第1話 始まり
「ねぇ…お願いだから・・・ここから出してくれないか、マリー?僕はもう…君の子供を助けただろう?」
扉に付いた格子窓から男が女に話しかける。
「そうはいかないのよ…ガボール…マウを助けてくれた事にはすごく感謝してるけど・・・」
マリーと呼ばれた女が気まずそうな顔をして…男に…そう答えた。
「話が違うじゃないか……僕は…君からの手紙を読んでっ・・・助けて欲しいって・・・だから来たのにっ。それなのに…王国の聖術師になれなんて……」
ガボールと呼ばれた男が…声に悲しみを滲ませて、マリーを責めた。
「ガボール・・・お願いよ…王子の言うことに大人しく従って?あんな魔族の村…捨てちゃえば良いじゃない?ねっ、この国の聖術師になって…幸せに暮らしましょうよ?」
マリーはガボールからは見えない手を…強く握り締めながら…まるで懇願するように話す。
ドンッッッ!!
「ふざけるなっ!!村にはソフィーが待ってくれているんだ。きっと心配もしているっ!早くっ、村へ帰らせてくれっ!!」
ガボールは扉を強く叩いて…怒声をあげ、マリーの言葉を否定した。
それでもマリーの主張は変わらない。
「ダメよ。貴方とは別れてしまったけれど…死んで欲しくは…ないもの・・・お願いだから…私の言うことを聞いて・・・」
そんな彼女の声には…少しばかりの悲しみが入り混じっていたのだが…
それは興奮したガボールに届くはずもなく。
「お前がっ、ここまでふざけた女だとは思わなかったっ!!少しでも…お前に同情した自分の馬鹿さ加減に゛っっ……うっゔぅ・・・」
マリーを罵倒しながらガボールは、どうにもならない自分の状況に…絶望が顔を覗かせ・・・言葉を続けることが出来なくなってしまった。
「ごめんなさい、ガボール・・・でも、貴方が…この国の聖術師になってくれたなら、貴方の生活は私の命に賭けて保障するわ・・・だから…もう一度、よく考えてみて。それじゃあ…行くわね。」
マリーはそう言い残して…石畳の廊下をカツカツと音を立てながら、ガボールの部屋の前から消えていった。
マリーが去って、軟禁部屋に1人だけとなったガボールは……自身の選択を酷く後悔していた。
何で…こんな女の願いを・・・自分は聞いてしまったのかと…
あの時…ソフィーに相談なんてしなければ…
ーーーーーーーーーーーーーー
ガボールはマリーの娘マウを助けに行くかどうか…本当は迷っていた。
それが例え…小さな頃から一緒だった幼馴染の願いだとしても・・・
自分を捨て…王子の妾になる事を選んだ女の願いなど…正直聞きたくはなかった。
しかしソフィーとの子…無邪気に笑うロアを見て、心が揺らいでしまった。
そしてロアが寝静まり、2人きりで会話をしていた時に、ついソフィーに話をしてしまったのだ。
娘が魔獣に呪いをかけられてしまった。何か助ける手段を知らないだろうかという内容の手紙が…昔彼女に贈った魔鳩に括りつけられ、幼馴染から送られてきたことを・・・
ガボールの話を聞いたソフィーは、ガボールを後ろから抱き締めて…優しく諭すように言った。
「ガボール?少しでも…迷う気持ちがあるのなら、助けに行ってあげて。貴方なら…きっと治してあげられるのでしょう?」
「でも…ソフィー・・・」
「ふふっ。心に小さな棘を残すくらいなら…ささっと行って、パパッと治して…すぐに帰って来ちゃえば良いのよ。」
彼は彼女の優しい笑顔に絆されてしまった。
優しさに満ち溢れた穏やかな生活は、ガボールの心を癒し…人族の欲望がどんなものだったのかを忘れさせていた。
「・・・そうだね、ソフィー。うん、すぐに治して…すぐに帰って来るよ。
後ろ暗い気持ちを抱いたまま…ロアを抱き締めたくないからね。」
そう言った後、ソフィーに微笑んだガボールに
「あら、ロアだけなの。私は違うのかしら?」
悪戯っぽく微笑んで、ソフィーが尋ねた。
「違うワケないだろー、もうっ。でも…もし僕に後ろ暗い気持ちがあったとしても・・・僕はソフィーを抱き締めたいよ。」
