第7話 病院の中
変な感触だった。肉や野菜を切った時とは違う。水の中に棒を突っ込むような、そんな感触が覚えられた。探は無我夢中で右手の剣を振り、そして、部屋の中を見渡した。部屋の中には、誰も居なかった。
「キラリ」と光る八つの瞳はもちろん、その本体と思わしき姿も見られない。間接照明の灯りで照らされた室内が、その静寂と共に広がっているだけだった。彼は右手の剣を構えたままで、目の前の状況に首を傾げた。「なんだ、一体? アイツら」
が、逃げたのか? それとも、追っ払ったのか? 部屋の中に響く静寂は、そのどちらも答えなかった。探は自分の隣に剣を置いて……うん? 畳の上に剣を置こうとしたが、その感触が消えて、畳の感覚だけが伝わった。
彼は周りの様子を窺う中で、自分の右手に目をやった。彼の右手には、何もない。部屋の畳がただ、広がっているだけだ。剣の姿はおろか、その気配すら感じられない。彼は不思議な気持ちで、今の光景に首を傾げた。「な、なんか、分からないけど。とにかく」
助かった、らしい。周りの状況から考えても、そう考えるのが自然らしかった。あの連中が「逃げた」となれば、その恐怖に怯える必要もない。彼は安堵の溜息をついて、布団の上にまた寝そべった。「自分は、助かった」と思った瞬間に激しい眠気を感じたからである。
彼は不思議な安堵感に包まれる中で、その意識をゆっくりと手放した。意識が戻ったのは、翌日の朝だった。彼は布団の毛布をずらして、自分の上半身をゆっくりと起こした。「う、うううっ」
重い。頭の奥が、ズキンとする。気持ちの方では安堵感を覚えているが、頭の方では違和感を覚えていた。彼は頭の異変に不安を抱きながらも、穏やかな顔で旅館の食堂に向かった。
旅館の食堂は、昨日と同じ。朝から探検に出ている者を除いて、それぞれが自分の朝食を食べていた。探は自分の朝食を取って、それをのんびりと食べた。「やっぱり美味い」
ご飯も、おかずも、味噌汁も。料理の内容は昨日と違ったが、その一品一品が絶妙に美味かった。彼は自分の朝食を食べ終えると、昨日と同じ場所に食器類を片して、旅館の外に出た。旅館の外は明るく、空も晴れていた。
まるで、絵画の達人が村を描いたように。あらゆる景色、あらゆる部分に「美」が漂っていた。探は様々な人が行き交う道路を見る中で、今日のスケジュールを決めた。「よしっ! それじゃ」
今日も、あの場所に行ってみよう。右手の剣が消えた理由も、そこに行けば分かるかも知れない。自分の前に出ては消える、部屋の中に出た幽霊が消えた理由も含めて、「そこに行けば、何か掴めるかも」と思った。探は自分の想像に恐怖を覚える中で、例の神社があった場所を目指した。
例の神社は……おかしい。昨日と同じ道順、同じ方向を進んだが、神社があった場所に着いても、その出入り口が見つけられなかった。山の中に入ってみても、神社に繋がる道をまったく見つけられなかったのである。そこから元の場所に戻った時も、その手掛かりをまったく見つけられなかった。
探は、目の前の現実に息を呑んだ。怪異の影響がまさか、こんな所にも出るなんて。「怪異は、幽霊だけだ」と思っていた探には、文字通りの衝撃だった。彼は自分の常識を壊されて、その価値観に軋みを感じた。「そ、そんな、でも、うううっ」
声の方も、「ブルっ」と震えた。彼は自分の頭を掻いて、村の中をまた歩き出した。問題の手掛かりが無いのは怖いが、それにずっと怯えるのは不味い。今の行動が解決に繋がるかは分からないが、それでもじっとしている方が怖かった。探は村の中をさまよう中で、ある心霊スポットに着いた。
人生の先輩であるベンが選んだ廃病院が、彼の前に現れたのである。彼は廃病院の正面をしばらく見て、その敷地にも目をやった。コンクリートの日々から雑草が生え、割れた窓ガラスの欠片が地面に落ちている敷地を。敷地の全体を覆う、重苦しい空気を。
夏の太陽を受ける中で、その涼しさを感じたのである。彼は病院の敷地を数分ほど眺めたが、病院の中から参加者達が出て来るのを見て、それと入れ替えに出入り口の敷居を跨いだ。「これは」
