパソコンに向かって作業をしていたが、男の入室に気づいて顔を上げ、不審そうな目で見つめた。男のほうも、この部屋にまだ人がいるとは思っていなかったのか、わずかに驚いた様子を見せた。

「ええっと……23階から来ました、中村と申します。急にこちらに来るよう言われまして……詳しいことは私もよく分かっていないんですが。とにかく、こちらが私の名刺です」

男はそう言って名刺を差し出そうとしながら、もう片方の手をさりげなく背中に回し、その手はグニャッと黒と緑の大きなハンマーのような形に変形していった。

「そうですか……では、他の部署に少し確認を──」

社員は名刺を受け取り、机の固定電話に手を伸ばしかけた。だが、その名刺を見て、ふと違和感を覚えたように首をかしげた。

「え?中村さん、この名刺、なんだか──」

「バンッ!」

言い終える間もなく、男の一撃が飛んだ。変形した自らの腕――鎚状の異形の手で、不意を突いて社員の側頭部を殴り倒す。

社員は意識を失い、そのまま床に崩れ落ちた。

男の腕はグニャッと元の形に戻り、彼は倒れた社員を椅子に座らせ、机に突っ伏して眠っているように見せかける。

周囲を軽く見渡したのち、まるで自分の席かのように、迷うことなく定位置に腰を下ろし、マスクの耳元にそっと指を添えた。

「入った」

男は無人の空間に向かって、冷静に一言だけ告げた。

イヤホンの奥から、もう一人の声が聞こえてくる。

『悪い、俺のミスだ。まさかあの社畜、退勤済みなのにまだ残ってるとは思わなかった。殺したか?』

「いや、加減はした。少しの間、気絶してるだけだ」

『了解。じゃあ手早く済ませよう。頼んだぞ』

「……本当にここで合ってるのか?いくらなんでも普通すぎる。警備らしい警備もいなかったし」

『それがDSAの盲点ってやつさ。“何かを隠してます”っていう雰囲気を出すと、むしろ世間から余計な詮索を招く。でも実際、あいつらは本当に隠してるんだよな……まあいい。やってみりゃ分かる』

男はポケットからUSBメモリを取り出し、手早くパソコンに差し込んだ。

数秒後、画面には警告ウィンドウが次々と表示されるが、それらはすぐに自動で解除され、まるで映画のハッキングシーンのように、画面には大量のデータが流れ始めた。

「……そっち、届いてるか?」

『ああ、見えてる。ただ、量が多すぎる。解析と整理には少し時間がかかるな』

イヤホンの向こう、地下の暗く閉ざされた一室。

何枚ものモニターが壁に並び、そのすべてがオフィスのPCから送られてくる情報をリアルタイムで映し出していた。

男は画面の一つ一つに目を凝らし、キーボードを叩き続けながら、ひとつでも見逃すまいと集中していた。

机の上にはノート、地図、新聞の切り抜き、ビラなどの紙資料が散乱し、それぞれに細かな書き込みがびっしりと記されている。

部屋の壁には大小さまざまな武器が所狭しと並んでいた。ナイフ、ハンマーといった近接武器から、ハンドガン、ライフル、弾薬の類まで。そしてさらに――爆薬、注射器、ヘルメット、正体不明の装備まで。

