2−2

 日差しの中。屋根の上。影ひとつを、追い回していた。


 炙り出した強盗団のひとり。“錠前屋じょうまえや”で囲んでいたが、こいつひとりだけ抜け出した。相当に身のこなしが素早い。壁を登り、屋根を伝い、ばんばんと逃げていく。

 そうはいっても、向こうは気が動転している。そのうちに燃料が底を付くはずだ。路地裏で鍛えたルキエの足であれば、造作もない。


 建物の間、二間半。向こうの屋根が少し低い。もう少しで並ぶ。いや、並ばない、並ばない。一足先に、屋根の端。


 跳躍。風と恐怖が、心地いい。


 足に感触。しっかりと腰まで落とす。衝撃を逃さないと、体を壊す。さて男の方は、どうやらうまくいかなかったようだ。屋根の縁にしがみついて、必死の形相でもがいていた。


「おらっ。神妙にすれば、それでよしってんだ」

 その胸ぐらを引っ掴んで、引き寄せた。これで観念するはず。そのまま、もう片方を、背中に回して。


 途端、男がひときわにもがきはじめた。その両手が、屋根から離れる。重みが、手に乗った。


「しまった」

 叫んでしまった。いない。手から、離れた。


 三階建て。落ちればただでは済まない。まして不安定な体勢と精神状況。

 頭から落ちれば、即死。まずい。


 飛び降りた。自分なら、このぐらいは楽々着地できる。


「行きます」

 燃え盛るような声。何かが、火のように駆け抜けてくる。


 アンリだ。


 男の体が、アンリの掲げた両手に吸い込まれていく。音もなく、やはり膝と腰を落としながら。

 向こう傷の聖女は、空から落ちてきた男をしっかりと受け止めた。そのまま一拍も置かずに、抱えた体をぐるりと一回転させて、あらためて男の体を路地の石畳に押し付けた。


「お覚悟っ」

 うつ伏せになった男の腕を背に回し、アンリが一喝した。ムッシュことラポワント特任とくにん大尉から教わっているという、東洋の神秘、“やわら”である。


 男の体に縄が打たれていく。これで一件落着だ。


「ルキエ。足、診せて」

 うまく着地したはずのルキエに、心配そうな顔でアンリが駆け寄ってきた。

 この顔になったら、もう絶対に意志を曲げない。それはもう、何度も見てきた。観念して座り込み、ブーツを脱いだ。

 両足。ちょっと、こそばゆい。でも、動くと叱られるから。そのうち手の感覚が心地よくなってきた。

「捻挫なし。腱も、無事。骨も、肉の感じも大丈夫」

 アンリの手。温かくて、優しくて。安心できるもののひとつ。


「よかった。ルキエ、無茶しないで」

 向き直った顔。笑顔。でも、少しだけ、瞳が潤んでいた。


「あんがと、アンリ。心配しすぎだって。こういうのは、あたしの得意科目だから」

「だって、あんな高いところ飛び回って、飛び降りてきたんだもの。びっくりしちゃった」

「こっちの台詞だよお。落っこちたの、受け止めたと思ったら、そのまま抑えつけちまった。花丸だね、アンリ」

 そうやって、ふたりで笑いあった。


 アンリとの交友は、気まずさからはじまった。


 出会ったのは確か、“錠前屋じょうまえや”に招聘された直後だろうか。

 それまでは、巡警をやっていた。の頃に面倒を見てくれた巡警さんから、学舎とか士官学校とか出てなくたって勤められるからと紹介された。


 音に聞いた向こう傷の聖女とやらめ。どんな醜女しこめかと思ったら、随分とまあ可愛いお嬢さんだったもので、からかうつもりで修道服を引き裂いた。小柄で可憐な小娘だったので、きっとおしゃまで可愛い下着でも付けているのだろう。それをひとつ、馬鹿にしてやろうと思ったのだ。


 そうして目に飛び込んできたのは、傷だらけの美しく白い肌と、見事に引き締まった、腹筋だった。


 見ないで。


 頬を赤らめ、目に涙を浮かべ、視線を逸らした、そのあどけない顔。か細い声で、それだけを呟いた。


 大慌ても大慌てで、自分の着ているものとか、予備の軍装を借りてきたりして、アンリに羽織らせた後、ダンクルベールに叱られに行った。

 向こうは娘ふたりを嫁がせた、孫持ちの爺さまである。怒鳴ることもなく静かに諭され、説き伏せられた。娘ふたりも、そうやってお互いに、あるいは他の女の子たちと何やかんやあったものだよと、最後の方は笑ってくれていた。


 そしてその罰として、アンリと仲よくすること。そう、言いつけられた。


 こちらは、生まれも育ちも顔も柄も悪い、がさつな不良女。向こうは、信仰に身を捧げ、信念をもって人を救い続けた修道女。絶対に合うはずがない。無理難題だと思っていた。

 それでも、改めて謝罪をしたらちゃんと許してくれたし、ぽつぽつと話をはじめてみたら、同い年だということもわかって、あっという間に盛り上がった。


 そのうちに本を貸してくれて、特にボドリエール夫人の著作に大いに惹かれた。今まで男なんて、どうでもいい生き物としか見てこなかったのが、一気にもうひらけた。わからない言葉があれば、辞書を引いてでも読み込んだ。

