契り結びの式神使い
シャー・アズン
第1話「凍てついた心と誓い」
朝霧の立ち込める月影の町。橘家の古い屋敷から、咳込む声が聞こえた。
「お母様、お薬の時間です」
千早は母・澪のもとへ駆け寄り、枕元に座った。震える手で薬を差し出す彼女の眼差しには、深い憂いが浮かんでいた。
「千早、もういいよ...」
澪は微かに目を開け、娘に微笑みかけた。その顔は青白く、かつて町一番の美人と謳われた面影は病の影に薄れていた。
「だめです。必ず良くなります。今度こそ、私が式神使いの試験に合格して...」
言葉を詰まらせる千早の肩に、澪は弱々しく手を置いた。
「自分の心に正直に生きなさい。無理をしないで...」
千早は黙って頷いた。だが心の中では、どれほど無理をしても母を救いたいという想いが渦巻いていた。
***
橘家。かつては名高い式神使いの家系として、月影の町を守護する名門だった。しかし今や、その栄光は過去のものとなっていた。
「また落ちたのか」
町の式神使い育成所から帰ってきた千早を、祖母の椿が出迎えた。八十を過ぎた老女は、杖に身を預けながらも、なお凛とした威厳を漂わせていた。
「はい...」
千早は俯き、着物の袖で顔を隠した。
「女が式神使いになれるはずがない、と言われました。特に...橘家の娘など」
椿の顔に苦々しい表情が浮かんだ。
「あの事件から、もう五十年...まだ消えぬ傷か」
「血の契約事件」
—かつて椿が若い式神使いだった頃、白銀という九尾の狐と深い契りを結んでいた。彼らの力は強大で、他の式神使いたちの嫉妬を買った。藤堂家の先代当主が中心となり、「妖狐が人間を操り、町を乗っ取ろうとしている」という噂を広め、暴動が起きた。白銀は椿を守るために命を落とし、椿も重傷を負った。それ以来、橘家は「妖狐と共謀した」という汚名を着せられ、没落。町では「女性式神使いは危険」という偏見が強まった。
「祖母様...」
千早は決意を固め、真っ直ぐに椿を見つめた。
「私が家の名誉を取り戻します。そして、お母様を救います」
椿は長く千早を見つめた後、ゆっくりと首を振った。
「その瞳...私に似ている。だが、その道は茨の道だ」
老女は重い溜息をついた。
「今夜は満月。もう一度だけ、月影神社で祈りなさい。それでも叶わなければ...諦めなさい」
***
夜の闇に包まれた月影神社。満月の光が境内を銀色に染め上げる中、千早はひとり、拝殿の前で両手を合わせていた。
「どうか...どうか強い式神と契りを結ばせてください...」
何度目の祈りだろう。すでに声はかすれ、膝はしびれていた。しかし諦めるわけにはいかない。母の病状は日に日に悪化し、医師も「もう長くはない」と言っていた。
「これが最後の望み」
千早は小さく呟き、懐から古い巻物を取り出した。祖母から密かに受け継いだ秘伝の巻物—「九尾契約の秘術」。危険すぎるとして封印されていたものだ。
「伝説の九尾の狐様...この私に力を貸してください...」
千早は巻物に記された通り、自らの血で契約の円を描き、特別な術符を並べた。澄んだ声で古の言葉を紡ぎ始める。
風が止み、時が凍りついたかのように森が静まり返った。
「愚かな人間よ」
突然、冷たい声が闇から響いた。千早は震える体を無理に起こし、声のした方向を見た。
月光に照らされた鳥居の上に、一人の男が立っていた。
いや、人ではない。
長く美しい銀髪が風もないのに揺れ、琥珀色の瞳が月明かりに妖しく輝いていた。白い着物は雪のように純粋で、その肩口から覗くのは...九本の尻尾。
「九尾の...」
千早の言葉は途切れた。伝説の妖狐。橘家の因縁の相手。まさか本当に現れるとは。
「式神にしたいと言うのか? 我を?」
男—雪と名乗る狐は、優雅に鳥居から飛び降り、千早の前に立った。背は高く、顔立ちは人間の域を超えた美しさだった。しかし、その目は氷のように冷たく、千早を見下ろしていた。
「は、はい!どうか契約を...」
「何のために力が欲しい?」
雪の声は冷酷だった。
「名誉か?富か?それとも...復讐か?」
「違います!」
千早は必死に叫んだ。
「お母様を救いたいんです!そして...」
言葉が詰まる。そして、何だろう?自分でも本当の理由がわからなかった。
「そして?」
雪は冷笑を浮かべた。
「...認められたいんです」
千早は俯き、震える唇から言葉を絞り出した。
「女だからと見下され、橘家の娘だからと蔑まれ...でも、私には式神使いの血が流れています。力があるのに、誰も見てくれない...」
涙が頬を伝った。
「私はただ...私の力を認めてほしいんです」
