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ヤン・ヴァレリアン・ニコラ、およびフェルディナン・ニコラ。両名とも、暴行と器物損壊、公務執行妨害により書類送検。国家反逆罪により書類送検。他、つきまとい行為規制法、および、配偶者からの暴力防止保護法、それぞれの接近禁止命令の違反について再逮捕し、書類送検。
国会期間中の逮捕、送検は、国会終了まで保留されることが多いが、先に第三監獄襲撃事件で親族が逮捕されていることから、当人らも関与の疑いありとして、先立って不逮捕特権の剥奪が行われていた。
王陛下以下、宰相閣下、両議院議長、およびヴァーヌ聖教会は激怒。両名の議員資格、および爵位や称号の剥奪を通告。当日の証人喚問に応じる返答をしておきながら出頭せずに犯行に及んだこともあるが、何より妊婦であるインパチエンスに対し、暴言や暴行を行ったことが最大の非難の的となり、他家や民衆を含め、全国から、連座をも含めた、両名の極刑を求める声が上がった。
これに対し、宰相閣下と国民議会議長マレンツィオの両名が、“犯した罪の重さは国民より教わるべし”と提案し、他がこれを承諾。
全員の連名で“ニコラ・ペルグランとは、あらゆる婦女の敵の名である”という声明を全国に発表した後、すべての事案を不起訴処分とし、殺到した怒れる民衆の前で、両名を釈放した。
両名とも、生きて郷里に戻れたというが、その道中は悲惨の一言では済まされないものだったという。
裁判所は、ニコラ・ペルグラン一族の男たちが認知していなかった婚外子ら家族への養育費、謝罪金へ充てるため、所有地や銀行口座を含む全財産を没収。また各位への、年金を含む福利厚生制度の提供も停止する判決をも下した。
言ってしまえば、ニコラと名がついているだけで、国民としての権利のすべてが失われることとなる。
海軍を含む国防軍総帥部は、国家転覆の陰謀を企てたとして、ニコラ・ペルグラン一族に対する内部粛清を開始。また、もと海軍将帥という立場でありながら、妊婦を含む女性に暴行を働いたことについて、国防軍の信頼を損ねる行為であることとして抗議声明を出し、一族の過去の軍籍、軍歴を抹消する旨を発表した。
また数年前に進水したニコラ・ペルグラン級戦艦も全隻解体が決定し、今後、ニコラ・ペルグランを士官学校の教材として取り扱わない旨も発表している。
そのための費用は、裁判所に全財産が差し押さえられているのをわかったうえで、すべてニコラ・ペルグラン一族に請求しているようだ。
ニコラ・ペルグラン一族へ嫁いだ女たちへの不当な扱いについて、連日、マスメディアで報道され、世間からは同情と擁護の声が上がっている。
しかし、ニコラ・ペルグラン一族出身の女となればそうともいかず、ほぼすべてが嫁ぎ先から追い出されたそうだ。
現在それらは、ヴァーヌ聖教会やフォンブリューヌ諸侯、そしてマレンツィオ家とガブリエリ家が受け入れ、保護している。
女たちに対しては、暮らしが落ち着き次第、ルイソン・ペルグランの名を授けて名誉を回復するというのが、ペルグランの考えのようだ。
司法警察局は、ジョゼフィーヌらに対する暴行事件において勇敢な行動を取ったとして、国民議会議長マレンツィオ夫人シャルロットに対し感謝状を授与。
名門貴族の夫人が、狼藉を働く貴族たちの愚を懲らしめるという構図に、世間からは快哉が上がっていた。本人の築いた人徳によるものも大きいが、特にその発言の数々に対し、貴族名族からは“訓戒として、謹んで受け入れるべき金言”との声も上がっており、子弟教育に大きな影響を与えているようだ。
当人は生来の穏やかな気性から、これらの声に対しては極めて謙遜と恐縮を繰り返しているが、夫であるマレンツィオや、養子となったガブリエリは、愛しい人の格好いいところを見せることができて大変に誇らしいと、胸を張って笑っていた。
これにてニコラ・ペルグラン一族は、終焉を迎えることとなった。いつぞやにジョゼフィーヌが吠えていた、女をいじめるやつがいる場所など更地にしてしまえという言が、自分の家にて実現するかたちになった。
立身出世の代名詞は、女を辱め、虐げる名と成り果てた。死んだものこそいないものの、誰も彼もが、死んだほうがましな境遇に落とされていた。
今やペルグランを名乗るのは、次代の英雄、ルイソン・ペルグラン、ただひとりである。それは、愛するもののために名を捨てて、信じるもののために家を滅ぼした、覇道を歩む男の名であった。
「ああ、親父。いらっしゃいませ」
“赤いインパチエンス亭”。ダンクルベールはティナを伴って、仕事帰りに寄ってみた。ペルグランがちょうど、店を閉めようとしていた。
「インパチエンスの調子が悪いのかね?」
「すみません。ちょっと貧血起こしちゃって。でも、親父とティナさんなら大丈夫。カンパニュールとコロニラも、まだいますので」
帰ろうとも思ったが、折角だし、お見舞いがてらで入ることにした。
「お舅さまにお姑さまも。ほんとうに、お
インパチエンスも妊娠中期。精神的には安定してくるだろうが、体調はころころと変わる。無理をせず、奥で休ませることにした。
店も閉めたこともあり、自分たちの肴として、そして皆の賄いとして、ふたりで厨房を借りることにした。
