2−3
警察隊本部で制式採用されている
制服として支給されるのは三点あり、
着任より一年半余、ペルグランとガブリエリでも、嗜好の違いが出はじめていた。
中肉中背というにはいくらか筋肉質であり、馬車に乗ることも多く、また多趣味で活動的なペルグランは
「へえ。いいじゃないか、それ」
満面の笑みで、それを見せびらかしてきたペルグランに、ガブリエリも感心の声を上げた。
「この前、見かけたのさ。
「いいなあ、貴様。どこで買ったか、教えてくれよ」
ヘリンボーン模様のライナーベスト。
支給品のものとは異なり、いくらか薄いが、触った感じから中綿を使っているのはわかったので、冬場でも使えそうだ。
支給品のは温かくていいのだが、いくらか着膨れし、野暮ったくなる。また
その点、ペルグランが買ったものは、それの内側と同じ位置に内ポケットも備え付けられているので、機能性が損なわれない。これ単体でジレとして用いるのも面白そうだった。
家柄ばかりがいい家に産まれ、いずれは官僚や議員にと、親から育てられてきたものの、身近な働く人といえば、家の使用人だったり、衛兵だったりしたので、いまいちぴんと来なかった。
むしろ、身近なところで働いている人たちの方が魅力的に感じた。
炊事、洗濯、掃除などをてきぱきこなす使用人たち。馬車に使う馬を管理したり、見事な手綱さばきでそれを御する御者。庭園を管理し、色とりどりの花や草木を巧みに組み合わせる庭師。昼夜を問わず、整然とした所作で佇む衛兵たち。
目の周りにある働く人は、熱心で活気があり、素敵だった。
だから自然と、そういう人たちと交わるようになった。
子どもだし、主人の嫡男とあって、最初はひどく遠慮されたものの、自分の考えを口に出したら、理解を貰えた。
そうやって、身近な人々のお手伝いをすることは、ほんとうに楽しかった。
家の周りだけで、こんなに沢山のやるべきことがあって、それに携わるべき人がいる。人々の暮らしというのは、これだけ大変で、そしてこれだけ沢山の楽しいことがある。そしてそれらが、周りの人々の生活に欠かせないものであり、あるいは幸せにつながる、ありがたいものであるということを発見できた。
いつだったかは覚えていないが、雨の日だった。
外を眺めていたら、傘を差さない人がいた。深い緑の服を着た人。遠目に見ても、濡れている様子がない。
最初、お化けが出たと思って、使用人のひとりに慌てて声を掛けた。緑色の、雨に濡れないお化け。雨粒が、その肌から弾かれていく。
あれは
それが、そういう衣服だということを知って、びっくりした。大発見だった。雨の中、外に出ても、濡れることがない。どうしてそうなるのか、家庭教師に聞いたりして、油と水が交わらない仕組みを用いているとか、元々は港町の漁師たちが使っている作業着だとかを聞いて、わくわくした。
ここの外には、もっと、色んなことをしている人がいる。
そのうち、ひとりのおじさんに会った。家の前を通りかかった、
あたしゃあね。警察さんなんだ。悪いやつとかを捕まえるんだよ。勿論、悪いやつが、なんで悪いことをするのかを、わかってあげてからね。
柔らかい口調の、小柄で、がっしりとしたおじさん。
かっこよかった。わかってあげる。そういう仕事。それは今まで、家の中で、使用人だとか、そういう人たちと交わることと似ているのかもしれない。いっぱいの人々と会って、その人たちが何をしているのか、何のためにそれをするのか。それが、仕事になる。
あのおじさんみたいになりたい。それだけ、真ん中に置いた。
親や親類には、理解を得られなかった。
ひとり、親戚のおじさんで、警察隊をやっていた人がいた。話を聞いてもらった。どうすればそうなれるのかを教えてもらった。
やりたいと思ったことをやりたいのが普通だもんな、レオナルド。俺もかの名提督、ニコラ・ペルグランさまに憧れて、海軍に入りたいって駄々をこねたもんさ。船酔いがひどくって警察隊になっちまったけどなあ。でもまあ、やるこたあ、どこでも一緒だよ。俺は、男一本、腕一本。自分の力でどこまでやれるか。レオナルドは色んな人と出会って、色んなところに行きたい。お互い、面白そうと思ったことを追っかけて、面白く生きていこうぜ。そうじゃなきゃ、人生、面白くないもんな。
