第三話
空はどんよりと鉛色に染まり、雨粒が絶え間なく降り注いでいる。停車駅に止まるたび、外から生暖かい風が車内に吹き込んできた。
湿った空気は肌にまとわりつき、夏特有の重苦しさにさらに輪をかけ、不快感をじわじわと募らせる。座っているだけでも噴きだしてくる汗は、体にこもる熱のせいだろうか。
窓の外を流れていく景色は、ぼやけた水彩画のようだった。濡れた道路、傘を差して小走りする人々、濡れ鼠になった電柱や看板──。無機質な雨音がガラスを容赦なく叩き続け、その冷たいリズムが、茜の胸の内をなぞるようだった。
神奈川県の西部に位置する
叔父の訃報が届いたのは、今朝八時を少し過ぎた頃だった。
夏休みの間は、普段ならまだ布団の中にいる時間。鳴り響く電話の音に叩き起こされ、ぼんやりとした頭で受話器を取ったその瞬間、日常が音を立てて崩れ落ちる感覚を覚えた。
心をぐしゃぐしゃにかき乱され、思考が追いつかない。ただ夢中で、箪笥の奥にしまい込んでいた制服を引っ張り出し、何も考えないまま家を飛び出していた。
長い道中も、ひたすら雨音だけが耳に残り、時間の感覚は遠のいていく。頭の中は纏まらないまま、ただ目の前の横殴りの雨をぼんやりと眺めているしかなかった。
幼い頃に両親を亡くした茜にとって、叔父は、唯一の家族といってもよい程の存在であった。
両親が事故で亡くなったとき。独身であった叔父は、まだ五歳だった茜を引き取り、男手一つで育てることを決めたのだ。
大学の教授として、既に社会的に立場のある地位にいた叔父は、多忙を極めていたはずだ。仕事と子育てと両立するのは並大抵のことではなかっただろう。それでも叔父は参観日には必ず顔を出し、休日は茜と過ごそうと努力を惜しまなかった。そのお陰で茜は、今の今まで寂しいと思うこともなく、何不自由なく暮らすことができたのだ。
長い間叔父が独身を貫いていたのは、幼い茜がいたことが理由だったのだろうと思う。茜は、埼玉の叔父の家から遠い沈ヶ峰学園高校に進学することを決めたのは、そんな叔父の負担になりたくないという気持ちがあったからだ。寮に入れば叔父は茜の世話からも解放される。今まで茜がいたことで好きなことを我慢していたのだから、好きなだけ羽根を伸ばしてほしい、そう思っていた。
茜が進学後まもなくして、叔父は交際していた女性と入籍した。やはり、私に気を遣っていたのだろうと思うと、申し訳ない反面、早々に家を出てよかったとほっと胸を撫で下ろしたものだ。
茜の人生を背負うことになってしまった叔父に、心から幸せになってほしい、そう願っていた矢先──。
その人が、もうこの世界にいない。
物思いに耽っていると、次の駅に停車し、車両のドアが開いた。肩口を濡らした人々が足早に乗り込んでくる。それと同時に熱をはらんだ不快な風が茜の全身を包み込んだ。一度は引いたはずの汗がたらりと吹き出してくる。
顔を顰め、電車の窓に目を遣った。濡れたガラスに映る自分の顔はどこか他人のようで、現実感はどうしても戻ってこなかった。
*
茜が叔父である
「茜ちゃん!」
玄関をくぐった茜に、まっさきに駆け寄ってきたのは、昨年叔父と結婚したばかりの女性、
「大丈夫、大丈夫だからね……」
そう繰り返しながら、佳代子は茜をぎゅっと抱きしめた。彼女の腕は細く、抱きしめる手も冷たく震えている。その震えは、悲しみを押し隠そうとする意志の表れだった。今にも泣き出してしまいそうなほどの辛さを堪え、それでもなお茜を気遣おうとする、そんな痛々しい優しさが、彼女の全身から伝わってきた。
佳代子は、凛とした佇まいと輝くような微笑みが印象的な人だった。温厚な叔父にぴったりの伴侶で、同性の茜から見ても、暖かく、自然と惹きつけられるような魅力を持っていた。
家の中は落ち着かない空気に包まれていた。親戚たちの慌ただしい声が飛び交い、葬儀社の人間が式の段取りについて説明を繰り返している。大学関係者らしき見知らぬスーツ姿の大人たちも出入りしていて、普段なら静かなこの家が、今はまるで見知らぬ場所のように思えた。
「叔父さん、なんで……何が……あったんですか?」
「信二さんね、家の窓から落ちちゃって。私がもっと気をつけていれば……ごめんなさい、茜ちゃん……」
佳代子はそれきり声を出せないほどに泣き崩れた。
震えながら涙を流す佳代子に気がついたのか、幾人かの親族が寄ってきた。
「佳代子ちゃん、無理しないで。あっちで休んでいていいから」