沈黙が流れた。
「橘...」
雪は低く唸るように言った。
「お前の家は、我が一族に大きな傷を負わせた」
「それは祖母様の...」
「しかし」
雪は千早の言葉を遮った。
「お前の瞳に偽りはない。純粋な想い...久しく見ていなかった」
彼は千早の周りをゆっくりと歩き回った。
「条件がある。一年間の契約結婚だ」
「け、契約...結婚?」
千早は驚いて顔を上げた。
「そう。表向きは夫婦となる。しかし、これは単なる主従関係ではない。より深い繋がり—心と魂の契りだ」
雪は千早の目をじっと見つめた。
「一年間で我の心を本当に動かせれば、永遠の契りを結ぼう。しかし、失敗すれば...お前の寿命の半分を支払ってもらう」
千早は息を呑んだ。半分の寿命...二十二歳の彼女にとって、それは計り知れない代償だった。しかし、母を救い、家名を回復する唯一の望みでもある。
「...承知しました」
千早は震える声で答えた。
雪は微かに笑み、掌を開いた。そこには銀色の指輪が光っていた。雪の結晶と桜の花が交わるように刻まれている。
「契りの証だ。これを身につければ、我らの魂は繋がる」
千早は恐る恐る指輪を手に取り、薬指にはめた。瞬間、強烈な光が二人を包み込み、千早は意識が引き裂かれるような感覚に襲われた。
光の中で、彼女は見た—雪の記憶の断片。
長い、長い孤独。裏切られた痛み。凍てついた心。
そして雪も見たのだろう—千早の中の不安と孤独、周囲からの冷たい視線、それでも諦めない強さ。
光が消え、千早は膝から崩れ落ちた。激しい動悸と共に、体の中に異質な力が流れ込むのを感じる。
「契約は成立した」
雪は静かに言った。その声には、わずかな温もりが混じっていた。
「これから一年...お前が我の心を動かせるか、見ものだな」
月光の下、二人の影が一つに溶け合い、新たな契りの物語が始まろうとしていた。
翌朝、千早は自分の部屋で目を覚ました。
「夢...だったの?」
しかし、薬指には確かに銀の指輪がはめられていた。そして、障子の外から聞こえる祖母と誰かの会話。
千早は急いで着物を整え、障子を開けた。
縁側には祖母・椿と、見知らぬ美しい男性が座っていた。銀髪に琥珀色の瞳 — 雪だ。
しかし尻尾は見えない。完全に人間の姿になっている。
「ああ、起きたかい」
椿は千早を見て言った。声は普段より高く、緊張が混じっていた。
「この方が、あなたの...夫だそうだね」
「お、おはようございます...」
千早は動揺しながらも、礼儀正しく挨拶した。
雪は優雅に立ち上がり、千早に近づいた。
「おはよう、妻よ」
その声は昨夜とは違い、温かみがあった—しかし、その目は冷たいままだった。演技だ。契約通り、夫婦を装っているのだ。
「あの、祖母様...」
「説明は聞いたよ」
椿は厳しい表情で言った。
「九尾の狐と契りを結んだと。しかも...契約結婚だと?」
「はい...」
千早は俯いた。
「愚かな...」
椿は震える声で言った。
「あの一族を信じるな。私が犯した過ちを、お前まで...」
「もう決めたことです」
千早は強く言い返した。
「お母様のためにも、家のためにも...私は式神使いになります」
椿は長い間黙っていたが、やがて溜息をついた。
「...澪には何と説明する?」
「真実を」
雪が突然口を開いた。
「婚姻は偽りでも、契りは真実。この者の母には、誠実に接するつもりだ」
椿は疑わしげに雪を見つめた。
「お前の狙いは何だ?橘家への復讐か?」
雪は表情を変えずに答えた。
「それは、一年後に判断すればいい」
緊張感漂う空気の中、千早は決意を固めた。どんな理由であれ、今は前に進むしかない。母を救い、自分の道を切り開くために。
「さっそく母に会いに行きましょう」
彼女は雪に向かって言った。
「そして...式神使いの訓練も始めたいです」
雪はわずかに頷き、千早の前に膝をついた。
「あなたの式神、九尾の雪、ここに参上しました。どうかお導きを」
完璧な従者の姿勢。しかし、その目に浮かぶ微かな嘲笑を、千早は見逃さなかった。
これから始まるのは、冷徹な狐との一年の契り。彼の凍てついた心を溶かすことができるのか。それとも、自分が彼の復讐の道具となるのか。
千早は深呼吸し、雪の手を取った。
「これから、よろしくお願いします...夫殿」
月影の町に春の風が吹き始め、桜が蕾を膨らませる季節。橘家に新しい風が吹き込み、古い因縁の新たな一幕が開かれようとしていた。
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