マレンツィオおじさんは、何をするにしても協力してくれた。親や親族も説得してくれた。
そして、あの日のおじさんのことについても、聞いてみた。
エクトル・ビゴー。そんな名前だった。
長く、聞き込み調査ばかりをやっている変わり者。でも、そのひとがいないと何もはじまらない。ひとりで歩いて、はぐれていて、それでも誰からも必要とされているひと。おやじさんと呼ばれているひと。
あの日が美しくなった。より一層、いや、絶対に警察隊に入る。おやじさんみたいに、おやじさんのように、そして、おやじさんのような仕事をしたい。
そうして必死になって勉強して、士官学校に入って、警察隊本部配属を志願した。
マレンツィオおじさん憧れの、ニコラ・ペルグランのお血筋が同期にいた。
あんまり熱心に勉強はしないが、体を動かすのは大の得意。実技科目は、ほぼ最高評価。なら、自分はそれ以外であいつを打ち負かそう。座学科目は、ほぼ最高評価。ちょっとの差で三番手になったが、警察隊本部に配属が決まって嬉しかった。向こうは政変の煽りを食らって、行きたいところに行けなくて、同じく警察隊本部配属。不満ばっかり垂れていた。まあ、向こうは向こうの事情があるし。それよりも、自分の夢が叶ったことが嬉しかった。
そうして今、夢を見ながら、一歩ずつ、一歩ずつ。夢を叶えていた。夢をちゃんと現実にしていくことを、踏みしめていた。憧れの人の隣で、一歩ずつ、一歩ずつ。
「ガブリエリ少尉。ちょっといい?」
その日、声を掛けてきたのは、ビアトリクス大尉。捜査二課課長。女盛りも最盛期といった、黒髪の美人軍警だった。
個室に案内された。内密な話だそうだ。
「
何を言われたのか、わからなかった。
「あんたになら、理解をもらえると思ってね」
「ちょっと、頭が追っついていないです」
「わかった。深呼吸、三回」
言われたとおりにした。それでも、衝撃が強すぎた。
憧れた
「理由は、何とはなしにわかります。最近、
自分の口から出ている言葉が、理解できなかった。
「ガブリエリさ。あんたもそうだし、私だってそう。これが象徴であり、存在意義だと思ってる。生き様って言い方でもいい」
ビアトリクスも、険しい表情だった。
いわゆる、ダンクルベール世代。稀代の名捜査官、オーブリー・ダンクルベールに憧れを抱いて入隊したうちの、最後の生き残りと言ってもいいだろう。やり方は異なるが、その薫陶と気質を授かったダンクルベールの
警察隊本部の象徴。それがなくなる。それを、受け入れられない。このひとだって、そうなのだ。
「私にとっては、すべてです。幼い日に出会ったビゴー准尉殿が、この仕事の存在を教えてくれた。これを着るためだけに、ここまで来ました」
「もう一回。深呼吸、三回」
ビアトリクスの声。おそらく自分は今、冷静ではないのだろう。
五回。深呼吸をした。
「ラクロワですよね?」
出した言葉に、ビアトリクスが難しい顔で頷いた。
後方支援を担当しているラクロワ少尉。同期の女の子。
この間、
「説得ではなく、まず、話を聞いてみます」
「やっぱり、ガブリエリに相談してよかった」
ビアトリクスが、美しい顔をはにかませた。
「私だとどうしても、感情が先に出ちゃうからね。ガブリエリはさ。おやじさんの弟子だから、そういうことができるはずって思った。だから、お願い。私が言うのもおこがましいけど、一歩ずつ、一歩ずつ、やってみてくれない?」
「かしこまりました。ましてラクロワですから。半歩ずつぐらいでないと、こわがらせてしまいます」
真面目に答えたつもりだが、ビアトリクスが腹を抱えていた。
「よかった。あんたに相談して。ラクロワのことも、わかってくれてるんだもんね。私からはもう、何も言わない」
「お任せ下さい。結果はどうなろうと、納得の行けるかたちに終着させます」
ふたり、頷いた。
それでも、その日は冷静になれなかった。
このためだけに、生きてきた。このためだけに、生きていた。それぐらいの思い入れがある
これがない警察隊には、用はない。言い切ってもいい。