近くに八百屋、肉屋もあるので、足りないものがあってもすぐに買ってこれる。パン屋はそろそろ時間といったところだったので、残り物を二束三文で売ってもらった。
「まず、インパチエンス君が食べられるようなものから、はじめようか。
「
「すみません、ティナさんもお殿さまも。せっかく来ていただいたのに」
「むしろ私、楽しみ。ティナさんは勿論だけど、お殿さまの料理とか、絶対美味しそうじゃん?」
「コロニラ君は前向きというか、何でも楽しめるよねえ」
淑やかなカンパニュールに対して、気持ちのいい笑顔を絶やさないコロニラ。今まで顔を合わせることは少なかったが、なにしろ個性的で人好きのするふたりだから、打ち解けるのに時間は必要なかった。
人にめしを作るとなると、なんだか張り切るものである。昔から食うために働き、働いて手に入れたもので食いつないできた。奉公先やご近所さん、娘たちの習い事の先生などからも、色々と教わった。娘たちの友だちが家に遊びに来たときなどは、次もまた来てもらえるようにと、奮発したものだ。
勉強は不得手だが、考えるのは好きなので、それもあるのかもしれない。だから捜査官などという仕事も、長くできていたのだろうか。
「これ、セルヴァンの作ったやつかね?」
料理するなかで、ふと気付いたので、ペルグランに尋ねてみた。
「よく持ってきてくれるんですよ。おうちで
「へえ、いい腕だね。
「あの方って、結構、素朴ですよね。お話してても気取ったところが全然なくって。皆さん、絶世の美中年って仰るから、もっとしゃんとしている方だとばかり」
「自分で言ってるけど、田舎の農家だよ。そこがあいつのいいところではあるしね」
「局長閣下。コロニラのこと、お気に入りなんですよ。話しやすいって」
ペルグランに言われて、コロニラの日焼けした頬に赤みが差した。
「ここだけの話だよ?お酒入って、にこにこしているセルヴァンさま、とっても素敵なの。だからついつい、喋りすぎちゃって」
「付き合ってやっておくれ。あいつには無茶ばかりをさせているからな。酒ぐらい、楽しく飲んでほしいものさ」
「おっ、俺と貴様の惚気かい?ほんと、熱愛夫婦だよねえ。二十年来の恋女房だかなんだか知らないけどさ」
ティナがにやにやしながら肘を飛ばしてきた。もとはと言えばこれのせい、ないしはおかげで仲よくなれた奇縁である。
「さて、ポタージュを煮込んでいる間に、ここはひとつ、シュークルートの真似事をやって、おにくを美味しく頂戴することとしよう」
ティナの随分な口上に対し、三人、おおと声を揃えた。かのボドリエール夫人が築き上げた新しい常識のひとつ、手抜き料理である。
「本来はキャベツを塩漬けし、発酵させる保存食ではあるものの、手間もかかれば時間もかかるし、何より失敗した際にやり直しが効かない。そこで可能な限り手間暇を掛けずに似たようなものを作りたいのだが、大事なのは本物に対するリスペクトだ。だからまずは、とびきり美味しいシュークルートを味わうことからはじめたまえ。経験に変換した知識を応用することこそ、手抜きと横着の真髄だ。キャベツの名産地、そして加工品の名産地といえば、やはりフォンブリューヌ。瓶詰めであればこちらでも流通しているので、それを堪能してからはじめるとよろしい」
「シュークルートって、自分で作ろうと思うと、ちょっと面倒くさいですよね。仰ったとおり、塩漬けして十日とか」
「手間暇をかけるほど美味しくなるとか、料理に一番必要な調味料は愛情だとか、ご高説を申し述べる連中の言う事など、一切聞く必要はない。私の言うことだけを聞きたまえ」
ペルグランの言葉に対し、ティナが口角を吊り上げた。久しぶりに見るシェラドゥルーガの顔である。
さて、善は急げだ。その一言で、調理開始である。
キャベツは千切り。大きめの椀に入れて、塩少々をしてよく揉んで十分ほど放置。その間に湯を沸かして、芋や人参を
フライパンが煙を上げるまで熱して、油を少し。玉葱があれば薄切りにして、炒めてやるのもいいらしい。後はキャベツを酢と一緒に敷いて、その上に肉類、芋、人参など。乗せたいものを乗せるといいと言っていた。豚肉であればローズマリーとルッコラも入れていいだろうとも。
キャベツが柔らかくなるまで煮込む。その間に、余所事をする。鮭の冷燻とアボカドがあったので、それでタルタルを拵えていた。味付けは塩と胡椒。胡椒は多め。物足りない場合は、大体が塩だそうだ。全員、へえ、だの、ほお、だの呟きながらメモを取っていた。何しろ手際がいい。
ボドリエール夫人の著作は食指が伸びなかったものの、一冊だけ、“
あれがいなくなる前後で、家事は娘たちと三人で分担していたこともあり、大小様々な手抜きや横着は、我が家を存えさせるための天啓であった。
ボドリエール夫人からシェラドゥルーガになったあたりで、そのことを自分なりに褒め、感謝もしたのだが、あまりいい顔をしてもらえなかった。どうやら売れ行きが不調で、さほど思い入れもない著作だったらしい。
「あのストーブ、まだ使えているのかね?」
ふと気になって、ティナに聞いてみた。ボドリエール夫人時代から愛用している、小さなものである。第三監獄襲撃後、荷物を取りに行った時、真っ先に確認しては無事を喜んでいた。
「おかげさまで現役。ただまあ、骨董品も骨董品だから、色々とがたが来ててねえ。今、鋳物屋さんに頼んで、あれの複製を特注しているところさ。やっぱりあれがないと、私の冬は寂しいからね」
