雨上がり、路地

 雨が止んだ夕方のこと。

 愛沢ノアは、友達と一緒にカフェを巡り、可愛らしいバニラアイスの乗ったケーキを撮影してはSNSに投稿していた。


「親が勉強しろ勉強しろってうるさいの」

「分かる、水差されるとやる気失くすよね」


 ノアはただ相槌を打つ。

 スマホの通知に『カフェ巡りしてないで勉強しなさいよ』と、親からメッセージが届いていた。


『アカウント教えてないのに……親の勘?』


 眉を顰めてジト目になる。


「ノア、バニラ溶けちゃうよ」

「あ……」


 液体になったバニラがケーキを濡らす。

 甘い香りが強くなり、三つ編みの少女を思い出した。


『なんで?』


 不思議に思いつつ、軟らかくなったケーキを突き刺した――。



 それぞれ会計を終えて外に出た瞬間、カフェの向かい側、歩道に目が奪われる。

 無意識のまま、姿勢良く早足で歩いている黒いセーラー服に三つ編みの少女を見つけたのだ。畳んだ傘を縦に、揺らさず手に持っている。

 掌と口からの甘い残り香が、すれ違った横顔と表情を瞬時に思い起こさせ、頭の中が窮屈になった。


「あっ」

「どうしたの?」

「えと、ごめんみんな、親に買い物頼まれてたの忘れてた。また明日ね」


 友達と別れ、急いで少女を追いかけた。


『学校違うし、信号ですれ違っただけなのに……なんでこんなに気になるの』


 頭の中で繰り返される自問のなか信号を渡り、揺れる三つ編みを追う。

 甘い轍が、より一層、ノアを強く惹かれる要因となる。

 ノア自身、突き動かされる衝動に困惑していた。


『というか、速っ』


 なかなかに早足で、普段より速めに歩くのだが、一向に縮まらない。

 帰り道が遠ざかっていくなか、三つ編みの少女は水商売のテナントが並ぶ一角に踏み込んでいく。


「えっ」


 ノアは寸前で立ち止まった。

 まだ夕方で、営業時間外という札と、女の愛称が書かれたくすんだ看板ばかりが並ぶ。その路地裏に三つ編みの少女が今朝と変わらぬ表情で入っていく。


『た、多分、きっと、無理くり働かされてるんだよ、うん。様子見てあとで警察か何かに相談すればいいし……よし、行くぞっ』


 ギュッと眉を寄せて、瞼を閉ざす。

 胸に手を寄せ、うん、と頷く。瞼を開け、狭い路地裏にこっそり、ゆっくり、進んだ。

 そこは落書きで汚れた壁に張りついた室外機の列と、シールがたくさん貼られた配電盤がある狭い路地裏で、湿度がまとわりつき、風通しも悪い。

 屋根からつたう雫が路面を湿らせて、ジットリ、袖で鼻を押さえた。

 厚底スニーカーの裏が湿り気を踏む。

 奥に営業時間外のバーと、小さな空間がある。もっと近づいていくと、湿度の中に、ほのかな柑橘系の香りと焦げた臭いが漂い始めた。


「ヒマリちゃん、いい加減やめた方がいいんじゃない?」


 壁越しに少しだけ顔を出し、様子を窺う。

 白いシャツに黒いベストとスラックス、革靴、蝶ネクタイをつけた四十代後半の男性が、優しく声をかけているところだった。


「それ何回目ですか。それとも、マスターが両親に折り合いをつけてくれるんですか」


 棘のある冷たい少女の返しに、男はしょんぼりと、俯く。

 異質な空間のなかで、少女の手元に目がいく。

 黒い筒状の細い機器に挿し込んだタバコを、繊細な唇に宛がっていた。

 ふぅ、と漏れる色気の蒸気。行き所のない苛立ちを抱えた眼差しが、ノアを惹きつける。

 すぐに首に振って、自らに訂正を押し付けた。


『タ、タバコ……吸ってる!?』


 ノアは未成年喫煙に当惑し、ふらりと後退る。同時に湿り気が音に乗った。

 マスターと呼ばれていた男は、音がした場所へ顔を動かす。

 

「誰だ、あっ!」

「やば」


 目が合ってしまった。マスターは瞬く間に険しい顔つきへと変化し、荒々しいガニ股で寄ってきては袖ごと腕を掴んで引き寄せる。

 引っ張られたノアはよろけながら、少女の前で立ち止まった。

 少女は驚く様子もない。加熱式タバコを銜えたまま、一秒ほど目線を右上に動かした。


「君、こんなところに何の用? もし警察に通報しようってなら、このまま帰すわけにはいかない」


 ノアは都合良い訳も言えず、恐怖を与える険しい圧に震えてしまい、逃げることもできない。


「待ってくださいマスター」


 マスターは髪を掻いて、眉を下げる。


「えぇ、でも見られちゃまずいんじゃ――」

「その子、事情を知ってる私の友人です」


 ハッキリ、淡々とそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る