夜明けの書斎
三上クコ
Prologue
祖父が死んだ。
町外れの小さな屋敷の書斎でペンを握ったまま、書きかけの小説を残して、息を引き取った。
祖父との思い出はあまりない。ただ、物語と夜明けを愛していたことだけは覚えている。
真夜中に起きて、夕方に眠る。少しずれた生活を送り、書斎にこもって物語を書き続けていた祖父を、両親は敬遠していた。だが、幼少期のわたしは本だらけの祖父の家によく出入りし、本を読んでいた。祖父がペンを走らせる音、わたしがページを捲る音、そして木々の騒めく音や鳥の鳴き声。言葉を交わす訳もなく、祖父が眠るまでの間、本を書く祖父と本を読むわたしだけの静かな空間で過ごすのが、わたしの放課後の定番の過ごし方だった。
一度、なぜ夕方寝るのかと祖父に聞いたことがある。祖父はペンを止めてわたしを振り返り、静かな目でこう言った。
「夜明け、黎明、暁、曙。あの時間が一番いい。夜も、朝もだめだ。混ざっている時間でなければ。朝が夜を飲み込む、全てのものが目覚める、あの時間でなくては」
当時は、何を言っているのかさっぱりわからなかった。物語の台詞のような抽象的な言葉だが、確かに祖父の本心であることは、子供ながらに感じていた。
朝の光のような、真っ白な骨になった祖父を壺に移しながら、わたしはそんなことを思い出していた。
鼻の奥を鋭い針で刺されたような痛みを感じる。涙は、一つも出なかった。
葬式が粛々と終わり、疲れ切った両親がふと「家を売りに出そう」と呟いた。
「わたしが貰う」
思わず口から出た言葉に、わたし自身が一番驚いていた。目を見開く両親の瞳に、酷く動揺するわたしが映る。二の句を継げず、口を開閉させて狼狽えるわたしに、両親は納得したように苦笑した。
気が付けば、祖父の屋敷は、わたしのものとなっていた。
*
祖父の屋敷への引っ越しがある程度完了した後、わたしは祖父の書斎を訪れた。
書斎は、あの頃とほとんど変わっていなかった。壁一面の本棚、窓際に置かれた机、床に積み上がった本、読めそうで読めない字で書かれたメモ用紙。そして祖父が座っていた安楽椅子。当然のことながら、椅子には誰も座っていない。わたしは近くの本棚から一冊取り出して、飛ばし飛ばし読んでみる。どうやら、骨太のダークファンタジー小説のようだ。あの頃は、読めない漢字が所狭しと並んだ文章に読むのを早々に諦めていた。もう、読めない漢字はない。今なら書斎の本は全て読めるだろう。ただ、聞こえるのが、木々の騒めく音と鳥の鳴き声だけというのが、どうしようもなく物足りなかった。
ふと、机の上に置かれた一冊の深い青色の本が目に入った。ハードカバーのそれには、題名も作者名も書かれていない。それをなんとなしに手に取り、ページを開く。
”夜明けに物語は始まる。”
わたしは息を飲んだ。全身に鳥肌が立つ。たった11字。たったそれだけの文字数が、この本の作者を雄弁に物語っていた。わたしは震える手でページを捲った。白紙。またページを捲る。白紙。捲る、白紙、捲る、白紙、捲る、白紙。
わたしはもう一度見開きに戻り、あの一文をじっと見つめた。そして誰もいない安楽椅子を見て、本を閉じた。直感に導かれるまま、段ボールが散らかる寝室に向かう。スマホのアラームを真夜中にセットし、茜色の強い光が差し込む中、ベッドに潜る。
つまり、こういうことなのだろう。まどろみの中で、祖父が静かに頷いているような気がした。
*
けたたましいアラームに目を開くと、窓の外はあの白紙の本と同じ深い青色をしていた。下の方に微かにだが黄色い光が見える。頃合いだろう。わたしは再び書斎を訪れると、あの本を手に取り、そっと表紙を開いた。
瞬間、『待っていた』とでも言うようにページの奥から強い風が吹きあがり、書斎中に文字が舞い上がる。雪のように降り注ぐ文字には、温度も重さもない。呆然とするわたしの目の前で、文字は渦を描いて寄り集まり、本の上に小さな木のようなものを形成した。作り物には見えない。生きた木とその周りに置かれたミニチュアたちが意味ありげに並べられ、何かの一場面を表しているようだった。
祖父が書いた、物語。高鳴る鼓動のまま、わたしはそっと本を覗き込んだ。
降り注ぐ文字の奥から、ペンが走る懐かしい音が聞こえた気がした。
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