「へえ。そういう職人さん、いるんですね。冬の夫人といえば、あのストーブと毛玉みたいな格好だもの」
ペルグランの軽口に、ティナの蹴りが飛んでいた。言う通りではあるが、やはり思ったことを思ったままに言うのはよろしくない。
そうしてティナが
ダンクルベールは、
ペルグランがインパチエンスの食事の世話をしている間は、四人での歓談である。
「この
淡い紫、カンパニュールが喜んでくれた。泣きぼくろとおっとりとした雰囲気で、ともすればインパチエンスより年上に思えるが、アンリやルキエと同い年とのことだ。
「確か、リリィのピアノの先生に教わったものだな。すぐに作れる。バゲットに乗せるだけでも、見た目もよくなる。確かに、店で出してみてもいいだろうね」
「サラダも美味しくって。ほんとうにお上手ですよね。おうちでも、よく作られるんですか?」
「ひとり暮らしだから、ほとんどは外だなあ。たまに作るぐらいで、作っても、こういった簡単なものばかりだよ」
「お殿さまって、ひとり暮らし、大丈夫なの?足、痛くならない?」
「大丈夫だよ。ありがとう、コロニラ。杖は、あれば疲れにくいという程度だから、ひと通りのことはできる。それに、洗濯屋もいるし、掃除はお隣さんの使用人に、たまに来てもらっているからね」
「よかった。ちょっと心配だったんだよね」
明るい黄、元気いっぱいのコロニラが笑ってくれた。日焼けした肌が健康的な、話し好きな子である。最近、二十になったぐらいというから、この中では一番若い。
このふたりには、インパチエンスと同じ時期ぐらいに、ティナがどういう存在かを教えていた。にわかには信じがたいといったふうだったが、ティナとなり、よく顔を見せるようになってからは、一気に砕けていた。
「野菜のグリル、すげえ美味い。サラダもそうだけど、親父は野菜が得意なんですね。ティナさんは肉と、あとは海魚のイメージがありますけど」
インパチエンスの世話がひと段落したペルグランが戻ってきた。シュークルートの豚肉やソーセージは、ペルグランとティナ、そしてコロニラが競うようにして取り合っている。
タルタルは、ほぼダンクルベールひとりで食べているような状態である。ここは皆、自分の好物であることもわかって譲ってくれているのだろう。
「魚は好きだよ。特に根魚。大きさがちょうどよいから。捌くのが楽しい。捌きながら、あれを作ろう、これを作ろうと考えるのがいいよね」
「俺も海の男だから、ある程度は捌けますけど、鯛とかもやれますか?大きいのだと、どうしても骨が硬くって」
「ああ、確かに鯛の大きいのはやりたくないね。鱗は硬いわ鰭は鋭いわ、はらわたは臭いわで。その割に身が柔らかいしね。一度間違えて黒鯛を買った時は、ひどい目にあった。あれはほんとうにおすすめしないよ」
「あはは、わかります。そういえば親父って、肉をあまり食べないですよね。というよりかは、体の割にあまり食べる量が少ないというか」
「脂があまり得意でなくてなあ。腹を下しやすいのだよ。食べても、鶏とか羊。それも蒸して食べることが多いかな。体は豆で作ったようなもんさ」
「タジンってやつか。お前の血の故郷だものね。となれば、砂漠そのものというよりかは、いわゆるオアシス地帯の血かもしれないよ。砂漠の中にある泉などの水源を中心にした、定住可能な地域だ」
ティナが入ってくる。言った通り、母の方がオアシスの血であったはずだ。
「ティナさんってほんとうに博識。知らないことがないぐらいですよね」
「作家にして翻訳家だもの。特に、翻訳の方かな?その地の文化を知らないと、作家さんの意図が正しく伝わらないからね。語学より文化を勉強する感じさ。それもあって、作家業よりも楽しかったりするんだよね」
「勉強を楽しいと思えるのが、すごいなあ。私、全然駄目だもの。姉さんが勉強大好きで、叱られてばっかりだ」
「勉強とは本来、楽しいものだよ、コロニラ君。必要だと思ってやるから、つまらなくなるのさ。知識や経験という名の友だちを作ると思えばいい」
思わず、ほう、と声を上げていた。上手な表現である。
「それなら、私もできるかも。勉強して、物知りになって、料理上手になって、いいひと見つけるんだ。カンパニュールばっかりずるいんだもんね」
コロニラの言葉に、カンパニュールが指先で口元を抑えながら微笑んだ。
カンパニュールにいい人ができた。ヴィルピンの副官、モルコである。
モルコの私生活面をよくしようとしてたヴィルピンの計らいで、よく“赤いインパチエンス亭”に遊びに行っており、その度、身重のインパチエンスの世話をしている姿にときめいたらしい。猛アタックの末、モルコから男を見せるかたちをとり、めでたく恋ひとつ実ったわけである。
「でもほんとうに子ども。ウィルったら、人前では格好つけて。ふたりになると途端に頼りなくって。そこがまた、可愛いのだけれども」
「そうなんだ、あいつ。今度、いじってやろう」
「でもちょっと、ルキエには悪いことしちゃったかな?」
「いいんじゃないか?結果オーライで。私の可愛いアンリも、信仰に殉じつつも幸せになれたんだし」
「まさかもまさかだもんなあ。根回しを頼まれたときは、心底に笑ったもんだ」
アンリとルキエの結婚について、青くなったのはヴィルピンぐらいで、年嵩のおやじ連中は拍手喝采の大爆笑だった。
