第五章「終わる芝居」

あの夜の顛末

 大学に行く気にもなれず、ベッドから出ることもできず、二日が経とうとしていた。

「あ、日が変わる」

 これで三日目か、とぼくはスマホを放った。

 さすがにこんなにだらけていると、夜目が冴えて眠れない。眠れないと、思い出してしまう。なんとか意識を飛ばそうと動画を観たり積みっぱなしの本を読もうとするのだが、集中できない。

「なにやってんだよ」

 独り言を部屋で言うときは要注意だ。メンタルがやばい。

 さっき放ったスマホが鳴った。

「誰だよ……」

 画面を見ると、「ひぐまりおん」とある。

「うわ」

 無視しようかな、と思った。多分、例のことである。しかし、ここで電話を出ないでいたら、もう店に行くことはできない。

 なんとか約束を果たせない言い訳を捻り出したかったが、思いつかない。

 ぼくは観念して、電話をとった。

「もしもし」

「なんでなんの連絡もしないのー!」

 怒号が聞こえてきて、スマホをまた放り投げそうになった。

「すみません」

 なんだか遠くでおっさんらしき声でアイドルソングを歌っているのが聴こえる。ひぐまりおんは夜の十時を過ぎるとカラオケ大会が始まるのだ。

「ちょっと! 明日何時にどこで待ち合わせっ?」

 ママががなりたてた。いや、カラオケで聞こえないのかもしれないけど、でかすぎだ。

「あのさ、じつは体調が悪くて」

 なんとかキャンセルの言い訳を話すと、

「なに? 下痢? そんなのお尻に栓すりゃ大丈夫よ! で、明日何時にどこっ?」

 この人にとっては下痢ごときでイベント不参加などもってのほか、軟弱者だというわけだ。

「いや、ほんとに辛くて」

「ああそう、だったらわたしいまからあんたのとこ行くわ」

「はあ?」

「お粥作ってあげる。あと、二十四時間営業のサウナ連れていってあげるわ。水分搾り出して寝たら治るから」

「なんつースパルタな」

 サウナでなにもかも解決すると思ってるのか、この人は。

「えっちなサウナじゃないから安心しなさい。住所教えて」

「いやこないでください、お店」

「いいわよ、酔っ払いしかいないから」

 と急に音楽が消え、ざわめきが聞こえた。

「はいはい、今日店じまい、あんたらお帰り」

 という声が聞こえた。

「ちょっと、なにやってんですか」

「店閉めただけだけど?」

 むちゃくちゃだ。

 遠くで店子が会計している声が聞こえてくる。

 もう仕方がない。洗いざらいあの夜のことを白状して、だから翔真の舞台の楽日には行けない、と訴えるしかない。

「実は、どうしても行きづらい事態になりまして」

「……聞かせてちょうだい」

 カチ、とライターの音が聞こえた。これは、じっくり聞くモードである。


 二日前、ぼくと翔真がキスをしたあとだ。

「本気なの?」

 ぼくの声は少し震えていた。

 それって、そういう意味だよね。二人で朝を迎えるって。ぼくは生唾を飲み込んだ。

 そんなあっけない感じで、そこらへんにいるゲイみたいに、簡単にそんな関係になっていいの? 男だよ。翔真はだって、ノンケじゃん。芝居をよくするためにって、そんなこと。

 ぼくはどこから訊ねたらいいのかわからず、口をひらいてもなにも言えなかった。

 翔真はぼくを見つめたまま、すこしだけ、首を傾げた。

 そうだ、この人は、本気なんだ。芝居をよくするためなら、男と寝ることもいとわない人なんだ。

 これまでの偽装カップルの芝居のときだってそうだった。さっき観た舞台だって。演じることに真剣な人なのだ。

 ぼくたちは、アパートまで歩いた。無言だった。

 どうしよう、どうしよう。

 ほんとうにいいのか?

 こういうときは、もっと盛り上がるように自分たちでなんとかしないといけなくない? そもそも、翔真、いくら芝居だからって、ぼくでどうにかなるものなの? 

 考えているうちに、怖い、と思えてきた。

 うまくいかなかったどうしよう。

 そもそもノンケだし、無茶な話だし。でも、前にノンケを食ったとか自慢してたおじさんが言ってた。動画見せてその気になったら、とかなんとか。でもそれって、なんか情けないくない?