「どうだ?何か使えそうな情報は手に入ったか?」

オフィスにいる男が問いかける。

『まあな。ただ、どれも断片的だ。

DSAもさすがに馬鹿じゃない、全部まとめて一カ所に隠したりはしないだろ。もう何度か試す必要があるな』

「俺が欲しい情報、手に入る見込みはあるんだろうな?」

『安心しろ。それは時間の問題だ。

今日はこれで切り上げよう。監視映像は俺のほうで改ざんしておく。

お前は早くそこから離れろ』

「了解」

オフィスの男はUSBを抜き取ると、無駄な動き一つ見せずその場を後にした。

『……ああ、そうだ。社員証はちゃんと持ってろよ。失くすなよ――なぁ、“中村”さん?』

地下室にいる男は、これはオフィスの相手に向けた言葉ではなかった。

彼の視線の先には、全身を縛られ、頭に袋を被せられた人物が静かに横たわっている。

その男はぴくりとも動かず、何一つ言葉を発しなかった。

=======================================

あるビルのオフィス内――一人の男が、大きなモニターの前で、仕事中とは思えないほど集中して画面を見つめていた。

イヤホンで実況を聞きながら、指先は落ち着きなく机を叩いている。

画面には──

「第11レース・皐月賞」

男の心拍数だけは完全に勝負モードだった。

「……それでは皐月賞、最後の直線に入ります!先頭は依然グランブルボン!しかし外から大きく上がってきたのは三番人気、ダークアローだ!その後ろからは一番人気のレイヴンキング、まだ脚が残っているぞ!」

「よしよしよし……そのまま、そのまま行け……!」

男は画面に釘付けになりながら、無意識に前のめりになっていた。

「残り200メートル!グランブルボン粘る!しかし外からダークアロー!さらに大外一気のレイヴンキングが迫る!三頭横一線!これは分からない!伸びる伸びる伸びる!!」

「いけぇぇぇぇぇ!!!」

男は思わず机を叩いた。

「──しかしここで!内からなんと九番人気のシルバーコメットだ!!差し切るか!?どうだ!?ゴールイン!!」

「はぁ!?九番人気ぃ!?なんでそこで来るんだよ!!俺の三連単がぁぁぁ!!」

その瞬間──

「橘っ!」

背後から鋭い声が飛び、橘は肩をビクつかせた。

反射的にワンタッチで画面を閉じ、いつものスプレッドシートに切り替える。

「よう、高瀬さん。いますよー。何か用ですか?」

橘は動じることなく、慣れた手つきでワンタッチ。試合の画面は一瞬で消え、あたかも最初から仕事をしていたかのようなスプレッドシート画面へと切り替わった。

スーツ姿の中年男性が一人、橘の方へと歩いてくる。年は五十を超えていそうで、髪には白いものが混じり、顔には深めの皺が見える。

だがその表情には威厳があり、厳格さと歴戦の空気を纏っている。

その隣には、もう一人の若い男も一緒に歩いてきていた。橘もそれを見てすぐに立ち上がり、二人に向き直った。

「橘、今日ちょっと時間あるか?」

そう口を開いたのは、その中年男性――おそらく彼が高瀬、橘の上司か先輩にあたる人物のようだった。

「んー……“時間ある”って、どのタイミングの話ですかね?俺も今日いくつか仕事抱えてるんで」

「紹介する。この人は西山。今日からDSAに配属された新人だ。お前も、ここに来てもう何年か経ったしな。この機会に、西山に職場をひと通り案内してやってくれ。仕事内容とか、うちの協力相手のこととか――お前が最初に来た時と同じようにな。いいか?」

「なるほど……そういうことなら」

橘は軽く西山の姿を一瞥した。年齢は自分よりいくつか下に見える。表情にはこれといって特徴はなく、感情も読み取りづらい。

堅物という感じではないが、一応ちゃんとしたスーツを着ており、髪型も前髪まできっちり整えていた。

「橘先輩、はじめまして。西山です。よろしくお願いします」

西山は軽くお辞儀をしながら挨拶をした。少なくとも、礼儀はちゃんとしている若者のようだった。

「橘でいいよ。よろしく」

二人は軽く握手を交わした。高瀬は二人の様子を一瞥し、特に問題なさそうだと判断すると、腕時計に視線を落とし、そのまま立ち去ろうとした。

「じゃあ、あとは頼んだ。」

そう言い残し、高瀬は振り返ることなく去っていった。

「あ、そうだった……ゴホン。とりあえず、まずは社内を案内するね。」

その後、橘は彼を社内のあちこちに案内しながら、職場環境の説明を始めた。

「OK。じゃあ、その机のパソコンと事務用の文房具とか、全部君のだよ。足りないものがあったら、隣の倉庫で自由に取っていいし、壊れたら電話で修理呼べばOK。このパソコンね、スペックめちゃくちゃ高いから、うっかりゲームとか始めるとマジで沼るから注意して。で、あっちに給湯室があって、コーヒーメーカーとお菓子棚もある。つまみながらサボれるし、ちょっと時間を潰すには最高。トイレはそっち。俺は毎朝まずそこで一発キメてから仕事始める派ね。エレベーターの横には、各フロアに何があるかの案内板がある。あと一階には社員食堂とコンビニもあるから、なんか食いたいときは便利だよ。味は……まあ、人によるってやつかな。よし、よく使うところは大体案内したし……」