アンリが夫となれば、聖女としての純潔は保ったまま、伴侶と生きる喜びを得られるし、ルキエもこれ以上、自分の意気地のなさでつらい思いをしなくて済む。
囲んで一言ずつくれてやってくれというので、さあ誰が行くべきかと、やんややんやと盛り上がったものである。ヴィルピンは迫力がなく、デュシュマンとボンフィスは普通に祝ってしまいそうだとして、そしてムッシュは笑ってしまうからパスだと言い、それではオーベリソン、オダン、セルヴァン、ダンクルベールを第一陣とし、第二陣にウトマン、後詰めにアルシェの順で行こうと相成った。
最終的には、途中参加のティナが“シェラドゥルーガは、生きている”をぶちかまして終着したが、ウトマンが出番がなくて残念だとこぼしていた。あれはから怒りでもほんとうに恐ろしいので、出さないに越したことはない。
夫たるアンリに対しては、デュシュマンとボンフィスがいろいろと世話を焼いていた。ふたりでできる趣味を持つこと。休みはちゃんとふたりの時間を作ること。なにより、愚痴と小言は言わないことなど、顔を合わせるたび、実にまめやかな小言を申し伝えるのが、なんだかおかしかった。
自分もそうだが、おやじというのは、何かと先輩風を吹かせたい生き物なのである。
「そういえばセルヴァン閣下の二番目、確か、コロニラ君と同じぐらいじゃなかったっけ?」
「ジェラルド君か。確かにそうだな。父親に似て、それでいて線の細い美男子でな。どうにも奥手で、女の子と話すのが不得意だとか、セルヴァンがぼやいていたなあ。話上手なコロニラなら、確かにいいかもしれん」
コロニラの顔がぎょっとしたまま、赤くなる。
「あの、お気持ちだけ。流石にセルヴァンさまのお子さまは、ちょっと私だと不釣り合いだと思うし」
「そんなに気負うことはないよ。閣下も言ってるけれど、農家の嫁に行くと思えば気が楽だろうさ」
「まあ、コロニラはまだまだ若いのだから、時間をかけて、ゆっくり見つけなさい。義務感にかられて、相手をちゃんと見ないままに選ぶようなことだけは、絶対にしてはいけないよ」
ダンクルベールの言葉に、隣から肘が飛んできた。微笑んだままのティナだった。
「実体験なんだもの。仕方なかろう」
「私がよくない」
「あら、ティナさん。どうしたの?」
「そんなに大したことじゃないよ。俺が伴侶を選ぶのを失敗した。相手のことを知らないままに結婚したから、家庭が大変だった。こいつはそこまでのことは知らずにアプローチしてきたから、自分のせいで俺の家庭が壊れたもんだと思い込んでるのさ」
「言うな。気分が悪い」
微笑んだまま、もう一発。
「やめようよ、もう。終わった話なんだから」
「終わってない。私が悪いのだから、終わらせたくない」
「じゃあ、引きずらない。ちゃんと後片付けしなさい」
そこまで言っても、眼だけは沈んでいた。
ほんとうに、いつまで経っても面倒臭いやつである。言うべきことを言うために、ため息ひとつだけ、作った。
「俺の伴侶は、ようやくお前だ。三十年、待たせてしまった。すまなかった。そして今まで通り、愛している」
思ったことを言葉にした。それも、何度も言ったことである。
ティナの顔に、赤みがさした。美貌も、何かもどかしそうにふやけている。
「人前で言うなよ、それ。ほんとう、ひどい男だ」
言葉の割に、どこか、嬉しそうだった。
娘ふたりに、ティナがボドリエール夫人であるということが、ばれてしまった。
あれが姿を消して以来、娘たちの中で、ボドリエール夫人を継母に迎えるという野望があった。ふたりとも大人になっても、それは燻っていたのだろう。町中で鉢合わせた途端、もしやと思ったらしく、鬼の形相で詰め寄られた。キトリーなどはあのとおり、恬淡としたところが強いので、とっくに諦めたと思っていたのだが、いざ実物を目にしたら、思いが蘇ったとのことだ。
ダンクルベールもティナも、神妙に白状の上、事実婚として結ばれることになった。娘たちの宿願のためならば、致し方なしというべきか。
あるいはガンズビュール事件そのものが、自分たちにとって、お互いの愛を確かめる道程のひとつだったこともあり、以降もふたりきりであれば、言葉なり行為なりで、伝え合ってきてはいた。それがティナという、ある程度の自由の身になった今、頻度が増え、かたちになっただけ。そう思うことにしていた。
「親父がティナさんに対して、ちゃんと言葉に出しているの、はじめて聞いたかもしれませんね。なんだか嬉しいや」
頬を赤らめながら、ペルグランが酌をしてくれた。そういえばペルグランにはこのあたり、ちゃんと話していなかったのだと、今更ながらに思った。
「ちゃんと愛しているよ。おたがい、しがらみがあったから、表面に出しづらかっただけであって」
「まあ、主に私の方だけどな。ご内儀を奪い、お前につらい思いをさせ、リリィとキティを母親のいない子どもにしてしまった。でもさあ、私の後片付けが終わってないとはいえ、ふたりともお母さんになったのに、アプローチもしてくれないってのはどうなんだよ?」
「ああ、そういう。わかる、わかる。お殿さま、女っていうのは、男が思っている以上に面倒臭いんですからね?ちゃんとそういうところ、ある程度区切りが付いたら、やり直せるかもってなるんですから」