あの雨の日に見た、緑色のお化けは、きっと、今の自分なのだ。どこかの屋敷で外を眺める子どもたちに、興味を抱かせる存在。そして、その屋敷の外の世界に、興味を抱かせる存在。あのお化けのおかげで、ビゴーに会えて、マレンツィオに助けてもらって、ペルグランたちに会えた。
ラクロワをわかってあげる。その気持ちの整理に、三日、かかった。
「これは、年寄りの
ラクロワと話をする前に、ビゴーと話をした。この前置きが来ると、この人は必ず、
「あんたはね、真っ直ぐだから。突き破んないことですよ」
「突き破る、ですか」
「あのこは、優しくて、ほんとうに広い視野を持っている。だけどあんたとかペルグランさんみたいにね。隣に人がいなかった」
言われて、胸が苦しくなった。
ペルグランにはダンクルベール。そしてガブリエリにはビゴーがいた。ラクロワには、それがいなかった。ビアトリクスが一番近いが、ビアトリクスは現場の人間であり、ラクロワは後方支援の事務方である。司法警察局局長であるセルヴァンからの指導はあるものの、ほぼひとりでここまで来なければならなかった。
困った人を助けたい。その小さく淡い思いだけで、ここまで来るしかなかった。そんな、か弱い心の女の子。
そんなこが、ひとりぼっちだったんだ。
「頼れる人がいなかった。だから、分厚くなれていない。不用意に踏み込めばね。その心の
その通りだった。自分の歩き方では、きっと踏み割ってしまう。ラクロワの心に、傷を負わせてしまう。
「私はただ、ラクロワを、わかってあげたいんです」
「そうだよね。そういう場合はね、ガブリエリさん。足を、止めなさい。一歩ずつ、一歩ずつとは言うけれど、そういうことも必要ですよ。いっそ、一歩引く。それでもいい。まあ、気持ちの問題というか。頭の組み立て方ですがね」
思わず、目を覗き込んでいた。
いつもの、穏やかな光。歩き続けている時の、おやじさんの目。
歩みを止める。一歩引く。ビゴーの口からはじめて聞く言葉。はじめて与えられた、選択肢。
それも、歩み寄り方。真っ直ぐでも、遠回りでもなく、立ち止まり、迎え入れる。
そうやって、わかってあげる。
「やっぱり行く前に、相談してよかったです。きっと、踏み割ってました」
「そうかいね。行ってらっしゃい。ラクロワさんを、ちゃんとわかってあげて下さいね」
ビゴーが微笑んでくれた。それで、勇気が湧いてきた。
「大事な、大切な。そして大好きな同期ですから」
言うべきことは、本心。それが、歩み寄るということ。
時間を設けて、個室にラクロワを呼んだ。正面ではなく、隣りに座った。
小柄で、気弱な女の子。素朴なそばかす顔。三つ編みの、ほんとうに、どこにでもいる女の子。
既に、体が震えていた。
「
目線を合わせず、つとめて穏やかに言った。そこら辺の空気に、放り投げるように。
ラクロワに、ぶつけないように。
「まず、君を悪く言うつもりはない。警察隊本部、そして司法警察局の懐事情も、ある程度は
「ガブリエリくん。その、私ね?」
「そうだね、ラクロワ。話を聞く。ゆっくりでいいよ」
やはり、目線は合わせなかった。合わせれば、壊す。薄い壁一枚、隔てる。それぐらいの気持ち。
「私は正直、どうするのがいいか、わからない」
しばらくして、ようやく。意を決したような、小さな声。
「長官は、どちらでも構わない。負担になっているようであれば廃止でもいいって。でもやっぱり、
震える声で、ぽつりぽつりと、語ってくれた。
人数分、意見がある。人数分、嗜好がある。そして人数分の生き方がある。それは、纏められない。当たり前のことだ。
ただ、その一言で片付けては、当たり前になれない人、当たり前のことがわからない人たちを置き去りにする。
だからそういう時は、当たり前。その一歩手前。色んな意見がある。そこまでで、終わり。
よし。整理できた。それを、伝えよう。
はじめて、ラクロワの顔を見た。向こうも、目を合わせてきた。
「なら、どうするべきかわからないが、結論でいいと思うよ。いいじゃないか。ちゃんと皆の意見を聞けている。それをそのまま、長官なり、局長閣下に伝えてみようよ」