ちょうどその時、橘のポケットのスマホが震えた。橘は画面を一瞥し、ふっと息を吐くと、

西山の方を向き直った。

「よし、そろそろ時間だな。荷物取って、トイレ行って……」

橘は自分の席に戻り、黒いフライトジャケットを羽織った。その姿は、まるで映画に出てくる私服の刑事のようだった。

「――仕事、始めるぞ」

================================


大通りでは、年に一度の祭りイベントが開催されていた。即席で組まれたステージでは司会者がマイクを握り、ひたすら会場の雰囲気を盛り上げている。近くでは楽隊が太鼓やシンバルを鳴らし、時折さまざまなグループが歌や踊り、曲芸などのパフォーマンスを披露していた。

祭りに乗じて、多くの店舗が特別セールを展開し、路上には縁日風の屋台が立ち並び、季節感あふれる商品やギフトが所狭しと並べられていた。通りには人が溢れ返り、数本の道路を封鎖してようやくスペースを確保できるほどだったが、誰もがこのにぎやかな祭りの空気を心から楽しんでいるようだった。

しかし、誰もがこの楽しい空気に浸っていたその時――突如として、爆音が響き渡った。あまりの大きさに、その場にいた人々は思わず飛び上がるほど驚いた。最初は、音響トラブルか何か演出の一部かと思われたが……。

だが、その爆発音は止むことなく、むしろ徐々に近づいてくるようだった。最初は遠くから聞こえていた音が、やがて耳元で響くほどの迫力に変わる。人々が「何が起きているんだ?」と戸惑い始めたその瞬間――足元の地面が揺れ始め、振動は次第に強まっていった。

誰かが遠くで、こちらに向かって猛スピードで接近するいくつかの黒い影を目撃した。黒影が通過した場所では、あちこちで轟音と共に大きな衝突が発生し、街路樹や電柱などが次々となぎ倒されていく。

破壊された消火栓や側溝からは勢いよく水柱が噴き上がり、その水が切れた電線に触れて火花が走る。火花は徐々に広がり、周囲にいた通行人の衣服にも燃え移っていった。

さらに、瓦礫やレンガ、木片、石ころ、ガラス、金属片といった街のあらゆる破片があちこちに飛び散り、逃げ遅れた人々はその破片に当たって倒れたり、怪我を負ったりしていた。

黒影がどんどん近づくにつれて、その正体も明らかになっていく。巨大な四つの球体――いや、それは甲羅だった。しかも、その甲羅には無数のトゲが突き出ており、まるで地獄から這い出てきた怪物のようだ。

四つの巨大な甲羅は、高速で道路の上を転がりながら、目の前にあるあらゆるものを容赦なく跳ね飛ばしていく。その様子は、まるで街全体が彼らのためのバンパーカー会場と化したかのようだった。

「カメ兄弟だ!逃げろ!!!!!」

正体を見た瞬間、群衆は一斉にパニックに陥り、絶叫と共に四方八方に散っていった。

警察もすぐに現場に駆けつけ、パトカーを並べて即席のバリケードを作ろうとしたが――

銃で応戦しても、弾丸は彼らの異常に硬い甲羅にはまったく通用せず、効果はゼロ。カメ兄弟が突進してくるのを目前に、警察は諦めて慌ててその場を離れるしかなかった。

カメ兄弟はそのままパトカーの列を次々と粉砕していく。数台の車両は無惨にも破壊され、金属の残骸とガラスの破片が四方に飛び散った。

彼らは止まることなく、街路を高速で転がり続ける。その分厚く鋭利な甲羅は、周囲のあらゆるものを破壊していき、たとえビルにぶつかっても、弾かれたように方向転換して再び進み続けた。