 それぐらい、恋というもの、愛というものの素晴らしさに、のめり込んだ。


 今では、本の貸し借り含め、非番の際には、真っ先に遊びに誘うほどの仲になっている。ふたつ下の妹分のラクロワ含め、ひとりでは入りづらかったお洒落なカフェとかビストロとかに行ったり、図書館で日がな一日、だらだらとお喋りしたり。

 何もかもが正反対で、お互いの深い部分を理解するということまではしてないけれど、それでも一緒にいて、楽しかった。

 本の趣味も、ちょっとずつ違ってきた。ルキエは淡く儚く、ほろりと泣けるロマンスを。アンリは燃え盛り、むせ返るほどに情熱的な交わりを。お互いの印象とは全く違う嗜好に、やっぱりちょっと気まずくなりつつも、それでいっか、と笑いあった。


 人間というものは、自分の足りないもの、至らないものを求めるのだろうか。だから自分はアンリを、アンリは自分を、友だちとして受け入れることができたのかもしれない。


「いいよなあ」

「いいよね」


 祝日。ふたりでカフェでのんびりしていた。街ゆく女の子を見ながら、恨めしげに呟いてしまっていた。


 まったく違うふたりでも、似たような悩みがあった。

 女の子らしくない体型。


 ふたりとも細身な方とはいえ、ルキエは肩幅が広く、アンリはいかり肩だった。他の女の子たちは、なで肩で、流行りの服もそういう女の子に向けたものばかり。可愛いと思って着てみても、何となく違和感がある。他のこたちからは、似合ってるとか言われるけど、自分で見ると、やっぱり違う。

 そうして、諦めてしまう。

 特にアンリは、相当に悩んでいた。自分はまあ、男勝りで通ってしまっていたけど、アンリはちゃんと、女の子だから。でも使命感があって、それを実現するために培ったもの。

 あとは育ち方。アンリの出身は、内陸の穀倉地帯。穀物で育ち、戦場を駆け回った。結果として、筋肉が付きやすい体質になっているようだった。ルキエは、食うに困るぐらいの家庭。戸籍と姓があるだけまし、という程度。男に混ざって、食うために日雇いとか奉公とかに出歩いて、そのうち巡警になって、走り回っていた。栄養が足りなかったのだろう、ちょっと骨ばって、肉がつきにくい。

 それでもふたり、そこらの男の何倍も、動き回れる。機能面としては、十分以上の肉体だった。

 だから油合羽あぶらがっぱのラグラン袖は、救いであり、呪いだった。肩のかたちはごまかせるけど、一度羽織ったら最後、それしか着れなくなるから。

 ふたりとも短合羽たんがっぱ好き。ふたりとも、走るのが仕事みたいなものではあるが、腰回りがすっきりするのがもっともの理由だった。中合羽ちゅうがっぱぐらいになると、野暮ったくなる。

「一回、気になっちゃうと、もう駄目だもんね。これ」

「アンリはまだ、修道服があるからいいじゃん。あたし、着る服がなくってさあ。結局、制服と似たような感じになっちゃう」

「ルキエは、イメージに合ってるから、いいと思うよ?」

 そうかなあ。そんなことを思いつつ。

 スカートとか、ドレスとか。そういうのも、着てみたかった。でも、やっぱり変。男っぽい格好が、楽でもあるし、逃げでもあった。

 そんなことを悶々と考えながら、本屋に行ったり、服屋を眺めたり。ふたり、曇った顔のまま、過ごしていた。


 ふと、ぽつりと。

「雨だ」

 にわか雨。それも、かなり強い。

 雨宿りできそうな場所は、見当たらなかった。

「私の家。すぐ近くだから。そこまで走ろう」

「わかった。ごめん、お邪魔するね」

 アンリの仮住まいまで、走った。そんなに距離はなかったけど、結構、濡れてしまった。

 秋雨。冷たくて、寒かった。

 ストーブを炊いてくれた。少しすれば、きっと乾くだろう。着るものを貸してくれたけど、そのうちふたりとも面倒になって、どうしてか、下着だけになって、寝台の上。並んで、あぐらをかいていた。