「そう言われてもさあ、カンパニュール。こいつを第三監獄にぶち込んだ際、ちゃんと伝えること伝えて、お互い言葉に出して、ベーゼも交わしたんだぞ?それ以上は望まないと思うじゃないか」
「望むだろうがよお。ちゃんと奪いに来てくれたまえよ。そのうちに、あのジョゼの子どもが来てくれたんだもの。少しぐらい、はしゃいだっていいだろうさ」
「よくないよ、お前。俺の視点で考えてもみろ。こいつは今やルイソン・ペルグランだが、あの当時はまだ、かのニコラ・ペルグランのお血筋だぞ?どう接していいものか、探り探りだったんだ。そこにきて、お前がちょっかい出してくるんだからさあ。バラチエ司祭のときなんてほんとう、気が気じゃなかったよ」
「へええ。お殿さまも、案外、小心者なんだねえ」
「そうだよ、コロニラ。聞いてくれよ。ルイソンは最初、文句たらたらのぶうたれ小僧だったんだ。誰にも心を開かないで、あのアンリエットにまで突っかかってさあ」
「あら、兄さん。そうだったの?最初からお殿さまもアンリさんも大好きだったとばっかり」
「あの時はほんとうに、申し訳ありませんでした。まだニコラ・ペルグランでしたから。現場と親父とティナさんに打ちのめされて、ようやく入口に立てたってもんです」
ペルグランが恥ずかしそうに、頭を掻いた。それがなんだか、懐かしくもあり、いつも通りでもあって、微笑ましかった。
「よかった。楽しそうでごぜあんして」
そのあたりで、インパチエンスも顔を出してくれた。腹にものを入れて、いくらか調子が戻ったようだ。
「夫婦喧嘩。ティナさん、お殿さまの前の奥さまに、負い目があったんですって」
「あらまあ。お姑さまも、随分に
「五月蝿い嫁だなあ。私だって気にするよ。こいつの家庭をぶっ壊した遠因なんだもの」
「気にするなって何度も言ったろう。俺とあれは、最初っから駄目だったんだから。もう一緒になったんだから、忘れようよ」
「三十年だって。すごいよねえ、人生の半分じゃん」
「長かったなあ。俺の中ではずっと、容疑者だったからさ。突然、世の中に現れた異才だよ。事あるごとに疑っていた。まさか、その相手から惚れられるとは思わなかったもの」
ダンクルベールの言葉に、ティナが真っ赤になった。それがおかしかったのか、皆が笑った。何回も肘が飛んできたので、笑って受け止めるだけにした。
あれのことも、あの頃の話も、ようやくこうやって笑い話にできる。時間が、そうさせてくれた。
「一目惚れでしょ?それも、何百年も生きていて、はじめての」
「うん。それも、妻子持ちだ。どうしたものか四苦八苦したんだぞ?ご内儀や娘たちに迷惑を掛けないようにと思って、結果、大失敗だ。こいつもご内儀も、傷付けてしまった」
「あれがお前のファンだったってのも、今思えば、よくなかったよなあ。不倫だと思われてたのかもしれん。家族付き合いしていれば、うまく行ったのかもな」
「捜査官と凶悪殺人犯の恋愛反省会だなんて、滅多に聞けないや」
コロニラがおかしそうに笑っていた。
今度ふたりで、あれの墓にでも詣でようか。それで許してくれるかは、わからないが。
「ほんとう、色んな人に迷惑を掛けてばかりの恋路だった。セルヴァン閣下は飲んだくれて。シャルロットさままで泣かせちゃってさあ」
「いやあ、セルヴァンは凄かった。大失恋だもの。会う度、酒臭いのなんの。それで、何をとち狂ったか、貴様と呼べとか言ってきやがってさ」
「へえ。それで、私と貴様と俺、貴様になったんですね。親父とセルヴァン閣下」
「友だちが少なかったんだと。確かに、フォンブリューヌからこっちに来る人って、少ないからな。あれからだな。人となりが茫洋になったのは」
「ティナさん、ちゃんと仲直りしたの?」
「したよ。ちゃんとおたがい、愛してるって。ベーゼもしたし。今でも会うたびしてるもんね」
「ちょっと、それ。お舅さま、えがんすか?」
「構わんよ。こいつは、人を愛するのが生き甲斐みたいなもんだし」
「わお。理解のある旦那さまだ」
コロニラがびっくりした声を上げていた。
“ロ・ロ”の件以来、ちゃんと仲直りをしたティナとセルヴァンであるが、ティナが“ボドリエール夫人”をやめてから、より親密になっている。セルヴァンも大願成就の様子で、ことあるごとに夫である自分の前で惚気けてくるようになった。
いろいろ大変な思いをしたのだから、幸せになってよかったという思いのほうが強かった。
「シャルロットさまさ。ほんとうにいいひとだから。きっと今まで出会った中で、一番に心が優しいひと。私、甘えて、押し付けてばかりきてしまった。こないだシャルロットさまに、ようやく詫びてきたよ。あのデブ含めて、三人でわんわん泣いたなあ」
「ちゃんと謝ったか?」
「うん。でもね、やっぱり、シャルロットさまだった。つらかったよねって。何にも心配いらないからって。何より、生きててよかったって、言ってくれた。今までのこと、全部、忘れようって。今、新しい出会いがあって、嬉しいって」
そこまで言って、ティナの声が震えはじめた。顔もいくらか、難しくなっている。
「なんであのひと、あんなに優しいんだろう」
それで、溢れてしまった。
ダンクルベールは、その肩を抱きとめることぐらいしかできなかった。
シャルロット。ほんとうに、慈母のようなひとである。
助けてもらった。甘えさせてもらった。子どもたちも、未だ母と思って接しているし、シャルロットも、自分の子どものように愛してくれている。