そして、ついに祭りが開催されていた通りに突入――舞台、商店、屋台……すべてが次々と破壊されていった。

中には、食べ物を扱う屋台に備えられていたガスボンベや油などの危険物もあり、それらが巻き込まれて巨大な爆発を引き起こす。火柱は数階建てのビルの高さにまで達し、あたりは瞬く間に地獄のような修羅場と化していった。

群衆はパニックに陥り、我先にと互いを押し合いながら逃げ惑い、倒れた人々がさらに他の人の足を引っかけて――混乱は連鎖的に広がっていった。

その時――人波に押されて、ひとりの子どもが転んでしまった。転んだ拍子に家族とはぐれてしまったようだ。

「ママ……ママぁ……」

彼は不安そうにその場で母親の姿を探したが、小柄な体と混乱する群衆に阻まれ、いくら見回しても母の姿は見えない。

そんな中、カメ兄弟の一体が猛スピードで彼に向かって転がってくる。そのままでは、轢かれてしまう――

恐怖に支配された彼は、足がすくんで動けない。周囲の大人たちは誰も助けることなく、自分の身を守るためだけに必死に逃げていた。

――その時だった。

鮮やかな紅のレーザー光が、カメ兄弟の甲羅に命中し、衝撃でその巨体を後方へと吹き飛ばした。

他の三体も異変に気づき、すぐさま一カ所に集結する。ダメージを受けたことで、甲羅の中から頭と手足を伸ばし、周囲の状況を確認し始めた。

その姿は、まるで映画に出てくる“放射能の影響で変異した巨大ミュータントガメ”のようだった。

筋骨隆々の四肢、乾燥し皺だらけの緑色の肌、口には鋭い牙が並び、背中には分厚く重たいトゲ付きの甲羅を背負っている。

立ち上がれば身長はゆうに2メートルを超え、体重も数百キロはあるだろう。それが四体同時に暴れているのだから、危険度は言うまでもない。

彼らは辺りを見回すが、すぐには脅威となる存在は見当たらない――だが、ふと空を見上げたその瞬間、その目に「見覚えのある人影」が映った。

空中に浮かぶ一人の女性。ゆっくりと地上に降り立ち、しっかりと地面を踏みしめる。

その姿は決して大柄ではない。

黒のブーツとパンツスタイル、白を基調に黒とピンクのラインが肩口から胸元にかけて走る特殊スーツを身にまとっている。

仮面もフードも着けず、露わになった蒼紫の瞳と、整った金色のショートヘアがはっきりと見える。

彼女は倒れていた子どもの前に静かに立ち、カメ兄弟四体をひとりで相手にしてなお、一切怯える様子はなかった。

その存在感に、カメ兄弟は思わず動きを止める。

その表情には、わずかにだが――緊張と警戒、そして恐れが滲んでいた。

周囲の市民たちも、その姿を目にした瞬間、恐怖でこわばっていた顔をほころばせ、歓声があがる。

「よかった……スーパーヒーローが来た!」

「最強のお嬢だ!!」

「頼んだぞ、お嬢!あいつらをブッ飛ばしてくれ!!」

「はいはい、みんな!見物してないで早く避難して!――坊や、大丈夫か?」

そのとき、もう一人の男が現れた。

彼は高身長かつがっしりした体格で、頭にはヘルメット、上半身には機能性のあるベストと制服、下半身にはカーゴパンツと軍用ブーツ――全身を青と黒を基調とした、まるで警察のような防護スーツで固めていた。

