5−5

 眼の前にいる青年は、どこかぼうっとして、頼りなげだった。

 それでも時たまそわそわして、アントネジア、アントネジアと呟いている。そうして自分の両手を見て、やはりぼうっとしたまま涙を流す。

 ラポワントはその様子を、見ていられなかった。

 サルバドール一味、絞首ののち、その亡骸をユィズランドに送還。そういうことになった。

 この青年以外の絞首は、先に済ませた。全員、神妙にそれを受け入れ、絞首台にぶら下がっていた。


「言伝を、頂戴いたす」

 青年を連れ出す際、それを聞いた。彼は呆けたようにして、ラポワントの目をずっと見ていた。

 しばらくして、子どものように笑った。


おおア・レ


 ほんとうに、嬉しそうに。


おおア・レおおア・レ。見放さないでおくれ。戯れなればと、その手を離さずにいておくれ。おおア・レおおア・レ。忘れないでおくれ。朝の訪れとともに、その音を絶やさないでおくれ」

「錯乱しています。ムッシュ、お早く」

「きっとまだ月は高く。君といるべき時もまた、長く。おおア・レおおア・レ


 歓喜の表情。そして、魂の咆哮。

 それでもどこか、寂しかった。


「相分かった」

 それだけ言って、ラポワントは踵を返した。


「きっとまだ月は高く。君といるべき時もまた、長く」

 絞首台にぶら下がった青年の姿を眺めながら、どうしてか、ラポワントはそればかりを呟いていた。


「あなたは見たんでしょう?あのひとたちの楽団」

 何日かして、庭先でギターを奏でていたところ、ルシアが隣に腰掛けてそう言った。

「ああ。東市場の前でね。ポルフィリオ・イ・アントネジア。ほんとうに素晴らしかったよ」

 そうやって、弦をはじいた。

 ルンバ・フラメンカ。あるいはジプシー・ルンバ。ユィズランドの伝統舞踊、フラメンコの変形。

 ギターの師匠がそのあたりの産まれで、それも教わっていた。フラメンコより激しく、熱情的な鼓動。寄るなき移動民族ジプシーたちの、魂の慟哭。そして歓喜の歌。

 どうしてあの青年は、月を想い人に見立てたのだろう。


 ひとり、訪いがあった。しっかりとした面立ちの、小柄な軍警だった。

「おお。これはこれは、ビゴー曹長殿」

「ご無沙汰しております。ムッシュ・ラポワントさま」

 目を細めながら、ビゴーは頭を下げた。

「あたしもね。どうしてあのこたち、ああなっちゃったか、わかんなくってね」

 居室に招き入れ、紅茶を振る舞った。ビゴーはその温かさをありがたそうにしながら、そうこぼした。

「あのこたちの歌。ありゃあほんとうにすごかった。素晴らしかった。それだけでも食っていけたし、やっていけた。それでも屈折したものがあったり、わだかまったものがあった」

「表現者とは、そういうものも音として表現するでしょうな」

「“新月にはまだ早い”でしたっけ。あのこたちが作ったんですって」

「月を想い人に見立て、ずっと満月でいてほしいと、ずっと夜でいてほしいと願っていた。それがポルフィリオ君の願いだった」

「ああ、それがね」

 ビゴー。難しい表情だった。

「詩を書くのはいつだって、アントネジアさんなんですって」

 ぶるりと、震えていた。

「きっとアントネジアさんもまた、ポルフィリオさんに想いを抱いていたんでしょうね。でも、やり方を間違えちまった。だからポルフィリオさんもねじけちまった」

 ねじけた心。ねじけた愛。そうやって、どうしようもなくなって、ポルフィリオもアントネジアも破滅に向かってしまった。

人狼ルー・ガルーとは、月の光により、人からけものへと変容する。想いが、そして愛が、ポルフィリオ君をけものへと変容させてしまったのかもしれませんな」

「ただふたり、愛し合うことができるのであれば、なんにも起きなかったんでしょうかね」

「きっとそうだと思いたいですな」

 ラポワントはただ、瞑目するよりなかった。


 あの時の、ポルフィリオの顔。

 おおア・レ

 月が、想いが、すべてを狂わせたとしても、残ったのは歓喜だったのか。


 明くる日。ルシアと子どもとともに、市街を散策していた。

 ムッシュの名。それは畏敬と嫌悪とともにあった。街往く人々はその顔を認めるなり、神妙な面持ちで礼をする。それはもはや、ラポワントにとって当たり前のことになっていた。

 ルシアや子ども以外に、あれほどの笑顔を向けられることなど、いまだかつてなかっただろう。


「あなた、あれ」

 ルシアが指差した先だった。

 人だかり。旋律と鼓動。そして、吠え声。

 確かに、ルンバ・フラメンカのそれだった。


「これは、どうしたことかね?」

「おお。これなるはムッシュ・ラポワントさま。我ら、レオポルド・イ・アレクサンドラ。初公演にございます」

 髭面の男の答えに、思わず吹き出してしまっていた。

「確かにレオポルドもアレクサンドラも、こちらでもユィズランドでも使う名だがね。もそっとひねれないものかよ」

「ありゃまあ、初日で駄目出しを貰っちまうとは。なんとまあ、縁起の悪い」

「でもいいじゃないか。ルンバ・フラメンカ。気分が高まる。どっかの誰かに触発されたかい?」

「そりゃあもう。ポルフィリオ・イ・アントネジアさ。まさか人狼ルー・ガルーだとは思わなんだが、それをひっくるめて物語じゃないか」

 言われて、ルシアと顔を見合わせて、吹き出すようにして笑った。


 そうしてはじまった。曲はやはり、“新月にはまだ早い”だった。つたなさは残るが、それでもやはり心躍るものがある。

 旋律、咆哮、そして汗が飛び交う。女のスカートが咲き乱れる。ギターをときに叩きつけるようにして。そうして、おおア・レおおア・レと。

 ルシアはとびきりに笑顔だった。子どもも大はしゃぎだった。踊りの輪に飛び込んで、あるいは手を打ち鳴らして。ラポワントもまた、それに加わっていた。


 月の音は残り、広がっていく。忘れ去られることなく、手をつなぎ、朝を迎えてもなお、心を揺り動かし続ける。

 きっとまだ月は高く。君といるべき時もまた、長く。


(5.月に吠える:おわり)


―――――

Reference & Keyword

・Bark At The Moon / Ozzy Osbourne

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