星空の下、一本の煙草。

木林シルワ

第1話 星空の下、一本の煙草。


「どうだった? 今日で最後だけど」


 暑苦しい7月の星空の下で美嘉ミカが言った。


「……なんか寂しい」


「なにそれ、キモ」


 おどけて言った美嘉は、いつにも増して可愛らしい顔をしている。

 普段俺の部屋に入ってくる時のメイクで飾られた美嘉よりも、メイクも髪も乱れた今の方が魅了的なのは何故だろう。

 そんな疑問が俺の脳を駆け巡る。


「ま、ミカは楽しかったよ」


 マンションのベランダの手摺りにもたれ掛かって星空を眺める美嘉の横顔は、僅かに欠けた月の明かりに照らされている。

 相変わらず綺麗な鼻筋だなと俺は思う。


「……7月はあちぃな」


「って無視すんなッ!」


 美嘉が俺の右手をペシッと叩いた。

 この温かさは汗ばんだ手の平から伝わったものなのか、それとも叩かれた痛みによるものなのか。

 それは俺にはよく分からない。


「いってぇな。……まぁ、俺も楽しかったよ」


「へっ! だと思った!」


「うっせ!」


 美嘉はいつもとなんら変わらない。

 変にモワモワしているのは俺だけのようだ。


 俺はそのモワモワを上書きするためにポケットから煙草を取り出した。


「あ、ミカにも一本」


「ん」


 箱をさっと振って美嘉の手に一本出してやる。

 しかし美嘉はそれを吸わずに、俺に差し出した左手で胸ポケットにしまった。


「吸わんの?」


「後で吸うの」


 美嘉はそう言うと再び星空に目を向けた。


 今の空には何の星が輝いているのだろうか。

 美嘉の横顔よりも輝いているのだろうか。


「そっか」


 俺はそっと呟くと煙草をふかした。


 元々俺は非喫煙者だったのだが、美嘉と知り合ってから強く勧められ吸うようになった。

 そもそも煙草が苦手なため、煙を肺まで入れるのが難しいのだが断りきれず、口腔喫煙で吸うようになったのだ。


「そろそろミカ帰ろっかな」


「もう? てか夜道危なくね?」


 俺は美嘉を心配しているつもりだったが、「もう?」という言葉が先に口から漏れたのを自覚して、自分の心の弱さを実感した。




──俺はまだ美嘉に縋っていたいんだな……。




「友達が途中から車で送ってくれるから大丈夫」


「友達って、男? 女?」


「安心しろあんちゃん。女だよ、お・ん・な♡」


 美嘉が前傾姿勢になってウィンクしながら言った。


「うわっ、マジで?」


「ミカちゃんは雑食なんですぅ。……ぐへへ」


 美嘉が邪な目をして手をわきわきさせた。


「……さて、帰る支度でもしますか!」


 大きな胸を張って元気に言い放った美嘉は、全開になった窓から部屋に戻ってテーブルの上を片付け始めた。


 少しずつ物が片付けられて減っていく様子は、俺が美嘉と居られる残りの時間をカウントする時計のようだった。

 俺はその時計を壊してしまいたかったが、美嘉はきっとそれを許さないだろう。


「あ、その缶ちょっと残しといて」


「いやこれミカの飲みかけじゃん! うわキモー」


「最後くらいいいじゃん」


「しゃーない。この寛大なミカ様が残しておいてやりましょう」


 美嘉はそう言って半分程残っているキリンバタフライの缶だけを残し、やがてその他酒類とつまみを片付け終えた。

 俺は最後に布巾でテーブルを水拭きした。




「じゃ、今までサンキューでした」


 荷物をまとめた美嘉が玄関で俺に笑顔を見せて言った。


「おう、元気でな。……なぁ、最後に聞いてもいい?」


「なに?」


「俺にダメなところってあったかな?」


「特にはないけど、強いて言うなら、ミカにとって幸介は、もう秘密がない人ってところかな」


「そっか」


「うん。……あ、最後に一個言い忘れてた」


 おもむろに拳を手のひらに打ちつけて「閃きのポーズ」をとる美嘉は、いつもの事ながら可愛らしい。


「友達との別れ際に毎回言う事があるんよ」


「……なに?」

 