腰には大型の警棒のようなバトン、背中には巨大な防爆シールドを背負っている。

男は迷わずお嬢の背後にいる子どものもとへ駆け寄り、彼女と手短に状況を確認した。

「子どもを頼む。それと、周囲の避難誘導もお願い。」

「了解。こっちは任せたぜ、お嬢。」

男は小さな体を片手で抱き上げ、そのまま人混みの中へと素早く走り去った。

「さあ、坊や。ママを探しに行こうか。」

男は優しく声をかけながら子どもをあやす。子どもも彼の顔を見てすぐに気づいたようだった。

「わあっ!テレビで見た――あの、一度に十人倒せるポリス様だよね!?」

「はは、それたぶん俺のことだな。」

ポリス様はそう笑いながら、途中で他の負傷者たちにも手を貸して避難を誘導していった。

やがて、群衆がほぼ避難し終えたのを確認すると、お嬢はゆっくりとカメ兄弟の方へと向き直る。

「カメ兄弟。これが最後の警告よ。大人しく投降しなさい。」

「クソッ……お嬢が来やがったか。」

「どうする? いったん引くか……?」

「いや、もう何日もろくに飯食ってねぇんだ。戻ったらまた空腹生活だぞ!」

「賛成だ。もう二度と、あんな汚ぇ下水道でネズミの死体かじる生活はゴメンだ……ここで一発、やってやろうぜ!」

カメ兄弟たちは戦闘続行を選択した。再び頭と手足を甲羅の中に引っ込め、回転しながらお嬢に向かって猛スピードで突っ込んでくる。

お嬢はというと、ただゆっくりと歩み出し、首と指を軽く鳴らす――まるで、これから一発ぶん殴る前のウォームアップのように。

そして、足を止めると同時に軽く踏み込んで――小柄な拳に力を込め、一発、真っ向から拳を叩き込んだ。

その拳と、カメ兄弟の甲羅が正面から激突。数秒間、火花を散らすように拮抗したが――

お嬢はさらに力を込める。

グッ、と音が聞こえそうなほどの力で押し返し、巨大な甲羅はそのまま弾かれるように吹き飛ばされていった。

残る三体のカメ兄弟は、一斉に突撃を開始した。

左右と正面から同時にお嬢を囲むように迫る。

お嬢は無言のまま歩を進め、左右の二体をそれぞれ片手で受け止めた。

真正面から迫る一体には、ためらいなく回し蹴りを叩き込む。

殻ごと弾き飛ばされた巨体は、地面を転がりながら数メートル先まで吹き飛ばされた。

すぐさま、お嬢は両腕で左右の二体を掴み――そのまま甲羅ごと互いにぶつけ合わせた。

鈍い衝突音が響き、二体はふらつき始める。

その隙を逃さず、片方のカメ兄弟を持ち上げて投げ飛ばし、その後を追って飛び立った。

宙に浮かんだ甲羅に連続の拳撃を叩き込み、最後に拳を振り下ろして地面へと叩き落とす。

ズドンッ――

地面に衝撃が走り、甲羅には深いヒビが入り、巨体はその場に崩れ落ちて動かなくなった。

お嬢は地上に降り立ち、倒れた一体を一瞥すると、短く呟く。

「一匹目、終了。」

そして何も言わず、残る敵に向けて静かに歩み出す。

お嬢はそのまま空中を滑るように移動し、次のカメ兄弟へと急接近。

向こうも甲羅を高速回転させながら突進してきたが、お嬢は正面からぶつかる形で迎撃した。

衝突の反動で、相手の巨体は地面を転がりながら道路脇へと弾き飛ばされた。

直後、別の一体が追うように突進してくる。

お嬢は両手を広げ、タイミングよく叩きつけるようにその回転を止め――

そのまま持ち上げて振り回し、先ほど吹き飛ばされた個体めがけて叩きつけた。

ドカンッ、と鈍い音が響き、二体の甲羅が激突。

さらにお嬢は上空へと舞い上がり、空中から急降下して両拳で地面ごと叩き潰す。

着地の衝撃と共に、二体の甲羅には深い亀裂が走り、やがて動かなくなった。

残るは、あと一体。

その最後のカメ兄弟は、仲間たちの無残な姿を見て逃走を図る。

甲羅に縮こまり、高速で転がりながらその場を離れようとした。

だが――お嬢は追いかけなかった。

