第二話

 その瞬間だった。

 カン……カン……。

 上のほうから、何か硬いものを引きずるような音がかすかに響いた。

 光一は思わず立ち止まる。

 耳を澄ますと、建物のどこか遠くから、コトコトと小さな何かが床を叩くような音も聞こえる。

 風が運んできた空耳か、それとも本当に誰かがいるのか。

 光一の背中に、冷たい汗がじわりと浮かんだ。

 宗介はというと、そんな音など気にも留めないように、軽い足取りで階段を登っていく。仕方なく光一も歯を食いしばって後を追った。錆びた階段がぎしりと揺れ、暗い三階の闇が、ますます深く、近づいてくる。

 三階の踊り場を抜けると、がらんとした広い空間が広がっていた。窓ガラスは破られ、風が吹き込んでいる。

 月明かりの差し込む先に、一つの扉が見えた。分厚く重い鉄の扉だ。赤茶けた錆がところどころにこびりついている。

「これって、外に繋がってるよな、開けられるのかな?」

 そう言うと宗介は片手に取手を掴み、もう一方の手を扉に当て、力を込めた。

「ぐ、ぐぐぐ」

 宗介の顔がみるみる間に赤らんでいく。しかし扉はキイキイと鳴くばかりで開く気配はない。ふうっと諦めたように一息つく。

「おい、見てないで光一も手伝ってくれよ」

 はあはあと息を切らしながら宗介は助けを求める。よくこんなことに本気になれるものだと感心しながら、仕方なく光一も両手を扉に当てた。

 せーの、という掛け声とともに、息を合わせて一気に扉を奥に押し込む。二度、三度と押すうちに少しずつ扉に隙間ができるのが見えた。

「もう少しだぞ、せーの!」

 宗介の掛け声と共に、鉄の扉はキイキイとより一層派手な音を軋ませる。やっとのことで僅かに扉が開き──そのあとは嘘のように軽く扉が動き始めた。長年の錆が地面にパラパラと舞い落ちて、扉は完全に開き切った状態になった。

「ふう。なんだよ、やればできるじゃん」

 苦労してこじ開けた扉の奥には、六畳ほどの広さの空間が広がっていた。床は冷たく無機質な石畳で、長年放置されたせいか、埃がうっすらと積もっている。隅には、壊れかけた備品庫や、用途のわからない古びた用具が置かれた棚が無造作に転がっていた。

 そして──その中央には、ひとつの鐘が吊るされていた。ちょうど手のひらぐらいの大きさに、黒ずんだ金属に赤錆が浮き、重たげに垂れ下がっている。

 わずかに吹き込む風に揺れ、カラリと微かな音を立てた。

「これかあ。本当にあったんだ」

 宗介は少し興奮気味に呟いた。光一もまた、噂の鐘を前に胸が高鳴るのを感じた。宗介は何かに引き寄せられるように鐘の近くまで足を進める。

 汗ばんだ肌に、冷たい風が吹き抜けた。思わず鳥肌が立つ。まるでここだけ異質な空間のように感じる。

「おい、見てみろよ。これ、院長の鐘木しゅもくってやつだよな。これで鳴らせばいいんだろ」

 そこには、手のひらサイズの鐘を鳴らすための木槌のようなものが置かれていた。何やら豪華な装飾が施されている。噂の鐘木とみて間違いないだろう。

「たぶんそれだな。でもなんだ、てっきりお寺にあるようなでかい鐘を想像してたよ」

 光一は、今の今まで除夜の鐘を鳴らすような姿をイメージしていた。だから、院長の鐘木でなければダメ、なんて話もどこか違和感を感じていたのだ。

「ふはは、俺もだ。考えてみりゃ、普通の建物に寺の鐘みたいなでっかいのがあるわけないよな」

 そう言いながら、無造作に鐘木を持ち上げた。見た目よりずっしりと重かったのか、宗介は顔をしかめる。

「これなんだろう、猿……かな?イノシシか?」

 宗介達はまじまじと鐘木の装飾を覗きこんだ。装飾に気を取られていたが、よく見ると中央に何かが彫り込まれていることに気がついた。

 黒々とした長い体毛、潰れた鼻、頬の先まで裂けた口。そして睨みつけるかのように開かれた目。見ただけでも気味の悪い彫刻が繊細に型取られている。

「さあ、なんだろうな。でもこれ、手彫りじゃないか?だとしたらすごい職人技だなあ」

「ひょっとしたら高価なもんかもしれねえなあ」

 宗介はそう言うと、手に持った鐘木を鐘に近づけた。

 光一の目に映った鐘は、錆一つなくその姿を保っている。建物自体はひどく荒れてはいるが、この狭い屋上は、背の高い木に隠れるようになっているせいか、ちょうど雨風を避けられたのだろう。鐘も、それを支える台座も、思ったよりまともな状態を保っていた。小さいけれど圧倒的な存在感のある、そんな姿であった。

