狒々、屍に舞う

千猫怪談

沈ヶ峰学園編

第一話

 金盛かなもり光一こういちはこの日、とある廃屋を訪れていた。

 高校最後の夏休みの最初の週、同じクラスの名波ななみ宗介そうすけがどこからかこの廃屋の噂を聞きつけ、見に行ってみようと誘われたのがきっかけだった。

「うわぁ、すげえボロいなぁここ」

 宗介が廃屋を見上げながら呟いた。

 靴の下でパキンと何かが折れる音がした。鬱蒼とした木々からこぼれ落ちた枝が折れたのだ。

「それにしても……デカくない? 本当に行くのかよ」

 思わず漏れた言葉に、自分でも腰が引けているのがわかった。目の前にそびえる三階建ての廃屋は、ただそこに在るだけで、じっとこちらを見下ろしているようだった。

 かつて療養施設だったその建物は、低い箱のような輪郭を、黄ばんだ空の下に無言で浮かび上がらせていた。外壁はあちこち剥がれ、雨に打たれた跡が黒く伝っている。

 玄関のドアは口を閉ざしたまま、ガラスは蜘蛛の巣のような亀裂で覆われていた。施設の名前が書かれていたであろう看板は、文字の輪郭だけを残して白く風化している。

 正面に立つと、建物全体がこちらを睨んでいるような錯覚を覚えた。周囲に植えられていたはずの植栽は伸び放題に枯れ、風が吹くたび、どこからかカラカラと小さな音が鳴る。

「ここまで来たんだしさ、入らないわけにはいかないっしょ」

 宗介が軽く言った。彼はいつもこの調子だから仕方ない。一度行くと言ったら聞かないのだ。

 光一たちが通う沈ヶ峰しずみがみね学園高校。その裏手にひっそりと続く細い山道を、獣の通り道のような踏み跡を頼りに分け入った先に、この建物はあった。

 学園からは目と鼻の先だというのに、その存在を知る者はほとんどいない。敷地裏から延びる道は、腰に届くほどの雑草と低木に覆われ、細く、暗く、息をひそめるように続いていた。

 おまけに高校の裏手にはコンクリートの塀とフェンスが張られていて、まるで奥へと進もうとしている者を拒んでいるかのようである。

 そのためか学園生たちは、学園のすぐ裏手にこんな道があることすら気づかないまま、何の疑いもなく日々の生活を送っているのだった。

 そもそも、地元では格式ある名門私立として知られる沈ヶ峰しずみがみね学園の生徒たちが、この場所の存在を知ったところで、わざわざ忍び込もうなどと考えるはずもない。進学や部活に忙しく、余計な危険を冒す暇なんてないはずだ。

 もし仮に廃屋の噂を耳にしたとしても、ただの噂か、ありふれた怪談話の一つとして笑い飛ばしてしまうに違いない。

 宗介は、オカルト板を覗くのを日課にしている、学園でもちょっと風変わりな生徒だった。都市伝説や心霊スポットといった話題に妙に詳しく、休み時間になるとスマホを手に、どこかの怪談スレッドを夢中で追いかけている。

 そんな宗介の影響を受け、光一もまた、自然とその世界に引き込まれていった。

 部活動にも所属せず、暇を持て余している二人は、近くの廃神社や廃墟へ遊び半分でよく肝試しに行っていた。

 今回、宗介がこの廃屋の存在を知ったのも、例によってとあるオカルト板の書き込みからだった。


『沈ヶ峰学園の裏に、地図にも載ってない廃施設がある。毎晩のように亡霊がうろついているんだ。誰も語らないからここに書いておくわ』


 それは、誰が書いたのかもわからない、たった数行の書き込みだった。無名の投稿者が、掲示板に残したこの一文。それがすべての始まりだった。

 はたして本当にそんな施設が存在するのか、最初は半信半疑でオカルト板を眺めていた宗介だったが、気づけばその書き込みが不意に削除されていることに気づいた。

 数時間後、再度確認してみると、確かにその投稿は跡形もなく消え去っていた。そして、その短い文と、すぐに削除されたということ自体に強く惹かれた宗介は、すぐに父親に話を聞いてみることにした。