「ふふっ…私だって同じよ、ガボール。もし…貴方が闇に堕ちてしまったとしても、私は貴方と共に在りたいって思うわ。」
「うん、僕も同じ気持ちだよ。愛してる、ソフィー。」
「私もよ…ガボール。」
ソフィーの返事を聞いて、ガボールはそっと優しくソフィーを抱き締め…その美しい腰まである長い銀髪を優しく撫でた。
そのやり取りの次の日…ガボールは村を発ち、幼馴染の元へと向かった。
ガボールが暮らしている村から王国へと辿り着くためには魔獣が多く住む、人族から''魔の森''と呼ばれる薄暗い大森林を抜けなくてはならなかった。
「手紙には・・・かかったのは魔狼の呪いで、かけられたのは5日前だと書いてあったから…手遅れになるまでには、あと2ヶ月はあるはずだけど…でも念のため、急いで行こう。」
そう独りごちると、ガボールは森の中を歩む足どりを早めた。
普通の人間であれば、この森に1人で入るような馬鹿な真似はしない。
どんなに弱い魔獣でも普通の騎士であれば、10人がかりで1体を倒すのが精々なのだ。
1人で入るなんて、ただの自殺行為でしか無い。
しかし、ガボールは躊躇なくどんどん歩みを進めていく。
「グァル゛ルルル゛…」
そして…半日程歩くと一体の魔獣と遭遇した。
2m程ある漆黒の引き締まった体躯に、真っ赤な口から覗く鋭い牙。人族からはBランク上位と評されている魔豹だった。
10m程離れた所、魔豹は一瞬で距離を詰められるギリギリの距離でガボールの様子を伺っている。
しかしガボールは、首から下げられたクロスを握り…進行方向を変えることなく歩みを進めた。
ザッ…ザッ…ザッ…
「グァルガァァァァー!」
魔豹は怯えることなく自分に向かってくる人間に対して一瞬だけ警戒し雄叫びを上げたが…
それでも相手が変わることなく自分の方へと向かってくるのを見て…
「ガアァラァァァ!!!」
咆哮と共に魔豹はガボールの首元へと飛び掛かった。
魔豹の魔力核は風系統である。爪に風の刃を纏わせ、その鋭い爪が届く前に相手を切り裂く。
ーーーーーーーーはずだった。
パキッーーン!!
甲高い音と共に風の刃は砕け散り、ガッゴッォっという衝撃と共に爪が弾かれ、その勢いが自身へと戻り…振るった前脚を跳ね上がらせた。
それによってバランスを崩した魔豹は、そのまま空中から地面へと転がり落ちる。
ガボールは一瞬だけ魔豹を一瞥して、そのまま真っ直ぐに前へと進んだ。
魔豹はすぐに体勢を立て直し、先程よりも力を込めて…もう一度襲い掛かってみるが、結果は同じ・・・
それどころか、2度の衝撃で爪が割れ、右前脚の筋が傷付いてしまい、上手く立つことすら難しくなってしまった。
それでもグァル゛ルルルと低い唸り声を上げ、前脚を庇うように立ち上がり、魔豹はガボールを威嚇し続ける。
その様子を見てガボールは足を止めて、魔豹に近づいていった。
「ごめんね。そっか、この先に子供がいるんだね?言葉が通じるかは…分からないけれど、僕はちょっと急いでいるんだ。だから通らせて欲しい。」
そう言うとガボールは膝をついて魔豹の前脚に手を当て、もう片方の手でクロスを握り締め…祈りを捧げた。
すると手を当てられている魔豹の前脚が柔らかな光に包まれ…しばらくすると割れた爪は元に戻り、痛めた前脚の痛みも無くなってしまったのを魔豹は感じた。
「やっぱり、魔獣は治癒力が高いんだね。すぐに治って良かったよ。」
「グルルルル…」
「ごめん。僕も君が何を言っているのかは分からないんだけど…子供に手を出したりしないって約束するから。じゃあね。」
先程までとは違う鳴き声をあげた魔豹に声をかけてから立ち上がり、またガボールは幼馴染が待つ王国へと歩き始めた。
ガボールが魔豹に使ったのは・・・一度は使うことが出来なくなってしまった''祈り''に魔法、そして聖具を掛け合わせた彼独自の…彼にしか使うことの出来ない聖秘術だった。
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