その優しさはどこから生まれるのか。確かに、そう思うことは少なくなかった。
「
ふと、インパチエンスが。
ちょっとした驚きだった。訛り方が、
顔を見やると、悪戯っぽく微笑んでいた。
「南東の、港の文化でごぜあんす。何があっても、なんもとまんずで済ませる文化。腹の内がどうであれ、まずは言葉から許して見せていく。
「インパチエンス君。
「かっこつけ。あたくしもそうだけど、ルイちゃんとか、お舅さまみたいなひと」
そう言って、インパチエンスは笑った。
確かに、格好を付けて生きてきた。貧しい生まれだったから、それを恨まないよう、人に
かたちから入って、自分を作ってきた。今思えば、それ自体が不格好な行いなのだと、ちょっと恥ずかしくなる。
「んだすけ、シャルロットさまも、ほんとうは
その言葉に、得心がいった。自分もそうだったから。あるいは誰しもが。
偽ったものが、作り上げたものが、そのうちに自分そのものに染み込んでくる。服が洗濯を重ねるうちに体に馴染むように、そういうものも、自分に馴染んでくる。
「なんもなんも、か。うちの娘たちも、小さい頃はよく使っていたよ。最初のうちは、何を言っているんだか、よくわからなかったがね」
「俺の母上は、最近、よく使いますよ。なんだか、便利みたいで」
「姉さんもよく使うのよね。ほんとうに、色んな意味。どういたしましてとか、気にしないでとかもそうだし、ごめんなさいとか、そういうのでも使うのかと思っていたのだけど」
「なんか、姉さんとシャルロットさまって、ニュアンスで会話してる感じだよね。ことばそのものじゃなくって。もっと手前とか、奥の方で会話している感じ」
「私の前では、使ってくれなかった」
ティナが寂しそうにぶうたれる。
「
言われて、思い返してみる。確かに、ちょっとイントネーションは異なっていた気がした。
そのあたりで、インパチエンスは微笑みながら、大きなため息を付いた。
「
「いやいや、見事なものだ。それこそひとつ、格好を付けてくれたもの」
「ひとくちに南東訛りといっても、海沿いか内陸か、北か南かでも違いあんすからね。あたくしのは特に、教え込まれたものであんすから、本来の南東訛りとは、またちょっと違いあんすのよ」
「気になってた。インパチエンスは、言うって言わないで、
「ほんでがすね。あと、もう少し西さ行くと、
「
ダンクルベールの、思わずで言い出した言葉に、皆が吹き出した。その様子が面白くて、自分でも笑ってしまった。
「ちょっとした早口言葉さ。知り合いにひとり、いたんだよ。面白がって皆で覚えたもんだが、もう
「懐かしい。お舅さまも、お上手であんすねえ」
皆と一緒に、インパチエンスも笑ってくれた。
人のことを悪く言えば、他の人からは“あいつは悪口を言うやつだ”と陰口を叩かれるし、そうでもなければ“あいつは腹の中では何を考えているかわからない”と陰口を叩かれる。確か、そんな意味の言葉だったと記憶している。ほんとうは、もっと長く、そして難しいものだったはずだ。
「あたくしも、“あんつこど”のお話とか、
「なにそれ。気になる。言ってみてよ、姉さん」
コロニラの言葉に、インパチエンスは額を抑えはじめた。どうやら相当、難しいらしい。
ふと漏らした、ええっとねえ、という一言。言い方は、ほんとうに普通のものだった。
きっとインパチエンスの本来のことばは、自分たちとほとんど同じの、普通のことばなのかもしれない。
よし、と一声。額を抑え、瞼を閉じながら、インパチエンスが口を開いた。
「
涼やかな声色で綴られた強烈な訛りに、全員が爆ぜた。
「インパチエンス君。おなか、おなかいたい」
「面白がっていただきあんして。久しぶりであんすので、ちょっと緊張しあんしたわ」
「俺のインパチエンス。ちなみに、それ、どういう意味なんだい?」
「お臍の周りがたまに痒くなるのだけれど、これ、もしかして悪い病気じゃないかしら?心配なのよね、とお婆さんが言うんです。いいえ、そんなに心配することでもないですよ?私も以前、同じようなことがありましたけれど、見たところ、お臍に
「姉さん、やめて。なんでそこだけ、普通に言えるの。私、おかしくってさあ」
つぼに入ったのか、一番の大笑いはカンパニュールだった。
そうやって笑いあっているとき、不意の訪いがあった。身なりのいい男である。
「ビュイソン共同新聞のエルランジェと申します。突然の訪問、大変、失礼をいたします」
朱夏半ばを越えたあたりだろうか。落ち着いた雰囲気の、
「ルイソン・ペルグランさまと、インパチエンス=ルージュさま。おふたかたに、たってのお願いがあって参りました」
「はい。何でしょう?」
「お母さまを、僕に下さい」
その言葉に、全員、緊張が走った。
最初に動いたのは、カンパニュール。卓上にあるものをすべて片付けはじめた。コロニラがそれに続く。ペルグランは
エルランジェの正面にペルグラン夫婦。その隣に店員ふたりと、ダンクルベールとティナが並んだ。
「面接をはじめます」
「よろしくお願いいたします」
ペルグランの一言に、エルランジェが素晴らしい所作での礼ひとつ、席についた。
ダンクルベールとしても、青天の
見極めねばならない。この男、我が息子の母の夫に相応しいかどうか。
「まずはあらためて、年齢や結婚歴、家族構成を踏まえてでの自己紹介をお願いいたします」
