第2話「氷の仮面の下で」

月影の町は、朝から騒がしかった。


「聞いたか?橘家の娘が夫を迎えたらしい」

「しかも、前代未聞の美男子だとか」

「あの没落した家系に、どんな男が...」


噂は川の流れのように町中に広がっていた。

橘家の屋敷では、千早が母・澪の部屋で正座していた。隣には雪が凛とした姿勢で座り、部屋の空気が張り詰めていた。


「こちらが...私の夫となった雪です」


千早は緊張した声で言った。


「まぁ...」


澪は病床から身を起こし、雪をじっと見つめた。


「確かに...見たこともないほどの美しさ...」


「初めまして、橘澪殿」


雪は完璧な礼儀で頭を下げた。


「このような形でご挨拶することをお許しください」


澪は二人の間を行き来する視線で、何かを察したように微笑んだ。


「式神契約...ですね」


千早はハッとして顔を上げた。


「どうして...」


「母親の勘よ」


澪はやさしく笑った。


「それに、その指輪...契りの証ですね」


雪は静かに澪を見つめた。


「鋭い観察力ですな」


「私も橘の血を引いています。...式神使いの才能はなかったけれど」


澪は咳き込み、千早が慌てて水を差し出した。


「澪殿」


雪が静かに言った。


「あなたの病のために、何か力になれることがあるかもしれません」


澪は驚いた表情を浮かべ、雪をじっと見つめた。


「あなたは...普通の式神ではないですね」


雪はわずかに頷き、懐から小さな瓶を取り出した。青白い光を放つ液体が入っている。


「妖薬です。高位妖狐の力から作られた...私の力の一部です」


「雪...!」


千早は驚いて声を上げた。


「契約の条件を付け加えよう」


雪は千早を見つめた。


「この妖薬には、毎晩一滴ずつ、一月分の効能がある。その代わり...」


千早は緊張した面持ちで言った。


「代わりに?」


「毎晩、お前は私に一つの記憶を見せること」


雪の目が鋭く光った。


「お前の心の奥底...誰にも見せていない記憶を」


千早は一瞬たじろいだが、すぐに決意の表情を浮かべた。


「承知しました」


母の命と引き換えに、自分の心の内を晒す—それが代償なら、喜んで払おう。


「千早...」


澪が心配そうに呼びかけた。


「大丈夫、お母様」


千早は微笑んで言った。


「私は...自分の選んだ道を進むだけです」



***


その日から、橘家の日常は一変した。

朝、千早が目を覚ますと、既に雪は起きており、庭で静かに瞑想していた。朝食の席では完璧な夫を演じ、椿の冷たい視線にも微笑で応じる。


「今日から、式神使いとしての本格的な訓練を始めましょう」


食事を終えた千早は、雪に向かって言った。


「いいだろう」


雪は静かに立ち上がった。


「だが、心して聞け。私は甘くない」


屋敷の裏手にある小さな訓練場。かつて橘家の式神使いたちが鍛錬した場所だが、今は使われなくなって久しい。


「まず、お前の力を見せてみろ」


雪は冷たく命じた。

千早は小さく頷き、懐から術符を取り出した。目を閉じて集中し、符に力を込める。術符が淡く光り、風が小さな渦を巻いた。


「これが...私の限界です」


千早は恥ずかしそうに言った。

雪は無表情のまま近づき、千早の手首を掴んだ。


「力の流れが乱れている。感情に左右されすぎだ」


「どうすれば...」


「心を静め、内なる力と向き合うのだ」


雪は千早の背後に立ち、その肩に手を置いた。


「呼吸を私に合わせろ。深く、ゆっくりと...」


二人の呼吸が徐々に一つになっていく。千早の中に、これまで感じたことのない暖かな力が流れ込んでくる。


「これが...式神との繋がり...」


千早は息を呑んだ。


「まだ浅い」


雪は冷たく言った。