 宗介の父もまた、この沈ヶ峰学園の卒業生であり、何か知っているのではと思ったらしい。話を聞いてみると、やはり宗介の父は何かを知っている様子であった。

 宗介の父が若い頃、まさにオカルトブームの真っ只中。テレビや雑誌では心霊特集や都市伝説の特集が頻繁に組まれ、怪談や実録映像が次々と世間に放送されていた時代だ。

 その中でも、特に「実録系」と呼ばれる、素人が撮影した心霊現象や廃墟の映像が人気を集めていた。

 その当時、レンタルビデオ店で扱われていたマイナーな心霊ビデオ、その一つにこの廃屋が登場したということらしい。

 もちろん、映像ではその場所がどこなのかは伏せられていたのだが、ビデオに映るぼかし入りの校舎の外観が沈ヶ峰学園高校に酷似していたことから、関係者の間ではすぐにどの場所かが特定された。

 そのビデオの影響はすぐに悪い形で現れた。

 遊び半分で忍び込もうとする生徒が出たらしく、それに危機感を持った教師たちが施設に続く道を封鎖、噂している生徒を見つけてはきつく叱った。その甲斐があったのか、単に生徒達の興味が薄れたせいなのか、次第に廃屋の存在は忘れられていったということだった。

「ここさあ、元々は療養施設だったんだろ?そのビデオの内容で言ってたのって本当なのかな」

光一は不安げに呟いた。

「んなわけないだろ。悪霊に襲われるとかそんなわけあるかよ。大体、ここで事件があったことだって本当なのかわかんないんだぜ」

 宗介は気にしない様子であっけらかんと言った。

 彼が父から聞いた話は次のようなものだった。


    *


噂その一


 かつてこの場所は、療養所として運営されていた。しかし、ある頃、院長が精神を病み、錯乱した挙句に複数の入院患者に手をかけ、最後には自ら命を絶ったと言われている。

 事件の詳細については今なお不明な点が多いが、施設内で何らかの異常が発生していたと考えられている。犯行の動機については現在も明らかにされていない。


噂その二


 療養所の三階には、外に続く扉が存在すると言われている。外に出ると朽ちかけた古い鐘がかけられており、かつての院長は犯行に及ぶ直前、狂ったようにその鐘を何度も鳴らしていたという。

 現在は誰も近づかないその廃墟において、時折、この鐘の音が風に乗って響いてくることがあり、院長の怨霊が今なお鐘を鳴らしているためだと噂されている。


噂その三


 院長が愛用していた鐘木しゅもくで鐘を打ち鳴らすと、どこからか院長の怨霊が現れ、当時犯行に使用した鎌で四肢を刻まれ、異界へと連れ去られてしまう。

 院長の用いていた鐘木しゅもくは独特の紋様が描かれており、これに特殊な霊力が宿っているのだ。

 尚、怨霊に襲われた場合に助かる唯一の方法は、決して怨霊の姿を見ないことである。その場で静かに目を閉じ、息を潜めることが唯一の回避手段であると伝えられている。


    *


「まあとにかく入ってみよう」

 真偽は不明なことに加え、後半はほとんど安っぽいオカルト話であった。くだらない噂話、まさにそういう類の話だ。宗介に背中を押され、二人は入り口へと進んでいく。

「うう、なんだか気持ち悪いなあ」

 光一は小さくつぶやいた。

 玄関口に立った途端、廃屋が発する濁った気配が、はっきりと肌にまとわりつくのを感じる。中を覗き込むと、そこには暗がりに沈んだ広い空間がぽっかりと口を開けていた。

 かつて受付だったらしいカウンターは半ば倒れ、壁紙は湿気とカビでぼろぼろに剥がれ落ちている。床には割れたガラス片や落ちた天井材が散らばり、踏み込むたびに乾いた音を立てた。

 外から漏れるわずかな月の光だけが、崩れたロビーの一角をぼんやりと照らしていた。

 この場所に一歩踏み入れた瞬間から、周囲の世界と切り離されてしまったかのような、そんな孤立感が光一をじわじわと包んでいった。

 足元に注意しながら、光一たちは薄暗い一階のフロアを奥へ奥へと進んだ。

 壁にかかった案内板は色あせ、文字の判別もつかない。天井からは剥がれた配線や破れた配管が垂れ下がり、踏み込むたび、湿った床板がぎしりと軋んだ。建物全体が、長い年月のうちに静かに腐っていったことを、身体で感じ取れる。

 やがて、埃まみれの廊下の突き当たりに、ぽっかりと黒い穴のような影が見えた。それは上階へ続く、幅の狭い階段だった。錆びた手すりは歪み、踏み板もところどころ抜け落ちている。

 階段の奥から、冷たい空気が、かすかな呻き声のように漏れ出していた。

「この先かな?」

 光一は喉を鳴らして呟き、宗介の顔をうかがう。

 宗介は面白がるようにニヤリと笑い、ためらいもなく一歩、軋む階段へと足をかけた。

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