ペルグランが切り込んだ。信義のため、母のためにと家を焼いた男である。一番、気が気でないだろう。
「ビュイソン共同新聞、取締役社長。ジョナタン・エルランジェ。春が来ると五十二になります。弊社では主に経理、経営を担当。妻は八年ほど前に病気で他界。それとの間に二児を設けておりました。長男は現在、弊社企画部の係長。長女は児童保育施設の保育士をしております」
インパチエンスとペルグランが顔を合わせる。好印象のようだ。
確かジョゼフィーヌはセルヴァンよりいくらか下といった程度であり、特別、歳が離れているわけでもない。数字と経営に強いのもそうだが、お子さまが保育士をされているのは、妊娠中のインパチエンスとしては安心材料だろう。
ダンクルベールとしては、ご子息さまを、あえて高い地位に付けていない点にいい印象を覚えた。おそらくはちゃんと下積みをさせて、順々に育てていく方針だろう。
「御社の会長であるビュイソンさまとのご関係について、差し支えなければお教えいただきたく思います」
続いたのはティナ。生前はビュイソン共同新聞社で連載も持っていたはずである。
「腹違いの兄弟にあたります。私は庶子でした。もともと製紙工場の経営をしておりましたが、十年ほど前に兄に請われ、弊社の経営に携わることとなりました。兄は企画の面で才能はありますが、経営、経理にはさほど強くなかったため、その点で私を必要としてくれたというところでしょうか」
全員、顔を合わせて頷いた。
ビュイソン氏は名家であるものの、庶子ということであれば馴染みやすい。また、過去に一国一城の主を経験しているのは、人間として強みがある。
「夫であるルイソン・ペルグランは、自らアズナヴール伯ペルグラン家の相続権を放棄、絶縁しておりあんす。母も正式に離婚が受理。現状、我が家の財産と呼べるものは、あたくしども夫婦の貯蓄と、この店舗、兼、住宅のみという状態でごぜあんすが、この点、認識はよろしゅうござんすか?」
インパチエンス。女郎酒場を経て、本店の経営に携わっており、金回りに関しては堅実かつ慎重である。現状、ルイソン・ペルグランの名は広まれど、所詮は憲兵中尉と兼業主婦の収入である。
財産と名声に釣られてきたのか、というところだろう。不安はもっともだ。
「認識に相違ありません。僕も個人としての財産については、持ち家と貯蓄以外にはありません。それ以上は今後、相互の信頼を築いていければと思っております」
ダンクルベールは、エルランジェの目を見て頷いていた。正直で大変いい。信頼は今後、築いていくべきというのも、こちらが不信感を抱いているであろうことを予測、察知しているのが伺える。
「本日、母を伴わず、おひとりでのご来訪ですが、どのような意図でしょうか?」
カンパニュール。彼女たちふたりも、ジョゼフィーヌを母と定めた女である。父となる男を、見定めたいはずだ。
「お母さまには婚約について、ご了承をいただきました。さすれば、お母さまとご一緒でのご挨拶も考えましたが、何分、あのおかたの性分もあり、皆さまがたの心からのお許しを得るためには、まずは僕個人との信頼を築きたく思い、馳せ参じた次第にございます。」
三姉妹、顔を合わせて頷く。
ジョゼフィーヌは気丈なところが強い。自分の意見を押し通す力もまた、強いだろう。一緒の席では、一方的に押し切るかもしれない。そういうところも見れているということだ。
この男は、本心から、自分たちと向き合いに来ている。
「母には家名がございません。インパチエンス=ルージュはもと遊女。同じく、もと遊女である私どももまた、ジョゼフィーヌさまを母と定めたものにございます。兄であるルイソン・ペルグランは、先ごろまで生家であるニコラ・ペルグラン家と各種係争を抱えていた身です。正直に申し上げて、素性は卑しく、また問題を経てきたものたちです。それでも家族として迎え入れて下さるということでよろしいでしょうか?」
コロニラ。普段は砕けた口調だが、流石はインパチエンスが育てた女。礼節と教養に一切の問題はない。
「勿論、というより、願ってもいないことにございます。お三方のように麗しく、また個性豊かであり、なによりも母親思いのご息女さまがたにくわえ、かの若き英傑、次代の男の代名詞たるルイソン・ペルグランと、
ダンクルベールとペルグラン、そしてティナの三人、目を合わせる。及第点以上の回答。
家族のために戦える父親こそ、この家庭に必要なものである。ルイソン・ペルグランひとりでは守りきれないものも、未だ多いだろう。そこをエルランジェが補うなり、代わりに立ちはだかることができれば、ペルグランもいくらか楽ができるだろう。
「大前提として、ジョゼフィーヌさまのどこに惹かれたのかをお伺いしたい。コラムニストとして御社への出入りはあっただろうが、それはあくまで、あのかたのいち側面でしかない。お付き合いの期間も勿論だし、愛する人を多角的に見れているだろうか?」
ダンクルベールも続いた。伴侶選びで失敗している身の上なので、是非とも慎重に、ことを運んでもらいたかった。
「気丈さで隠した弱さ、儚さに惹かれました。ルイソン・ペルグランを育てるため、ひとり、戦い続けていた。これから心身に、その反動が来ることでしょう。その支えになりたい。皆さまがたもおられますが、僕もその一助に加わることを望んでいます」
全員、顔を合わせる。頷いていた。