「本当の契りとは、魂の共鳴だ。今のお前には遠すぎる」


厳しい言葉だったが、その手の温もりは嘘をついていなかった。



***


訓練は昼過ぎまで続いた。千早は何度も転び、何度も立ち上がった。雪の指導は厳しく、時に残酷なほどだった。


「もういい。今日はここまでだ」


雪が言った時、千早は既に息も絶え絶えだった。


「まだ...できます...」


千早は震える足で立ち上がろうとした。


「無理をするな」


雪の声は冷たいが、その目にはわずかな心配の色が浮かんでいた。


「焦りは禁物だ。力は一朝一夕では身につかない」


「...わかりました」


千早は素直に頷いた。


「午後は町に行こう」

雪は突然言った。

「夫婦を装うなら、人前に出る必要がある」



***


月影の町の中心部、市場は人々で賑わっていた。千早と雪が現れると、通りすがりの人々が足を止め、二人を見つめた。


「あれが橘家の娘と...」

「まるで絵に描いたような夫婦だね...」

「あんな美しい男性、どこから...」


千早は恥ずかしさで頬を赤らめ、雪の腕にしがみついた。完全に演技のつもりだったが、彼の腕の力強さに、不意に心が揺れた。


「今日は何を買うんだ?」


雪は自然な笑みを浮かべ、完璧な夫を演じていた。


「ええと...お母様の薬の材料と、夕食の食材を...」


千早は周囲の視線に緊張しながら答えた。


二人は市場を歩き回り、必要なものを買い集めた。雪は荷物を持ち、千早の好みを自然に聞き出す—すべて理想的な夫の姿で。

しかし、その完璧な仮面の下で、千早は時折、雪の目に浮かぶ孤独の影を見逃さなかった。


「それで、橘の娘さんよ」


突然、粗野な声が後ろから聞こえた。振り向くと、町の若い衆が数人、嘲笑うように立っていた。


「没落した式神使いの家に、こんな立派な夫がどうして来るんだい?」


男の一人が言った。


「もしかして、妖怪と契りでもしたのかい?あんたの家系はそういうの得意だったよな」


千早は顔を引きつらせた。しかし、反論する言葉が見つからない。彼らの言うことは、半分は真実なのだから。


「妻に対する無礼な言動は」

低く冷たい声が響いた。雪が一歩前に出て、男たちを睨みつけていた。

「許さん」


その目には人間離れした威圧感があり、男たちは思わず後ずさりした。


「な、何だよ...怖っ...」

「行こうぜ、あいつ...ただ者じゃない...」


男たちは早々に立ち去った。

千早は驚いて雪を見上げた。


「助けてくれて...ありがとう」


雪はわずかに困惑した表情を見せ、「契約の一部だ」と短く答えた。だが、その目には別の感情が揺れていた。


帰り道、二人は静かに歩いた。夕暮れの町は橙色に染まり、二人の影が長く伸びていた。


「雪...」

千早は勇気を出して言った。

「あなたは本当は...寂しいの?」


雪の足が一瞬止まった。


「何を言う」


「演じているように見えても...あなたの目は嘘をつけない」

千早は静かに言った。

「長い時を一人で過ごしてきたのね...」


雪は黙ったまま歩き続けた。しかし、その沈黙は否定ではなかった。



***


夜、母に妖薬を与えた後、千早と雪は静かに向かい合って座った。


「約束通り、一つの記憶を見せる」


雪は淡々と言った。

千早は小さく頷いた。


「どうすれば...」


「目を閉じ、私の手を取れ」


千早は言われた通りにし、雪の冷たい手に自分の手を重ねた。瞬間、頭の中が白く光り、記憶が鮮明によみがえる。


それは七歳の冬の日の記憶—初めて式神使いになりたいと思った日。

町の広場で、式神使いの演武を見ていた小さな千早。隣では母が咳き込んでいた。「きれい...」と目を輝かせる千早に、周囲の大人たちが冷たい視線を向けた。「橘の血筋の娘が...」「あの事件の...」「女の子なのに...」