「えっ、お前まさか鳴らす気?」

 光一が信じられない、といった声を出した。

「当たり前だろ、ここまで来たんだから」

 宗介は当然だと言わんばかりににやりと笑う。この状況を楽しんでいるのだろう。

「ってか光一こそ、あの話、まさか本気で信じてるわけじゃねえよな? あんなバレバレな作り話、今時流行んねえって」

 そう言われればその通りだが、しかし、どこか引っかかるものは残る。「マジかよぉ」と言ったきり光一は言葉に詰まり、代わりに目の前のオカルトマニアを、怨めしそうな目で見た。

 宗介はそんな光一の気持ちなどどこ吹く風で、息を整える。ゆっくりと鐘木を構え、そして乱雑に鐘へ叩きつけた。


 ゴウン……ゴウン……。


 低く、重たい音が建物中に響き渡る。


 ウオオン……ウオオン……。


 叩き終わった後も、鐘の音は長く響き、ぴんと張り詰めた空気を震わせた。

 二人は黙りこみ、耳をすませる。

 三階から見える、黒々とした森。

 木々が擦れるざわめき。鐘の音に反応したのか、どこか遠くで犬が遠吠えをあげる。

 光一は胸の奥をざわつかせながら、次々と耳に飛び込んでくる物音を聞き続けた。

「ほらあ、何にも起きねえじゃん。ったく、がっかりだな」

 宗介があきれたように肩をすくめる。

「がっかりって、お前、信じてなかっただろ」

 光一が呆れ声を返すと、宗介はどこか拗ねたように言い返した。

「それとこれとは別だろ。信じてねえけど、少しくらい期待はしてたんだよ。ああ、なんか冷めたわ、この──」

 役立たずがっ!と宗介は吐き捨てるように言うと、手にしていた鐘木を屋上の手摺壁から建物の外へ放り投げた。

「おいっ、何してんだよ!」

 光一が慌てて声を上げながら建物の下を覗き込む。

 鐘木はばさり、と鈍い音を立て、廃屋の入り口付近に落ちた。土埃がふわりと舞い上がり、夜気の中に溶けていった。

「いいじゃんかよ、ここにあったってどうせ役にも立たないんだから」

 するとその時──。


 ギ……ギギ……。


 低く、湿った音が空間のどこかから響いた。まるで古びた木の骨が、ゆっくりと軋みながら身をよじっているような、鈍い呻きだ。


 ギィィ……ギ……ギギィ……。


 扉の音かと思い、反射的に振り返る。だが、背後には何もない。ただ、黒く沈んだ空間と、吹き抜ける風だけがそこにあった。

「えっ、何の音だ?」

「さあ?結構風強いからな、どこかが軋んでるんだろう」


 カタ……チャリ……カタ……。


 乾いた、しかし金属質な音が断続的に響いた。何かが揺れている。風鈴のように軽いものではない。もっと、重く、錆びついた何かが。

「おい!やっぱり何か聞こえるぞ。なんだよこの音」

「お、おいおい、そんなにビビんなよ光一」

 そう言いながら、宗介の声もかすかに震えていた。耳の奥に残響のような異音が絡みついて離れない。湿った床、冷えた空気、どこかの奥からこちらを見ている何かの気配。

 そして──。


 ゴォオオオオォォォ……ン。


 鐘が鳴った。鼓膜を震わせるほどの低音。空気が震え、足元がかすかに揺れた。まるで地の底から這い上がってきたような音。

「うわあ!」

 光一が跳ねるように後ずさる。宗介も同時に身を引いた。どちらも鐘のそばになど、いなかった。風で鳴るような構造でもない。心臓が跳ね上がる音が聞こえる。そして──。


 カシャリ。


「おい、光一、後ろ!」

 宗介が叫んだその瞬間。振り返る間もなく、光一の背後から黒いものが飛び出すのが見えた。黒々としたその何かは、カチャリと音を立てながら目の前の宗介に飛びつく。


 カチャリ。カチャン。


 金属が何かに噛み合うような不気味な音。

 その直後。

 「ぎゃあああああああっ!!!」

 宗介が恐ろしく張り裂けるような叫び声をあげた。

 光一の頬にぬるりとしたものが飛び散る。生暖かく、どこか酸っぱい臭いが立ち込めている。

 黒い何かは、宗介に跨り、手に持った鈍く光るものを振り下ろしていた。

 だらりと宗介の腕が力無く垂れているのが見えた。そこには、黒々とした液体が吹き出している。

「あああ、ああ……」

 ガチャ……。ガチャガチャ。

 暗い影はただひたすらに単調な仕草を繰り返している。

「い、いたい、痛い!」

 宗介の叫び声に、光一はなす術なく見ているしかなかった。

「た、たす……て……ええええええ!」

 宗介の凄まじい絶叫が鳴り響く。

 がしゃり、がしゃりと何かを振り落とす音が響く。

 絶叫と、単調な金属音。

 それが何回も、何回も繰り返される。

 宗介は弛緩し、だらしなく手足が伸びている。

 やがて、宗介の声は止み、金属音だけが響くようになった。黒い影が、光一の網膜に焼き付いたまま動かない。

 恐怖のあまり、金盛光一の意識は深い底へと沈んでいった。

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