今、必要なのは、癒やしだ。それをこの男が担う。子どもはどうしても、子どもだ。親として見てしまう。だからこそ、パートナーがいるべきだ。
困っていた。迷っていた。一切の隙も、不安もない。このエルランジェたる紳士に、委ねるべきだろう。
だがあとひとつ、何かしらの決定打が欲しい。
「アディル」
ティナが、耳打ちしてきた。逡巡はあったが、頷いた。
結っていた髪を、解く。それは見る間に燃え広がり、鮮やかな
「それこそは、かつてパトリシア・ドゥ・ボドリエール」
閉じていた瞼の奥底、宝石のような
「そしてそれこそは、
顕現。火の粉を上げ、人ならざる、恐るべき人でなしとして。
「シェラドゥルーガは、生きている。ですね?」
エルランジェに動揺は一切、見られなかった。
「あの方から、貴女を心からお慕いしていたと、幾度となくお伺いしておりました。また僕も、ボドリエール著作保護基金の一員です。こちらにいらっしゃる皆さま方の承諾をいただき次第、墓に詣でに参る所存でありましたが、ご存命とあれば好都合。直接、ご承諾を賜りたく思います」
その威圧を受けてなお、姿勢は正しく、また声と表情は凛々しかった。ここで死んでもいいという、覚悟のようなものすら。
「剛毅。その意気やよし。我が愛しき妹、家名なきジョゼフィーヌの一生涯を愛せると。そして、幸せにできると、お誓いいただけますか?」
「神たる父、
まっすぐと、その
「ルイソン・ペルグラン。インパチエンス=ルージュ・ペルグラン。そして、カンパニュール、コロニラ。よろしいかね?」
「一切の不足なし。どうか母を、よろしくお頼み申し上げます」
ペルグラン。安堵と自信の表情。
「未熟な子どもたちではごぜあんすが、何卒、よろしくお願いいたしあんす。どうか母を、お守り下さいあんせ」
インパチエンス。ハンカチーフで目元を抑えながら、一礼した。
「母と定めた人の夫ならば、勝手ながら、父と定めさせていただきたくと思います。お父さん。どうか、お母さんを支えてあげて下さい」
カンパニュール。既に溢れていた。
「私、家族なんてはじめて。こんなに素敵で、こんなにうれしいことなんだね。よろしくね、お父さん」
コロニラ。感極まってはいるが、やはり明るく。
「それではあらためて、ジョナタン・エルランジェさま」
そして、シェラドゥルーガ。そして、ファーティナ・リュリ。
「どうか、ジョゼを。我が愛しきジョゼフィーヌを、お願いいたします」
差し出した両手。
「天地神明に誓い、承りましてございます」
夫たるエルランジェは、それを握り返した。
それからは、大盛りあがりだった。
コロニラたちが、ジョゼフィーヌと、その友だちであるマリーアンジュを引っ張ってきた。ティナが大急ぎで、料理を数品
ジョゼフィーヌとティナ。屍を乗り越え、新しい出会いとして、ふたり、はじめましてを喜んでいた。ふたりとも、声を上げて泣きながら。
ジョゼフィーヌ・エルランジェ。ちょっと足りないな、ということになり、名前を付け足そうとなった。
母の花、カーネーション。愛ある女性、温かな愛情。となれば、
ジョゼフィーヌ・ウィエ=ローズ・エルランジェ。黒髪のジョゼフィーヌ、改め、花たちの母たるジョゼフィーヌ。
その可憐な人は、花たちとともに、その名を喜んでくれた。
「ほんとうに色々と、ひと段落だな」
冬を超え、春になった。ティナに、髭を整えてもらっていた。
「これからも、新しい日々を。新しい季節のためにも、衣替えからはじめること。もうお前もお爺ちゃんなんだから、身綺麗にしないとね」
「そうだな。小洒落た老紳士でも気取ろうかね」
これからはもう、名前だけの仕事。現場には出ない。だから油合羽も、ほとんどいらなくなる。もう、自分を大きく、強く見せる必要もない。組織の長で大佐ともなれば、ある程度、自由な格好でも、とやかくは言われないだろう。
姿見の前に立つ。髭は口と顎以外はすべて落とした。明るい灰色の、グレンチェックのスリーピース。靴も、濃茶の短靴にしてみた。タイは、キトリーから誕生日祝いに貰った、
杖だけは同じ。アキャールの形見。身長差から、いくらかだけ伸ばしてもらっていた。ふたりとも、同じ工房で作ってもらっていたので、そのあたりは簡単にできた。
「やはりちょっと、物足りんかな?」
「着る?似合うと思って、買っておいたんだ」
ティナが持ってきたのは、薄手の“
羽織ってみる。さらっとして、着心地がいい。中のスリーピースが引き締まって、いい感じだ。
「うん。やはり、これがあってこそだな」
「いいじゃん。似合ってる。私ってば、気が利くだろ?」
「そうだな。ありがとう、愛してる」
「若い頃みたいだね。かっこいい、愛してる」
お互い、頬にベーゼを交わした。
庁舎まで、並んで歩く。いくらか冷たいが、それでも春風が心地よかった。急ぐ必要はない。ヴィルピンが、皆の仕事を作ってくれている。
執務室に向かう途中、ビアトリクスに会った。
「長官。どうしたんですか?その格好」
美貌に赤みが差していた。どうやら好印象の様子だ。
「ああ」
フェルト帽を取りながら。
「イメチェン、ってやつだよ」
それだけ、笑って答えてみせた。
(8.夢の終わり、夢のはじまり:おわり)
―――――
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