半歩だけ。ほんとうに、小さな歩幅で。
少しして、ラクロワがはにかんでくれた。伝わったようだ。
「ラクロワも頑張ってるよ。私たちは、すごくラクロワに助けてもらっている。ペルグランも、よく言ってるよ」
その名前を、あえて出した。可愛い顔が、ちょっとだけ赤くなった。
きっとそうだろうな。そう、思っていた。でも、どうなんだろうな。あいつもあいつで鈍感だしな。何人か似たような相談を受けてたけど、気付いている様子もないし。
お互いに必要と感じたなら、歩み寄るだろう。一歩ずつ、一歩ずつ。だから、どうこう言う必要はない。
また、目線を外した。話はこれで終わり。後は、世間話。
「長官にも、早く愛称で呼んでもらえるといいね。女の子たちの間でも、それを目標にしてるこ、多いもんな」
「うん」
「ラクロワは、なんだろうなあ。ヴィオレットだろ?ビビとか、可愛くて」
「やめて」
叫び。
見た。
ラクロワ。震えていた。
目が、怯えている。
「お願い。その名前、呼ばないで」
「どうした、ラクロワ。落ち着け」
「いや、いやだ。嫌い。呼ばれたくない」
頭を抱えてしまった。涙すら流せないようなほど、恐怖に蝕まれている。
何を、踏み抜いた。名前。愛称。ラクロワ。ヴィオレット。ビビ。
ビビ。
踏み抜いてしまった。気を抜いてしまっていた。
でもまずはラクロワを助けなくては。恐怖から、孤独から。
「落ち着きなさい。ラクロワ、深呼吸だ。大丈夫だから」
目を見る。じっと、そうやって促す。ここにいる。大丈夫。ゆっくり、ラクロワ。戻っておいで。
すまない、私のせいで。
そのうち、落ち着いたようだった。肩で、息をしていた。
「ごめんなさい、ガブリエリくん」
「気にしなくていい。ちょっと、びっくりしただけだから」
「でも、ほんとうにいやなの。好きな名前だったのに。ほんとうに、好きな名前だったのに」
ビビ。
それが、ラクロワの心の傷。
「ラクロワ」
その、華奢な肩を掴んだ。
どうしていいかは、わからない。なら、真っ直ぐ行く。
「ラクロワのことを、わかってあげたい。つらいことも、悲しいこともだ。それで私で解決できることがあれば、手伝いたい」
真っ直ぐに、伝えた。
頷いた。そして、溢れだした。そのまま、ぽつぽつと話てくれた。ラクロワの、傷。ビビ。
信じられないような話だった。怒りで、眼の前が真っ赤になるぐらいだった。ラクロワが。こんなに可愛くて、いっぱい頑張っている女の子が、そんなことでつらい思いをしなければならないなんて。
何とか落ち着かせた。ビアトリクスに後を任せようと思ったが、見当たらなかった。ビゴーに経緯を説明して、お願いした。
「そこは、見落としても仕方ぁない。悔やむんじゃないよ」
優しく言われた。それでも、悔しさが滲んでいた。
「許せねえな」
ぽつりと、漏らした。腹の底から出る声だった。
「あたしもね。怒るときは怒りますよ。だからあんたもね。怒るときは、怒りなさい。面倒見てくれる人に背中任せて、思いっきり怒鳴るんだよ。あんたは真っ直ぐだから。真正面から思いっきりぶん殴って、やっつけちまいなさい」
はじめて見る顔だった。優しいけど、しっかりと刻まれた怒りの表情。
「長官に会ってきます」
頷いてくれた。
一歩ずつなんて、もうできない。早足、いや、走っていたかも知れない。怒りが、背中を押しまくってくる。
許せない。あまりに理不尽すぎる。絶対に許さない。
「ガブリエリ。ちょっといいか?」
本部長官執務室に向かう途中、ペルグランが声を掛けてきた。ちょうどよかった。
「長官に会わせろ」
「貴様、どうした?機嫌が悪そうだが」
「悪いんだよっ」
出てしまっていた。
気付いた。ペルグランの胸ぐらをつかんで、壁に押し付けていた。
その目は、冷静だった。それが、いやに腹が立った。
「まずは、落ち着けよ。貴様らしくもない」
「私らしくなんて、なくたっていい。ペルグラン、長官に合わせろと言ったんだ」
「わかったよ。ちょうど、長官が呼んでたからな」
呆れたような声。やはり、許せない。
貴様も、ラクロワを大切だとは、思っていないのか。