 いや、翔真にぼくの裸見せるのとか、当たり前だけどぜんぜんいい身体でないし、ただでさえその気もないのに、萎えまくるよね。

 無理して頑張ったって、どうにもならないし、無理してそんなふうにされたら。

 みじめだ。

 あともうちょっとでアパートにつくところで、ぼくの足が止まった。

「どうした?」

 翔真が訊ねた。

「あのさ、今日、部屋汚いし」

 精一杯考えた言い訳がこれである。

「知ってる。前きたときに見たし。気にせんよ」

「いや、ほんとにあのときよりもっとひどいから」

「二人きりになれるなら、べつにいいじゃん」

 翔真は優しい顔をしていた。そんな顔しないでほしい。せつなすぎる。

「あの、あれ、ないし」

「あれ?」

「あの、ほら、被せないと、ね?」

「前きたときにふざけてお土産でやったろ。あるだろ。使ったのか?」

「使ってませんけど! でも、どこにやったかわかんないし」

「じゃあ、さっきのコンビニで買ってこようか」

 なんでアパートのそばにファミマがあるんだ、とぼくは呪った。コンビニが近いし便利だな、と思ってアパートを決めた自分の過去を恨んだ。

「あのね、実は、準備できてないし」

「準備?」

「翔真、ゲイのこと勉強したんでしょ。わかるよね、エチケット的に洗ったり、ね?」

「ああ……」

 翔真は察したらしく、黙った。

「だから、今日は、ね」

 ぼくがこのまま押し切ろうとすると、

「待ってるよ。なんなら手伝おうか、ネットで手順は前に見たし」

 なんでそんなにひらけてるの?

「絶対やだ!」

「夜道で騒ぐなよ」

 慌てているぼくを翔真が止めた。「静かにしろ。もう一回キスしてやろうか?」

「いらんて」

 いや、そんな魅力的な提案ですけどね、でもね、ちょっとやっぱり今日は。

「とにかく部屋で話そう」

「あの、忘れました」

 先を行こうとする翔真の袖を引っ張って止めた。

「忘れた?」

「はい。ここしばらくそういうことしていないので、作法っていうか、やりかた忘れた、だから」

 よっぽどぼくが必死だったからか、翔真は、

「わかった」

 と言った。

「ごめんね」

「いや、全然、今日はきてくれてありがとうな。ちゃんと寝ろよ」

 そう言って、去っていった。

 ぼくは、翔真と顔を合わせることも見ることもできなくて、全部観に行くと言っていたくせに、翔真の公演をブッチしたのだった。

 しかし逃げていても、起きている間は翔真のことばかり考えてしまう。キスしたときのことも、こんなに鮮やかに、と最新スマホのカメラ再現できた。

 自分がしたというのに、思い出すとき、僕たちがキスしている映像になっている。いっちゃって、一度死んで魂が抜けてしまい、霊体のぼくが見たのかもしれない。

 本当は、それ以上のことをしたい、でも、怖いのだ。血気盛んな二十一歳男子なのに。勢いでがっつけない。

 どうしたらいいのかわからないまま、時が過ぎていく。


「聞いた」

 ママが電話口で言った。

「はい」

 なにかいいアドバイス、ないですか。聞くつもりもないときだって説教ぶっこんでくるんだから、求めているときもずばっと……。いや怖いな。そういうのやっぱいいから、いたわりの言葉をかけてくださいよ。こんなこと話せるのママだけなんだもん、お願いします。

「で、明日何時にどこ?」

「聞いてました?」

「聞いた。でもなんも響かねえ」

「ラッパーかよ」

「そんなの関係ないし、有益な情報としてはまだやってないんだ、ってくらいだった。もしそれで体調悪くしたんだったら、やっぱサウナが」

「それはいいです」

「鬱ってさ、あと日光浴とバナナジュース飲むのがいいんだって、あとなんだっけ、ゲームがいいだよね。なんか学会の報告であったってネットで読んだわ」

「『スーパーマリオオデッセイ』と『ゼルダ』」

 ぼくもさっきネットで見た。

「全部やって治しなさい」

 結局押し切られ、待ち合わせが決まった。

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