ただ静かに視線を定めた次の瞬間、その瞳から鋭いレーザーが放たれた。

レーザーが照射され続け、甲羅には焦げ跡が広がり、やがて深い亀裂が走る。

ついには砕け散り、カメ兄弟はその場に崩れ落ちた。

攻撃手段を完全に失った彼は、四肢をじたばたと動かしながら――

まるで普通のカメのように、地面を這って逃げようとする。

お嬢は一言も発さず、静かに歩み寄る。

そして――最後に、片足でその頭部を静かに踏みつけた。

完全沈黙。

これで、四体すべて――制圧完了だった。

============================


間もなく、カメ兄弟たちは全員拘束され、スーパーヴィラン専用の輸送車にそれぞれ乗せられて拘置所へと送られていった。

お嬢は静かに空へと飛び立ち、現場にはポリス様が残り、民間人の安全確認と周辺の状況整理に取りかかっていた。

それから少し後――

一台の車が現場近くに到着し、中から橘と西山が降り立つ。

「うわ……なんだこれ、動物の大群でも通ったんか?」

周囲の惨状を見渡しながら、橘は思わずぼやいた。

事故現場はすでに封鎖線が張られており、二人はそれを越えて現場に近づく。

橘がDSAの職員証を警官に見せると、ふたりは作業に取りかかった。

「とにかくだな、今の俺たちは清掃員みたいなもんだ。あいつらが暴れた痕跡を一つ一つ、きれいに片付けていくんだよ。たとえば、この辺の場所は後で業者や清掃スタッフを呼んで整備してもらうことになるだろうな。危険が残ってそうなエリアは特に注意が必要だし、一時的に封鎖するだけじゃなくて、異常や不自然な痕跡が残ってないかどうかもちゃんと確認しないと。たとえばこの甲羅の破片、ぱっと見は無害そうだけど、一応DSAに持ち帰って検査しておいたほうがいいだろう。……はぁ、今日も定時退社は無理そうだな。」

二人は引き続き、激しく破壊された現場のあちこちで写真を撮り、記録をつけながら、警察や目撃者に声をかけて情報を集めていった。

「アイツ、相変わらず加減ってもんを知らねえな……」

橘は道路の中央に空いた巨大なクレーターを見て、思わずため息をついた。その様子は、どこか苦笑い混じりの諦めに近かったように、西山の目には映った。

そして二人は再び黙々と作業を続け、瓦礫の山と化したこの一帯を、地道に片付けていった。

「ったくよ……ようやく一区切りってとこか。」

橘が軽く体を伸ばすと、西山がちょうど二つのコーヒーを持ってきて、そのうちの一つを橘に手渡した。

「お、サンキュな。」

二人は仮設テントの下で、束の間の休憩をとっていた。

「橘さん、こちらは一通り終わったみたいですが、この後は……?」

「安心しろ。まだまだ終わらねぇよ。」

まるで「さっさと終わらせて帰りたい」と言わんばかりの無表情。

「──あ、いたいた。」

「は?今度は誰だよ?メディア対応は今やってねぇぞ……」

橘が無意識にテントの外を睨んだが、入ってきたのは予想外の人物だった。

橘よりも大柄でがっしりとした体格の男が、テントの中に入ってきた。

全身に青と黒の制服を着ており、背中の防爆シールドが彼の正体を物語っていた。

「なーんだ、お前かよ。てっきりまた残業かと思ったわ。」

「よっ、とりあえず今日の件、報告だけはしておこうと思ってさ。」

相手がポリス様だと気づくと、橘はホッとしたように表情を緩めた。

ポリス様は手にしていた書類を橘に差し出した。

「どれどれ……ったく、よりによって今日が祭りの日とはな。そりゃ被害も増えるわけだ。ま、カメ兄弟を片付けられたのは不幸中の幸いってとこか。……にしても、結局全部お嬢がやったんだろ?で、お前は何してたんだよ?」

「ちょ、ちょっと!それが“役割分担”ってやつでしょ?お嬢の戦闘力なら、カメ兄弟なんて余裕だし、その間に俺は避難誘導とか、サポートが必要な人を手伝ってただけだよ!」