年配の女性が茜に声をかける。顔を見た記憶があるが誰だったか、名前は出てこないが優しそうな人だ。佳代子は別の女性につれられて奥の部屋に休みにいった。
「茜ちゃん、あなたも大変だったわね。こんなことになっちゃうなんて。それにしても大きくなったわね、立派になって、お婆ちゃん嬉しいわよ」
どうしても名前の思い出せない。だが、きっと茜が幼いころから知っているのだろう。両親が亡くなったときにも会っているのかもしれない。
「それでね、信二さんなんだけど。昨日の夜遅く、三階の窓から落ちちゃったみたいなのよ」
三階の窓のある部屋、叔父が書斎として使っている部屋だ。
「佳代子ちゃんがそろそろ寝ようとしていた時ね、大きな音がしたらしくって。驚いて見に行ったら庭で倒れてる信二さんを見つけたの。すぐに救急車を呼んだんだけど、打ちどころが悪くってね」
年老いた白髪の夫人は悲しそうに茜の手を強く握りながら呟いた。
不慮の事故。それが叔父の死因であった。
*
それから数日が過ぎたある日のこと。とっくに日は登ったというのに、起き上がる気力もなく布団の中で惰眠を貪るようにベッドに潜り込んでいた。中学まで過ごした茜の部屋は今でもそのままにしてあった。いや、昔よりずっと片付いてはいるが。茜がいつでも帰れるようにと叔父と佳代子が気を回してくれていたのだろう。
通夜、葬儀はあっという間に過ぎていった。亡くなったという衝撃も、時間と共に和らいでいくように思えた。しかし同時に、心にぽっかりと隙間ができてしまったような感覚をどうしても拭うことが出来ないままだった。
茜は、これからのことを考えていた。
叔父が亡くなった今、この家から遠く離れている茜が沈ヶ峰学園に通う理由はなくなってしまった。いっそこの近くの公立高校にでも転校したらどうだろう。仲のいい友達もたくさんいる。
叔母の佳代子はどう思うだろう。いい人だし、うまくやっていけるかもしれないが、さすがに一緒に暮らすのは気が引ける。それに、この家はもう茜の家ではない。叔父と佳代子のものなのだから、無理言って茜が居座る気持ちにはなれない。どこか寮のある高校でも探すか。しかし、それはそれで佳代子に気を遣わせてしまうだろうか。
やっぱり高校を出るまでは沈ヶ峰学園に通うべきか。お金の面でもそれが一番良いかもしれない。
地元では有数の名門校として知られた沈ヶ峰学園に入学できたのはいくつかの幸運が重なったためであった。茜はもともと祖父が沈ヶ峰学園の理事長を務めていた縁もあって、学園の関係者から特待生制度を紹介され、猛勉強の末に奇跡的に成績優秀者として学費免除を受けることができたのだ。
もちろんそのせいで嫌な思いをしたこともあった。新入生の頃、学費も払わずにコネで入ったと影で噂されていたことも知っていた。
名門校なのだから高い学費を払ってでも通いたい人はいくらでもいる。両親を伴った面接では、必ずと言っていいほど家柄や親の仕事、年収、身なりや所作といったものも評価の対象にされる。そうして苦労して入ってきた生徒たちから目の敵にされるのは当然のことだとも思う。
だから茜は嫌な目にあっても、言い返さずに普通にしていた。本気になれば、真っ当な成績を取って勝ち取ったのだと言えたはずなのに、である。
茜は昔から遠慮がちで大人びている、そう周りから言われ続けてきた。しかしそれは半分当たっていて半分外れているように思う。人が誰かを攻撃するのは、何かしらの理由があるからだと思っている。多くの場合は自分が誰かに攻撃されたと考えたときなのだろう。そういう時は、知らず知らずのうちに茜が相手を攻撃しているのだと思うし、実際、相手にとって都合の悪いことをしてしまっている。
学園に入学したことだってそうだ。人は他人がどれほど苦労してきたかなんて知らないのだ。けれど、自分が苦労してきたことは嫌というほど知っている。だから、苦労してきてようやく掴むことのできた名門高校の入学切符を突然横取りされたような、そんな感覚を受けたのだと思う。
だから別に茜は陰口を叩くような連中が嫌いなわけではない。彼らもたまに嫌味を言うだけで、表立って攻撃するようなことはしていないのだから、それぐらいは大目に見ようと思った。それに、学園内では浮いた存在ではあったが、それでも何人かは友達もできた。別に寂しいとも思わなかった。
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