「あの時みたいだね」

 髪を下ろしたアンリ。新鮮だった。何だか、幼く感じる。

「そうだね。ごめんね、アンリ」

「いいよ。もう、ちゃんと許したし」

 子どもみたいな、可愛い笑顔。

 あの時。言われて、思い出してしまった。アンリの体。そして表情。そして、あの言葉。

 見ないで。

 それがいつだって、脳裏にひりついて、離れなかった。淫靡だった。

 いやらしいものを、見てしまった。

 ちゃんと、向き合わなきゃ。聖女ではなく、アンリの。あたしの大事な友だちの、ほんとうの姿と。

 そう思いながらも、じろじろと、横目で見てしまっている。白い肌。引き締まった、見事な肢体からだ

 それ以上に、どこもかしこも傷だらけ。きっと自分の分は簡単な処置で済ませていたのかもしれない。残る必要のない傷まで残っていた。

 どれだけ大変だったんだろう。どれだけ、泣いたんだろう。泣き虫で意地っ張りで、でもちょっと悪戯好きの女の子。

 そんなこが、どうして人を救おうと思ったんだろう。


「あのさ」

 声に、出してみよう。そう思った。

「あたし、アンリの体さ。すっげえ好き。アンリの気持ちが、かたちになってるって、思えて」

「私も、ルキエの体、好き。しなやかで、綺麗」

 笑って、言ってくれた。雨音の中、少しかすれた、それでも透き通る声。大好きだった。

「あのさ」

「うん」

「触っても、いい?」

「うん」

 思わず言ってしまった言葉に、返答が帰ってきた。

「ルキエになら、いいよ」

 やっぱり、にっこり笑っていた。それを見て、顔が火照ってきた。


 ちゃんと見て、ちゃんと触って、確かめて。そうして、受け入れたい。


 正面から。肩。悩んでいる、いかり肩。でも、柔らかい筋肉。肌が滑らかだった。傷のところだけ、ざらついているのが、ぞくりとする。二の腕とか。何人も担ぎ上げるにしては、ちょっと細いかも。体の使い方が上手いのかな。鎖骨。綺麗で、やっぱりちょっと、淫猥。胸は、そんな大きくない。それがやっぱり、いやらしい感じがする。そして、腹。くびれがあって、それでも呼吸のたび、ひとつひとつの筋肉の動きがあって、人ってこうなっているんだなって、思えた。足も細いけど、しっかりしている。

 もう一度、手。今まで、何度も見てきた。白いけど、ぼろぼろの手。煮沸した湯に手を突っ込んででも布を清めたり、司法解剖で死んだ人の体を触っている。生と死を、この手で手繰ってきた。もうひとつのアンリの象徴。この手が、人の生命いのちを救っている。守護天使の翼。

 くすぐったそうにしている顔。綺麗。向こう傷があっても、いや、あるからこそ。

 瞼が、閉じている。長いまつげ。自分にないもの。羨ましい。でも、これがアンリだから。

 唇。柔らかそう。ほんとうに、可憐な顔つき。でも、体中、傷だらけ。それが不釣り合いで、でも、それがアンリという、女の子。

 その顎が、ちょっとだけ、上がったような気がした。何かを誘うように。どうしたんだろう。

 でも、温かかった。


「ごめんっ」

 思わず、離れてしまった。

 奪ってしまった。そして、あげてしまった。アンリのと、あたしのと。


「いいよ」

 アンリは、笑っていた。ちょっと気恥ずかしそうに。

「ルキエのこと、大好きだし。お互い、あげっこ、もらいっこ」

 言われて、鼓動が早まっていた。


 聖女の、アンリの、はじめて。あたしが。あたしなんかが、もらっちゃった。そして、いいよって、言ってくれた。

 大好きな友だちに、大好きって、言われてしまった。

 難しくなって、恥ずかしくなって。何も言えなくなってしまった。

 あたし、何やってるんだろう。女ふたり、下着で、体まで触って、そして。


「アンリさ」

「なぁに?」

「誘ったよね?」

「うん」


 やっぱり、そうだった。こいつ、そういうところ、あるもんな。今更、すごく恥ずかしくなってきた。

 なんだか、甲斐性がないみたいじゃんか。なんでアンリが格好つけてるんだよ。なんであたし、それに負けちゃったんだよ。


「ルキエ、意気地なしだもん」

 意地悪な言葉に、ちょっと固まった。


 そうだ。あたし、意気地がないんだった。だから誘いに負けるんだ。何でも、自分から言い出せなくって、相手が何かをしてくれるのばっかり、待ってるから。

 自分から進んでいかなきゃ。今までそうしてきたのに、できなくなってたの、なんでなんだろう。何だか、馬鹿らしくなってきた。変な自信が湧いてきた。

 アンリって、やっぱり聖女なんだな。勇気、貰っちゃった。

「だから、あげたし、もらった。これできっと、進めるよ。ちゃんと紹介してね?」

 髪を下ろしたアンリ。笑っていた。やっぱりいつもより、ちょっと幼い感じ。それがたまらなく、可愛い。

 だから、勇気づけられた。だから、頑張らなきゃ。

「うん。あたし、頑張る」

 決心を付けるために、声に出した。そうしたら、アンリが抱きついてきた。下着の女ふたり、そうやって、馬鹿みたいにはしゃいで、笑いあった。


 男友だちのひとりに、恋をしていた。


(つづく)

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