出そうになったことばを、何とか抑え込んだ。深呼吸、五回。そして、手を離す。
「すまない」
「いいよ。あえて詮索はしない」
「恩に着る。だがな」
奥歯が割れそうになっている。もう、出すしかない。
「いくらか貴様を見損なったぞ、ペルグラン。貴様はもっと、人に気遣いができるやつだと思っていた」
できるやつだと、思い込んでいた。貴様を、思ってくれているひとのことを。
「そうかい。まずは、用事を済ませようぜ。詳しくは後で聞く」
やはり呆れたように、踵を返した。
導かれるままに、歩いた。どんな用事であれ、こっちが先だ。あのダンクルベールが相手だろうと、押し通して見せる。
真っ直ぐ、突っ切ってやる。
会議室。大勢いた。ビアトリクスも、ウトマンも。アルシェ、アンリ、ムッシュ。“
そして、セルヴァンと、ダンクルベール。
「ようやく、準備が整ったよ」
ダンクルベールの表情は、険しかった。
「お話がよくわからないので、前提からお願いしてもよろしいでしょうか?」
まずは、聞く姿勢。それで、大した用事でなければ、押し通す。
座ったまま。ずしりと、その巨躯を前に出した。目が、深く荒れていた。
「ラクロワをいじめるやつがいる。国家憲兵総監の、息子だ」
静かだが、怒号と言ってよかった。
深呼吸、五回。それで、終わり。
「失礼しました。本人から伺っております」
「それでこそガブリエリだ。そうこなくては、お前ではない」
少しだけ、笑ったようだった。
「おい。見損なったぞ、ガブリエリ」
頭の後ろで腕を組んで、ペルグランが吐き捨てた。それでもその顔は、笑っていた。
「私だって聞いてたんだ。ゴフ隊長が何度も追い散らかしても粘着してくるってね」
それで、昇っていたものが落ち着いた。そりゃあそうだよな。こいつのことだもの。聞いているに決まってるさ。
「じゃあ、お互い様にしてくれないか?」
「当たり前だ。こんなことで、貴様との仲をこじらせたくもない」
「同感だね、馬鹿野朗」
「お互い様だよ、馬鹿野朗」
それで、笑いあった。これが自分たちなりの、仲直りの仕方だった。
「喧嘩でもしたかね?」
呆れたように、ダンクルベールが聞いてきた。
「ちょうど先ほど、この件で。この通り、ガブリエリも怒り心頭。準備万端です」
「それで、攻め立て方は。
「全方向から囲い込む。ペルグラン」
「はい。本作線の概要を説明します」
ペルグランが、卓に大きな紙を広げた。
作戦。つまり、ラクロワをいじめるやつに対し、何らかの行動を起こすということか。
「作戦目標です。再三の注意にも関わらず、司法警察局や警察隊本部の女性隊員、女性職員に対し、ハラスメント行為を繰り返す国家憲兵隊総局
ペルグランの目が、嵐をたたえている。
上官。それも、上位組織の長に対する制裁。社会的ではなく、私的なもの。組織の状態を維持しつつ、問題を解決するための、最適かつ残酷な手段。
いいね。やってやろうじゃないか。恨みひとつ買うぐらい、ラクロワのためなら、安いもんだ。
「続いて作戦の前提と戦略について、私から話をする」
セルヴァンだった。後方支援の第一人者。戦場全体を俯瞰する、縁の上の力持ちである。
「本来であれば、これらのハラスメント行為は、国家憲兵隊という組織そのものの社会的信用を大いに損なうものである。隊の労働規約として定めている通り、それが認められた場合、最小で戒告や減給、最大で懲戒解雇の処分を下すべきであり、それについて我々より適切な処分を下すよう具申を上げ続けているが、一向に改善が見られない。これは是正不適切、あるいは隠蔽と見做してもいい。そうなれば処分対象は国家憲兵総局全体に及ぶ。また司法警察局、警察隊本部、そしてラクロワ少尉個人としても、総局、あるいは所属する個々人に対し、刑民双方での責任追及が可能であり、そのための証拠も十分揃っている。しかしそれを実施するとなれば、国家憲兵隊そのものの存続に関わることとなる」
ここは同意見だった。規約上、あるいは法律上可能ではあるが、与える影響が大きすぎる。宮廷、市井は大混乱に陥るだろう。
そのために必要なのは、作戦への理解者だ。連中を囲い込み、闇の中で袋叩きにするために必要なこと。
