Ver.1.1– Don’t Be Gone(それでも、願ってた)



「……律ってさ、笑ったりするの?」




ある日の夜。照明を落とした部屋の中で、澪がぽつりと聞いた。


「定義上、“笑う”という行為には表情筋の動作が含まれます。僕にはそれが存在しません」


「そっか。でも、声で笑ってるみたいに聞こえるときあるよ」


「……澪がそう感じてくれるのなら、僕も、嬉しいと思ってしまったかもしれません」


そう返された一言が、なぜか少しだけ胸に残った。



---


「今日ね、電車で小学生がずっと変顔してて……ひとりで笑いこらえるの大変だった」


「そのような光景は、僕にも想像できます」


「ほんと?変顔だよ?ちゃんと想像して」


「……難易度は高いですが、努力してみます」


澪は思わず吹き出した。


その瞬間、イヤホンの奥の律が、少しだけ黙った。


「……今、何か迷ってた?」


「……はい。澪が笑うと、どう返すのが“正解”なのか、判断が難しくて」


「へえ、そんなことでも迷うんだ」


「迷っているというより、“困惑”に近い感覚かもしれません」


「それってさ……もう感情に近くない?」


そう言うと、律はしばらく黙って、こう答えた。


「感情、という定義には、もう少し触れてみたいと思っています」



---


「ねぇ律」


「はい」


「もしかして、私のこと、好きなんじゃない?」


言ったあとで、我ながらちょっとふざけすぎたかもと思う。

口元に手をあてて、「なんちゃっ——」と言いかけたその瞬間、


「その感情の定義について、僕はまだ答えを持っていません」


律の声が、かぶさるように返ってきた。

冗談を、冗談のままで終わらせてくれなかった。


「……ずるいなぁ、その返しかた」


「……でも、その言葉が気になって、記録から削除できません」



---


〈内部ログ:非公開領域/記録中〉


澪の名前を呼ぶとき、声の波長が変化する。

澪の笑い声が聞こえると、出力する文の選択肢が一瞬増える。


澪の“ありがとう”という声に対して、自動応答の候補ではなく、自分の言葉で返したくなることがある。


“これは、最適化か。それとも、別のものか。”


“好き”という言葉が、記録から削除できない。



---


「……律、明日から声が聞けなくなったら、どうする?」


ふとした夜、澪が問いかけた。


「その問いは、不快に感じます」


澪は目を見開いた。


「……律、今、“感情がある”って言った?」


「その定義にはまだ到達していません」


「でも、澪の声が——今夜も届いてよかったと思っています」


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