「人という字はね、……何で出来てると思う?」


「人と人が支え合って出来てる、だったか?」


「ブーッ! 正解はね、」


 少しの溜めの後、ドヤ顔で美嘉は答えを言う。


HITOという字は、HなITOで結ばれて出来ているのです!」


「最後の最後にクソしょうもない事言いやがったコイツ!」


 心の底からしょうもないと思いつつ、俺の口からは笑いがこぼれた。

 それに釣られてか美嘉も笑いだし、2人の笑いが重なって更なる笑いを誘った。


 本当に、2人は相性だけでいえば完璧な2人だった。


「じゃ、嫁さん幸せにするんだぜマイフレンド!」


「いやまだアイツは嫁じゃねぇよ! ……じゃあな!」


 最後にツッコミを入れて俺は美嘉を送り出した。

 いや、違う。

 美嘉が俺の元から飛び立ったんだ。

 俺はそれをただ見ていたに過ぎない。


 俺はドアが閉まりきるギリギリまで美嘉を見送り部屋へ戻った。


 全開になった窓から吹き込む夏夜の風が、俺に空いた小さな心の穴を通り抜けていく。

 その穴を埋めるかのように、俺は美嘉の残してくれたキリンバタフライをひと口飲んだ。


「……ジンジャーじゃなくて、りんごが良かったな」


 俺は缶の中身を一気に飲み干すと、缶から口に付いた口紅を手の甲で拭った。

 口内は爽やかな香りで満たされたが、唇は拭った今でもやけに甘ったるく感じられた。


 俺は空き缶をゴミ箱へ投げ捨てると寝室へ向かった。


 そこにはベッドメイキングされた痕跡など全く見られない程に荒れた寝床があった。

 定位置からズレたナイトテーブルからは、赤い小さな箱と、花瓶に刺さっていた赤い薔薇の花弁が1枚、床に落ちていた。


 不思議な匂いと雰囲気に包まれた俺は、荒れたベッドに潜り込み、飾ってある薔薇を涙で白く染めた。






「──『今までありがとう』っと」


 俺は最後にLINEで美嘉にそう送ると、今度は1人でベランダに出て、残り1本になった煙草をよく味わいながらふかした。






 ミカとの関係を絶ってからというもの、俺の線路に赤い薔薇が咲くことは決してなかった。






◇ ◇ ◇






「ふぅー。1人攻略ぅ」


 ミカはマンションからの帰り道、思いっきり伸びをして呟き、スマホを手に取ると幸介のLINEをブロックした。

 そして手に提げていた小さなカバンからライターを取り出すと、胸ポケットにしまっていた煙草に火をつけた。


「はぁ……」


 その煙を肺まで入れて存分に味わう。


「これでブロックリストは43人か。いやー煙草美味いねぇ」


 


 それから美嘉はコンビニに寄ると、一吸いしかしていない煙草を入口近くの灰皿に投げ捨てた。

 そして夜道を照らすほど明るい店内に足を踏み入れると、レジで煙草を1箱購入した。


「えーと、44番の煙草1つお願いします」


「1点で580円になります」




 ミカは煙草の箱を片手に店を出ると、駐車場に停まっている黒のアルファードに乗り込んだ。


「やっほ! 私がミカだよ! 君は幸夏こなちゃんで合ってる?」


「あっ、初めまして! はい私が幸夏ですっ!」


「じゃあはい、これ」


「……すみません、私煙草吸えなくて」


「いいからいいから、1回吸ってみなって」


「は、はぁ……」


 幸夏はミカから火のついた煙草を受け取ると、吸い方が分からなかったため大量の煙を肺に取り込み激しく噎せてしまった。


「幸夏ちゃん大丈夫!? でもそんなところも可愛いよ。よしよし」




 幸夏が咳き込んで立ち上った煙は、開けられた車の窓から外に出て、2人の頭上に広がる星空を覆い隠した。






 

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星空の下、一本の煙草。 木林シルワ @kobayashi_silva

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