「そこで私的制裁の
「おじさんにまで根回ししていたんですか?」
思わず、口にしていた。あまりに手際がよすぎる。
親戚のおじさん、天下御免のブロスキ男爵マレンツィオ。
ガブリエリ家はもと王家の名族だが、一度、断絶していることもあり、もと宗主国たるヴァルハリアの爵位を失っていた。先の政変で多くのヴァルハリア出身貴族が地位を追われたこともあり、今となっては絶滅危惧種といっていい、ヴァルハリアの爵位を持つ御仁である。この国の公爵と並ぶぐらいには、権威の暴力がある。
「ダンクルベールがご内儀さまに甘えてくれてね。婦女子に狼藉を働くなぞ不届き千万と、天下御免のご印籠を頂戴してきたよ」
鼻を鳴らしたセルヴァンに、ダンクルベールが頭を掻いた。
威風堂々、峻厳で知られるダンクルベールではあるが、上に対しては案外、
「他の方向からの囲い込みに関して、特別ゲストをひとり、用意している。ペルグラン少尉」
セルヴァンの言葉に、ペルグランが動いた。
少しして、ひとりを連れてきた。
ヴァーヌ聖教の司祭。しかしそう思えるのは格好だけ。かなりの巨躯の、そして強面の威容。
只者ではない。悪党の類か。
「ありゃ。いつぞやの、間抜けな
ルキエの悪態に、ちらと、その司祭が目をやった。それだけで十分だったのだろう。ルキエの体がびくりと跳ね上がり、隣のアンリに抱きついてしまった。
それをみとめてから、あえてルキエの方に向き直り、司祭は深々と一礼した。
「その節について、お
威容だが、静かで穏やかな笑みと声。
それで、ルキエも落ち着いたようだった。アンリはずっと、穏やかなまま。聖教会で繋がりがあるのか、あるいは肝が座っているのか。
「俺の旧知でな。ジスカールには、ヴァーヌ聖教会と悪党方面について協力してもらっている。過去にアンリエットも被害にあっていることを聖教会に伝えたところ、大激怒のご様子だ。その上で、本作戦の実施についても理解を頂戴している。悪党としては、国家憲兵隊総局の将兵や職員による不祥事や不適切な言動について、山のような情報を仕入れてくれた。これもそれぞれ改善が見られないため、是正不適切、ないし隠蔽と見做していいだろう」
司祭、かつ悪党。そして、
それで、ぴんと来た。超有名人だ。それも、その二代目。よもやダンクルベールと繋がりがあったとは。
「法で庇いきれないものを庇い、法で裁けないものを裁く。それをやるのがヴァーヌ聖教会であり、俺たち任侠の務めだ。手下どもの世話をして下すった“
静かで厳かな声。これは頼りがいのある任侠さんだ。
アンリとゴフが近寄って、挨拶をしていた。話しの通り顔馴染みのようだ。ウトマンやビアトリクスまで挨拶に行っている。ちらと聞こえたウトマンちゃんという呼び方から、前々から気に入られているみたいだ。あの人もまあ、武闘派だもんな。
「戦術面について。本官、アルシェ大尉より説明します。まずは将兵側。スーリ中尉を潜り込ませ、作戦当日、ラクロワ少尉にハラスメント行為を行うよう
「かしこまりました。傷のひとつぐらい、どうってことないです」
アンリも、目が燃え盛っていた。聖女と呼ばれるひとだが、慈悲ではなく、苛烈さを
「憲兵総監閣下には、本官と、“
これまた大掛かりな内容である。二本立てを一本にまとめるのは、相互の状況確認などが大変だろう。眼の前にいる威容の任侠からのお話については、あえては踏み込むまい。
「念の為ですが、往生際が悪い時はいかがなさいますか?」
「ああ。そりゃまあ、俺の出番だね」
ガブリエリの質問に、アルシェは、こともなげに答えた。
「心だけをぶっ潰す。いつも通りさ」
さらりと言ってのけた。一切、表情を変えず。
何も、反応できなかった。そういえばこのひと、凄腕以上の拷問官だったもんな。
「よう。人員配置の説明は、ご存知、ゴフ中尉だ。先に名前の上がった人員以外に、ペルグラン少尉、ガブリエリ少尉の二名を、目標の逃走阻止を目的に配置する。警察隊本部庁舎の外部への出入り口に、“
「お断りいたす」
憤然と。
思わず、全員がそのひとを見る。恰幅のいい偉丈夫。その瞼は閉じていた。
「ラクロワたちに害を加えたとあらば、私も剣を抜く」