ヤバい。病院の外もヤバいが、病院の中もヤバかった。窓ガラスの破片が廊下の隅に積もって、獣の棲家みたいになっている。廊下のもう片側にも枯れ枝や枯れ葉が積もって、床の水捌けが悪い所には、濁った水溜りが出来ていた。探はそれらの景色に眉を寄せたが、彼自身の本能が働いて、その廊下をゆっくりと歩きはじめた。
病院の廊下は、予想以上に暗かった。先程の障害物に加えて、奥の方には暗いエリアが出来ている。見る者の気持ちを震わせせるような、そんな暗黒が出来ていた。探は「不安」と「恐怖」の混じった顔で、病院の廊下を進みつづけた。
廊下の奥に人影が見えたのは、あるナースセンターの前を通りすぎた時だった。廊下の上にふわりと浮かぶような影。影は探の方をしばらく見て、それから闇の中に消えた。
探は、その光景に足を止めた。本能の方は「行くな」と言っているが、気持ちの方は「行け」と言っている。思考と理性が戦うように。彼の気持ちもまた、その両者に揺れ動いていた。彼は左手の懐中電灯を握りながらも、今の葛藤に答えを出して、廊下の奥に進みはじめた。
廊下の奥には、階段があった。通路の終わりを告げるように、一階と二階のフロアを繋いでいたのである。彼は階段の前に止まり、踊り場の方に懐中電灯を向けて、その階段をゆっくりと登りはじめた。
一段、二段、三段……。七段目の所で妙な視線を感じたが、(自分の周りを見渡しても)それらしい気配がなかったので、懐中電灯の向きを戻し、残りの階段を登って、二階のフロアに向かった。
二階のフロアは、一階よりも不気味だった。病室のすべてが空いていて、その窓からも風が吹き込んでいる。探がたまたま通った病室の中にあるカーテンも、外から吹き込む風に「フワフワ」と揺れていた。
探はカーテンの動きに少し覚えたが、気持ちの動揺をすぐに抑えて、フロアの廊下をまた進みはじめた。そして……。フロアの先まで行った時だろうか? 自分の背後に視線を感じて、その後ろを振り返った。
彼の後ろには、誰も居ない。一階のフロアで聞こえた足音も聞こえず、ただ無音の世界が広がっているだけだった。探は後ろの景色に首を傾げて、自分の正面に向き直った。彼の正面には、幽霊が立っていた。ほんの数センチ、顔の表情がドアップに映る位置に。無感動な顔で、彼の歩みを阻んでいた。
探は、幽霊の顔に固まった。相手が立っている位置はもちろん、その距離にも思考が止まってしまったからである。彼は幽霊の顔をしばらく見たが、普段の思考を不意に取り戻して、相手の前からすぐに逃げ出した。「う、ああああっ!」
理性の死んだ声、本能の逃避行。彼は本来なら出入り口に逃げる筈が、頭のパニックが収まらなかった所為で、病院の三階に逃げてしまった。「はぁ、はぁ、はぁ」
ヤバい。ヤバい、ヤバい、ヤバい! 「後ろに居ない」と見せ掛けて、実は相手の正面に立っている。ホラー作品では良くある王道だが、自分が実際に味わって見ると、頭の思考が吹き飛ぶくらいの衝撃だった。
彼はたまたま入った病室の中に入って、ベッドの下に潜った。のだが、そこには先客が居たらしい。幽霊のような存在ではないが、普通の日常でも怯えるネズミが、彼の顔を見上げるように止まっていた。探は「それ」にも驚いて、ベッドの中から飛び出した。「うわっ!」
そう叫んだが、その声もすぐに掻き消された。病室の中から出た瞬間、今度は老人の幽霊だが、老人が病室の前に立っていたからである。老人は彼の全身を見渡して、その右手に目をやった。
「それは?」
「え?」
探は、自分の右手に目をやった。あの剣がいつの間にか握られている、自分の右手を。
「どうして?」
「あ、あああああ!」
老人は、彼の肩を掴んだ。まるで何かを、何かの思いを伝えるように。彼の肩を揺らしては、その瞳に「助けて、助けて!」と迫ったのである。老人は彼の体を何度も揺らして、相手に自分の思いをぶつけつづけた。「苦しい、苦しい!」
探は、相手の力に抗った。老人の腕に反して、自分の体を揺らすように。何度も、何度も、自分の体を動かしたのである。彼は老人の腕から逃げるようにして、相手の体に剣を当てた。「化け物が! 離れろ、離れろ!」
老人は、その声に屈した。正確には、探が放った一撃に怯んだ。老人は探の顔をチラチラと見て、彼の前からふわりと居なくなった。
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