泣きそうになる千早の頭を、母がやさしく撫でた。「大丈夫よ、千早...あなたはあなたの道を行けばいい」


その日から、千早は決めたのだ—誰にも認められなくても、自分の力で道を切り開くと。


記憶が終わり、千早は息を切らせながら目を開けた。雪の目が、月明かりに照らされて不思議な色に輝いていた。


「...なぜ式神使いになりたいと思った?」


雪は静かに尋ねた。


「最初は...きれいだったから」


千早は正直に答えた。


「そして、みんなに認められたかったから。でも、今は...」


「今は?」


「自分自身を証明したいから。それが私の道だから」

千早は真っ直ぐに雪を見つめた。


「あなたは?なぜ私と契約した?本当は...復讐のためでしょう?」


雪の表情が微かに変わった。


「それは...一年後に答えよう」


それ以上は何も語らず、雪は立ち上がり、部屋を出て行った。

千早は一人残され、指輪を見つめた。契りの証—雪と自分を繋ぐ絆。それはまだ弱く脆いが、確かに存在していた。


「一年で...あの凍てついた心を溶かすことができるかしら...」


月の光が窓から差し込み、千早の白い肌を銀色に染めていた。彼女はまだ知らない—自分の心も、少しずつ雪によって変えられていくことに。



***


それから数日が過ぎた。

式神使いの訓練は毎日続き、千早は少しずつだが確実に成長していた。雪の指導は厳しいままだったが、時に見せる僅かな承認の表情が、千早には大きな励みになった。


「術符への力の込め方が上達してきたな」


雪は千早が作った術符を見て言った。


「しかし、まだ感情の波が安定しない」


「感情を捨てろというの?」


千早は首を傾げた。


「捨てるのではない。理解し、受け入れるのだ」


雪は静かに言った。


「感情は力の源にもなる。だが、それに流されれば力は暴走する」


千早はじっと雪を見つめた。


「あなたは...感情を閉ざしているの?だから力を制御できる?」


雪は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに無表情に戻った。


「感情は...弱さになる。裏切りの痛みや、喪失の悲しみを避けるためには、心を閉ざす必要がある」


「でも、それは寂しくないの?」


千早の率直な質問に、雪は答えなかった。


毎晩、千早は約束通り雪に記憶を一つずつ見せた。自分が式神使いの試験に何度も失敗した記憶。周囲から冷たい目で見られた日々。それでも諦めなかった強さの源。

そして雪は、少しずつ千早を理解し始めていた。彼女の強さの裏にある繊細さ。見せかけの自信の下に隠された不安。それでも前に進もうとする意志。


ある夜、千早が見せた記憶は特に辛いものだった—十六歳の時、母が初めて重い病に倒れた日。医師が「治療費が高額になる」と言い、町の人々が同情の裏に隠された嘲りの目で見ていた光景。