「へぇ〜?マジで?どうせまた俺の“働いてるフリ”を真似しただけなんじゃねーの?」

「てか、それ自分で言っちゃってるじゃん。」

橘とポリス様は、事件の話を交えつつ、まるで世間話でもしているかのように軽口を叩き合っていた。

その様子を、西山は無表情のまま、黙って見つめていた。

「そちらの方は……?」

「……こんにちは、西山と申します。本日からDSAに配属された新人です。今日は橘さんに案内してもらっています。」

「どうも、俺は──」

「嶋田悠馬さん、ですよね。以前、ニュースで新しいポリス様に任命されたって見ました。」

「えっ……ああ、はは……ニュースでは出てたけど、まさか本名まで覚えてる人がいるとは思わなかったな……」

ポリス様も橘も、西山が本名を知っていたことに少なからず驚いていた。

「……忘れるわけないじゃないですか。あなたは立派なスーパーヒーローですから。」

西山は、口元にかすかな笑みを浮かべながらそう言い、橘は黙って二人のやり取りを見ていた。

「はは……応援、ありがとうございます。──また今度ゆっくり話しましょう。それじゃあ、二人とも仕事の邪魔しないように、俺はこのへんで。」

ポリス様は少し気恥ずかしそうにそう言うと、橘と西山に軽く会釈して、その場を後にした。

「よし、じゃあ俺たちも昼飯にしようぜ。午後の作業はそのあとで。──ラッキーだったな、今日は俺のおごりだぞ……って、おい、西山?」

橘は書類や記録端末を手早く片付けて出発の準備を整えたが、西山はまだその場を動かず、無表情のまま、テントの外をじっと見つめていた。

「……あっ、すみません。今行きます。」

橘の声に我に返った西山は、軽く首を振ってから橘のほうへ歩み寄った。

「どうかしたか?何か不調とか、言いにくいことがあるなら遠慮なく言えよ?」

「ご心配なく。ただ、少しぼーっとしていただけです。問題ありません。行きましょう。」

西山が歩き出すのを見届けてから、橘もふと彼の視線の先を見た。

そこには特に目立つものはなかったが──ちょうどポリス様が記者たちに囲まれてインタビューを受けている姿だけがあった。

橘は特に気に留めることもなく、そのまま西山と一緒に車へと戻っていった。

「そういやさ、西山はなんでDSAに入ろうと思ったんだ?」

昼食をとりながら、橘はふとそう問いかけた。

「んー……特にこれって理由はないかもしれません。むしろ、まさか受かるとは思ってなかったので……すみません、うまく言えなくて。」

「いやいや、別に深い意味はないよ。ただの興味本位ってやつ。仕事なんて、理由がある時もあれば、ない時もあるもんだろ。」

「では、橘さんは?どうしてDSAに?」

「俺か……そうだな、“やりたくて”ってよりは、“信頼してくれた人の期待を裏切りたくなかった”って感じかな。紹介でここに入った口なんだ。」

「そうなんですね……橘さんって、最初からDSAの人と繋がりあったんですか?」

「いやいや、ただの偶然だよ。当時は結構どん底でさ……だからこそ、せめてその気持ちには応えたいと思ってさ。──結局、この仕事は“信頼”だけが頼りだろ。……って、ごめん、ちょっと話がズレたな。」

「いえ、大丈夫です。──さっき少し考えてみて、もしかしたら僕も、DSAに関係しているある人が理由かもしれません。」

「へぇ、君も?」

「ええ。その人が僕を推薦したわけではないんですが……でも、その人がいなければ、僕はたぶんDSAを目指そうなんて思わなかった。」

「なるほどな。──だったら俺たち、案外似てるのかもしれないな。」

そう言って、橘と西山は昼食を終え、短く休憩をとった後、車へと戻っていった。

「橘さん、午後の予定は……?」

「一度本部に戻るけど、残念ながらまだ帰れない。俺も早く上がりたいんだけどさ、午後にもいくつか予定があってな。」

「外回りですか?それとも、クライアントとの打ち合わせとか……?」

「まぁ、どっちかっていうと後者だな。ってか、“取引先”ってより、“協力パートナー”って言った方が近いかもな。……誰のことか、もうピンときただろ?」

「……もしかして、DSAの常駐パートナーって……」

「そう、その“もしかして”だよ。」

橘はエンジンをかけ、ギアを入れると車を発進させた。

「もちろん──“スーパーヒーロー”たちのことさ。」


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