第36話 嫌な夢を見た。
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当然だが、まだ妊娠していると決まったわけではない。
あくまで性行為しただけ。
そのはずが、世間では妊娠も結婚もしている前提。いや、巫覡の一族に手を出した時点で、当然と言えば当然なので、この場合は僕が軽率だったのだろう。
自分自身でもそう思うので、どう報道されても大して不満はなかった。
それよりも問題は――。
「――い、嫌です……!」
クラリスだった。僕に抱き着いて離れようとしない。正直、僕としては今からでも出発して神殿に向かいたいのだが、彼女がそれを許してくれないのだ。
「クラリス様……。ショウ君も何か理由があるのでしょうし、邪魔したら駄目ですよ」
エリカは呆れた表情でクラリスを見ている。
「他の女と一緒に行くなんて、絶対だめです……」
着物越しに豊満な胸を押し付け、クラリスは引き留める。
「結婚した途端に独占欲が……」
もう支度を済ませ、背嚢も身に付いているというのに、僕は門前から動けない。無理に引き剥がすのは流石に可哀想だし、どうしたものかと嘆息した。
「独占とかじゃなく……、私が蔑ろにされている気がして……」
一夫多妻制な上、恋愛結婚を禁じられた巫覡の一族故に、クラリスはそこまで独占欲は強くない。しかし結婚した事で、今は舞い上がっている。
離れ離れで生活するなんて、想像するだけで苦痛らしい。
死に掛けた経験、命を狙われた経験で、ショウがいないというのは不安なのだろう。彼がいない生活を想像するだけで、怖くて仕方がないらしい。
その気持ちはショウも察しているので、何となく説得しづらい。別に急いでいる訳でないので、延期してもいいのではと思い始めていた。
「クラリス、それじゃあ――」
ショウが言い掛け、口を閉じた。周囲に大きな影が落ち、次の瞬間にはふわりと白竜が着地する。
魔力による繊細な空気のコントロールだろう。音速なのにも関わらず、空気すら殆ど動かなかった。
その静かな登場に、クラリスとエリカは息を呑む。
「――初めまして。クラリス様。結婚早々申し訳ありませんが、暫くの間、兄さんをお借りしますね」
ショウに似た端正な顔立ち。だが非常に礼儀正しい口調と、キッチリした雰囲気は彼とは真逆。天衣シノンは見るからに真面目な優等生感を漂わせながら、白竜から降りる。
久しぶりに会うが、相変わらずの美少女。ジャスパーを象徴とする黒いロングコートを見に付け、長い白髪と相性が良い。
いつもは綺麗で可愛い印象だが、今は服装のおかげで格好良さまで兼ね備えていた。
「え? 一緒に行くという仲間ってシノンちゃん、ですか?」
抱き着く腕の力を緩めて顔を上げるクラリス。
「そうだけど?」
僕はあっけらかんと答える。しばらく考え込み、彼女は「久しぶりに会うのでしたら家族水入らず、ですね……」と肩を落とした。
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嫌な夢を見た。
悲惨で、知らない未来。
悲惨な死を迎える自分。
「…………」
気づいたら朝。シノンは目を覚ますと涙に気づく。
胸中には確かな、悲哀と悔しさがあった。現実ではないと理解しつつ、何か普通の夢とは違うという違和感も抱いていた。
だが、深く、深く安堵していた、これが夢で良かったと。
フィルターに粉末を入れ、お湯を注ぐ。入れた珈琲より多く牛乳を注ぎ足し、テーブルの席に着くと溜息を漏らす。
無音。静かな朝。退屈に感じるかも知れないが、それが心地よかった。
寂しさや退屈が不幸と考える人も多いが、彼女は違う。寧ろ、音が少ない環境の方が落ち着くので、普段から朝は静かなものだ。
「…………」
今日は無性に兄と話したい気分となって、携帯と睨めっこしていた。
不可解な夢。そこに出てきた兄は、シノンの知る人物とは異なる。正確に言えば、心当たりはある。
それは不仲だった頃の兄。不愛想で、弱くて、みっともない。そういう印象の強かった過去の兄だ。
「…………」
シノンは消えてしまいそうな夢の記憶を、少しずつ引き出す。
まるで映画のダイジェスト版みたいな、酷く断片的で脈絡のない夢。
ジャスパーではなくカーネリアンに入団した兄。一族の恥を始末しようとする自分。紆余曲折ありながらも見事、兄を殺す事に成功した。
しかし彼らが秘匿していた強制銃により、支配された特例指定モンスターが現れ、多くのテイマーが死に絶えた。
シノンとアイリは身を隠しながら、カーネリアンの拠点を潰していく。その過程で知る事になる、兄が自分を助けてくれていた事を。
カーネリアンに潜入し、陰ながら妹に与えていた、奇襲する場所や日時のヒントを。そのおかげでシノンは何度も敵を返り討ちにし、辛うじて命拾いしていた。
夢の結末。真実を知ったシノンは、兄を殺した事を後悔する。自暴自棄となり、戦う理由を見失い、アイリを庇って死んでいく。
「…………ッ」
ボロボロと涙が流れ、自分でも驚いて肩を揺らす。まるで実体験の様に流れ込む激情にシノンは戸惑い、携帯を持る手が震えていた。
兄に連絡し、夢の話を尋ねたい。だが、馬鹿みたいな話だ。たかが夢。兄からすれば取るに足らない話だろう。
一呼吸置き、シノンは目を閉じた。どうせ今日会うのだから、訊きたい事は直接訊けばいいだけ。焦る必要はないと、ゆっくりと目を開け、携帯を畳む。
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「――アイリさんも似た様な夢を見たそうです……。兄さんは何か、知っていますか?」
空。雲を貫く白竜に乗り、シノンはショウの背に頬を押し付け、抱き締めながら尋ねた。その瞳は不安と期待が入り混じっている。
ショウはシノンから聞いた夢の内容に少し驚き――。
「それは……、起こるはずだった未来かもね。その未来だと僕は失敗したんだと思う。テイマーとして上手く成長できず、非行に走ったのかも」
当初の予定通り、真実は殆ど答えなかった。
異世界転生だとか、ここはゲームの世界だとか、そういう事を現地人に打ち明ける主人公は、ラノベでよくいるがショウとしては萎える展開だ。
こういう事は言わないからこそ、優越感に浸れる。
そう思い、真剣に答えず適当な事を言って彼は誤魔化した。動揺は態度に出さない。竜の手綱を握り、視線を逸らさず前を見続けている。
「…………」
シノンは目を丸くし、何も言わなかった。
確かに兄は言った、起こるはずだった未来だと。
起こるかも知れなかった未来、ではなく――起こるはずだった未来。
まるで自分の力で辿るはずの未来を変えた様な物言い。
今日、自分が見た様な夢を既に兄も見ていたとしたら。起こる未来を知って研鑽を積んでいたとしたら。
そうシノンが考えるのは、思考の流れとして妥当なものであり、客観的に見てもある程度は説得力がある推察だろう。
一人だけ未来を知り、誰に相談もできず、カーネリアンを倒そうと努力していたのだとしたら――。
「…………」
シノンは自分が兄の助けになりたいと思った。力も才能も何もかも足りないのは重々理解しているが、それでも彼女は兄を一人で戦わせたくなかった。
何か力になりたいと願うほど、自然と抱き着く腕に力が込められる。後ろからギュッと抱き締め、シノンは小さな胸を兄の背に押し付けていた。
「…………?」
妹の心中察する事なく、ショウは「……今日は甘えたい気分なの?」と困った様に笑う。
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