記憶が終わった後、千早は涙を流していた。


「弱いところを見せてしまって...すみません」


彼女は袖で涙を拭った。

雪は静かに千早の前に座り、彼女の頬に触れた。冷たい指が、彼女の熱い頬を撫でる。


「泣くことは、弱さではない」


千早は驚いて顔を上げた。雪の目に、初めて見る優しさが宿っていた。


「あなたは...」


だが雪はすぐに手を引き、表情を元の冷たさに戻した。


「明日は式神使いの予備試験だ。休むがいい」


そう言って立ち去る雪の背中に、千早は何か変化を感じていた。氷の仮面の下に、確かに感情が息づいていることを。



***


翌朝、千早は緊張した面持ちで雪と共に家を出た。今日は町の式神使い育成所による予備試験—本試験の前に行われる適性試験だ。


「大丈夫、きっと合格します」


千早は自分に言い聞かせるように言った。


「自分を信じろ」


雪の言葉は短かったが、千早には大きな支えになった。

式神使い育成所に着くと、多くの若者たちが既に集まっていた。男性がほとんどで、女性は千早を含めて三人だけ。皆、千早を見て囁き合う。


「橘家の娘が...」

「あの美しい夫と来たのか...」

「契約したって噂は本当なのか...」


千早は緊張で体が強張るのを感じた。雪は彼女の傍らに立ち、静かに見守っていた。

式神使い育成所の主任・藤堂景光が現れ、試験の説明を始めた。


「今回の予備試験は、式神との協調性を見る。各自の式神と共に、あの森の奥にある古い祠から霊石を一つ持ち帰れ」


周囲からは自信に満ちた声が上がったが、千早は不安を隠せなかった。まだ雪の力を十分に引き出せる自信がなかったからだ。


「不安なのか?」


試験開始前、雪が小声で尋ねた。


「ええ...でも...」


千早は深呼吸して言った。


「やってみます。あなたの力を、私の力で引き出せるように」


雪はわずかに微笑んだように見えた。しかし、その目には何か別の感情—警戒か?躊躇か?— が宿っていた。


試験が始まり、参加者たちは一斉に森へと向かった。千早と雪も静かに歩を進める。


「この森...何か不思議な力を感じる」


千早は周囲を見回しながら言った。


「境界の森だ。人間界と妖怪界の狭間にある」


雪が説明した。


「普段は人間が入れない場所だが、今日は特別な結界が張られている」


二人は静かに森の奥へと進んでいった。

突然、木々の間から悲鳴が聞こえた。


「あれは...」


千早は立ち止まり、声のした方向を見た。


「他の参加者だ。関わらなければ...」


雪が言いかけたが、千早は既に走り出していた。


「待て!試験を放棄する気か?」


雪は千早の後を追った。


木々を抜けると、一人の若い女性式神使いが傷ついて倒れていた。彼女の小さな式神—鈴蘭と名乗る少女—が、暴走した森の精霊に追い詰められていた。


「助けて!」


鈴蘭が叫んだ。

千早は迷わず術符を取り出し、精霊との間に結界を張った。


「大丈夫です!私が助けます!」


「何をする気だ」


雪が千早の肩を掴んだ。


「これは試験だぞ。他人を助ければ...」


「わかってます」


千早は強い目で雪を見つめた。


「でも、見捨てられません。式神使いは力だけを求めるものではない...人々を守るものです」


その決意に満ちた目に、雪は何かを感じたようだった。


「...わかった」


彼は静かに言い、初めて自ら進んで力を貸した。


「私の力を使え」


千早は感謝の笑みを浮かべ、雪と共に精霊に立ち向かった。彼女が術符に力を込めると、雪の力が彼女の中に流れ込んできた。これまでにない力の奔流—しかし、怖くはなかった。


「清めの術!」


千早が叫ぶと、眩い光が放たれ、暴走した精霊は元の穏やかな姿に戻った。

鈴蘭と若い式神使いは驚いた表情で千早を見つめた。


「す、すごい...」


しかし、そこに藤堂景光が現れた。


「橘千早。試験中に他の参加者を助けるとは...女らしい感情的判断だな」


冷たい言葉に、千早は顔を上げた。


「式神使いの役目は力を誇示することではなく、人々を守ることです。私は自分の信じる道を行きます」


その言葉に、景光は嘲笑した。


「所詮、橘家の血筋...妖怪と共に滅びるがいい」


彼は去っていったが、千早の心は不思議と穏やかだった。自分の選択に後悔はなかった。


「ありがとう」


助けられた式神使いが言った。


「私は藤堂瑞希...景光の娘です」


千早は驚いた。藤堂家の娘が、なぜこんな場所に?


「父は...厳しい人です」


瑞希は苦笑いを浮かべた。


「女である私に期待していないから...」


千早は瑞希の手を取った。


「私たちは、自分の道を自分で切り開きましょう」


二人の女性式神使いは、理解し合える仲間を見つけた喜びを分かち合った。



***


その日の夜、家に戻った千早と雪は、祖母・椿から厳しい問いただしを受けた。


「試験は失敗したそうね」


椿は冷たく言った。


「はい...でも、後悔していません」


千早は毅然と答えた。


「その九尾...」


椿は急に表情を変え、雪を見た。


「あなたの瞳...白銀に似ている」


雪は静かに椿を見つめ返した。


「私は彼の弟だ」


椿は震える手で杖を握りしめた。


「あの一族を信じるな、千早...私が犯した過ちを繰り返すな」


「祖母様...」


千早は困惑した。


「契りは、簡単に結べても、簡単には解けぬもの...」


椿の目には、遠い記憶の痛みが浮かんでいた。


「心を奪われれば、すべてを失う」


その夜、千早は物思いにふけりながら縁側に座っていた。月が綺麗に輝いている。


「祖母様の言葉が気になるのか?」


雪が静かに近づいてきた。


「雪...あなたは本当に私を信じている?」


千早は率直に尋ねた。


「それとも、これはすべて...橘家への復讐?」


雪は長い間黙っていた。やがて、月明かりの中で千早の横に座った。


「復讐のつもりだった...最初は」


その正直な告白に、千早は胸が痛んだ。


「だが...」


雪は続けた。


「お前は...予想外だった」


「どういう意味?」


「純粋すぎる。強すぎる。そして...優しすぎる」


雪は夜空を見上げた。


「今日、お前は試験よりも他者を選んだ。それは...私には理解できない選択だった」


「でも、あなたは力を貸してくれた」


千早は静かに言った。


「...そうだな」


雪は自分でも不思議そうに言った。


「理由はわからないが...お前を助けたかった」


二人は静かに月を見つめた。まだ心と心の距離は遠かったが、少しずつ縮まっていることを、互いに感じていた。


「あなたを信じたい」


千早は小さく呟いた。

雪はその言葉の重みを感じ、戸惑いの表情を浮かべた。長い孤独の中で、誰かに信じられるということがどういうことか、忘れていたのかもしれない。


月影の町の夜は静かに更けていき、二人の契りは、まだ見えない未来へと続いていくのだった。

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