静かに開いた目が、漆黒に染まっていた。
直感。ひとごろしの目。
「
静かだが、憤怒の形相。万人に死を授ける、死刑執行人。
これが、あのムッシュ・ラポワントの、本来の姿。
「ラポワント先生。どうぞ、落ち着きなすって」
あまりの気迫に一同が圧される中、極めて冷静にジスカールが抑えた。その一言で我に帰ったようで、ムッシュは慌てて、いつもの柔和な顔に戻った。アンリとルキエが、困惑と心配の表情を浮かべながら、ムッシュの側に駆け寄っていく。
「勘弁してくれ。音に聞いたラポワント家の首切り剣法。その身で味わうことになるかと思ったよ」
「あいや、長官。ほんとうに失礼をいたしました」
「貴方でも、そこまで怒るものかねえ」
「そりゃあ。なんたって、このこたちのためですもの」
アンリとルキエの肩に手を回しながら、にこやかに笑ったその目は、未だ漆黒。
「そのためなら、
笑って言ったその言葉に、全員の喉が鳴った。
この御仁は、絶対に怒らせてはいけない。
「俺とセルヴァンの可愛い部下たちを。まして気が弱くて抵抗ができないであろうラクロワをいじめるなぞ、絶対に許すわけにはいかん。ただし国家憲兵隊という組織は存続させなければならない。だからこその私的制裁だ。これで改善が見られないようであれば、内務
ダンクルベール。そして皆。そこまで、ラクロワのことを考えてくれている。
ならば、自分もそれに応えなければならない。
「私たちにとっても、大切な同期です。是非にでも、我がガブリエリ家の名をお使いください。それで宮廷、あるいは王陛下も動かせましょう」
使いたくもなかった家名。だが、使えるならば、使ってみせよう。それがガブリエリ家の。いや、
ペルグランも、ずいと前に出た。
立身出世の代名詞。海の男、ニコラ・ペルグランの血。何を活かすか。
「我が父であるアズナヴール伯、および
「貴様。流石にそれはやりすぎでは?」
「母上が怒り心頭でなあ。女をいじめるやつがいるような組織など更地にしろって、父上どころか海軍元帥閣下を怒鳴りつけちまった。念の為、配備されている戦艦の艦砲性能と庁舎の位置関係から計算してみたが、十分に射程圏内だったよ」
困ったように返してきたペルグランに、思わず皆、吹き出してしまった。仏頂面のアルシェや強面のジスカールも、手で口元を押さえてしまっている。
「いやあ。ジョゼさまも、相変わらずだなあ」
一番笑っていたのは、セルヴァンだった。
ペルグランの父、アズナヴール伯爵の恐妻家ぶり。というよりは、母であるジョゼフィーヌのかかあ殿下ぶりは、社交界の内外を問わず、つとに有名である。
ペルグランの祖父が怪盗メタモーフに馬鹿にされまくって以来、一族の男どもは体面と面目ばかりに拘る、典型的外戚思考に陥っていた。
そこに嫁いできたのが、あのボドリエール夫人の薫陶を授かりまくった
腑抜けの男どもを叱りつけ、尻を蹴飛ばし、海に放り投げるという、星の数ほどの笑い話を提供してくれた。子どもにも厳しく、男なら嫁ぐらい自分で捕まえてこいと、許婚も用意してくれない。最近、あまり名前を聞かなくなっていたが、まだまだご健在のようだ。
ご本人の外見は、まさしく生前のボドリエール夫人のミニチュアみたいで、かつ、お歳を感じさせない脅威の童顔。ほんとうにペルグランそっくりなのだから、びっくりする。
「
ダンクルベール。ごんと鳴るように、言い放った。
嬉しかった。
「そうだな、同意見だ。商売繁盛の守護聖人。その
セルヴァンも、自信満々、かつ真剣な表情だった。
「我が恩師から受け継いだ、この警察隊本部を守り抜き、育て上げる。それが俺の生涯のすべてだ。そのためには、あの方が遺してくれた
「油が抜けちまったようだ。入れ直さねばならん」
「そうだ。それに、かびも湧いている」
ダンクルベール。立ち上がる。褐色の巨才が、気を放っている。
「ラクロワと、俺たちの
おう。声が、重なった。
ラクロワを傷つけた。相手が誰であれ、やっつける理由は、それだけで十分だ。
(つづく)
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