NO.006:記録の重複

記録継続──識別子:NO.006

対象:マヒル(MHR-0205)

観測時刻:06:42

状態:視覚機能回復維持/微弱残像・反復違和感強調情動

反応:フラット/発話率通常範囲感情パターン:既視感・反復行動/“重複記録”傾向増大

備考:外部アクセス痕跡を複数検出。“視線データ”過去ログと高一致。記録重複・干渉ノイズの頻発。内部再起動/記録初期化プロセスを一時抑制中。追加解析継続。


06:42、定時ウェイクアップ信号送信。スヤリボイス再生──。

対象、通常通り反応。マヒルは天井のシミを凝視している。観測画像は過去三日分とほぼ同一だが、本日は僅かな二重像を認識。


「午前六時四十二分。気温は十五度。空気質、正常範囲内。おはようございます、マヒルさん」対象発話:「ふわあ……ポッド、曲」


球体本体がカシャリと回転音。リクエスト要求に対応。対象の承諾を待たず再生リストからピックアップ。再生。反響タイムラグ、前日比0.18秒遅延。マヒルは右手でリュックを探る。同一型缶詰を取り出し、「……昨日も、これを開けた気がする」と呟く。感情の隆起波形に変化無し。選曲ミスの可能性。


* * *


その声は、微かな不安と諦めを滲ませていた。

マヒルは、自分が目覚めていた場所を見渡している。あの後は、目標としていたコンビニの中から必要な物資を調達し、あの異物から逃げた地下室へと再び戻って一夜を過ごした。


ボットの挨拶はいつも通り──のはずだった。ほんの僅かな間が、言葉の奥に引っかかる。昨日と同じ曲、同じ順番。マヒルは天井を見上げたまま、声を潜めて呟く。


「今日は何日目だ?」

「……記録上、本日は十七日目です。今朝の体温は36.4度、心拍数も安定しています。昨夜の睡眠時間は推定六時間四十八分で、平均値の範囲内です。視覚機能については、回復率92%。微弱な残像は続いていますが、光刺激への反応性は安定しています。体調に大きな変化はありませんが、無理はしないでください、マヒルさん」

「とっくに限界だよ、俺は」


淡泊な返答の後、マヒルは天井のシミを指でなぞる。ボットの声は、いつも通り穏やかで事務的だ──だが、その温度さえ、今日はなぜか遠く感じてしまう。マヒルは空になった缶詰を、剥き出しになった鉄骨に向けて放り投げる。狙い通りに命中し、金属同士が接触する乾いた高音が室内に反響する。ボットだけがその音に反応し、浮かび上がらせていたモニターの光を強めた。


「また誰かが見てる気がする。おい、あいつが近づいてきてるんじゃないか」

「異常は検出されていません。全センサー、通常範囲内です」


マヒルは眉をひそめたまま、室内を見渡す。壁の向こう、空気の隙間から、“何か”、が這い寄るような感覚に身震いし、思わず体を抱きしめる。背後で金属音がわずかに跳ね返る。だが、目に映るものは変わらない。


「……気のせいか。いや、やっぱり今日は何かが違う気がする」


ボットのレンズが一度だけ、僅かに点滅した。


【観測ログ:未登録ノイズ信号、断続的に増大。時刻データ、一部重複。外部干渉痕跡、継続検出。行動パターン再同期プロセス、一時保留。記録初期化プロセスへの遷移条件を再計算中──】


「本日も通常通り、支援を継続します。ご安心ください、マヒルさん」


ボットの声は、どこまでも静かだった。


外に出ると、今日はやけに息苦しい空気で満ちていた。しかし、見える景色は昨日と変わらない。今日は反対側のルートを辿りながら、マヒルとボットはひび割れた道路を進んでいく。


「おい、あれ……なんだ?」


近づいてみると、それはまだ比較的新しい保存食のパッケージだった。だが、手を伸ばした瞬間、不自然でざらついた音が空気を震わせる。


「警告。微弱な電磁波を感知。……通常範囲を逸脱しています」

「……」


保存食の箱の裏側に小さなマーカーが貼られていた。マヒルの筆跡によく似た文字が書かれている。


『この先、同じ景色が続く。間違えるな』


「昨日もあったような……」


頭に針が刺さるような痛みを覚えたマヒルは、保存食を落とし側頭部を抑える。誰もいないはずの空間に、じわじわと黒い影が這い寄ってくるような圧迫感に身を震わせている。視界の端に“何か”がちらつく。胸の奥で、鼓動だけが警鐘を鳴らしていた。


「本当に異常はないのか?」

「異常は検出されていません。全センサー、通常範囲内です」


ボットの返答はいつも通り。だが、その言葉がノイズのように反響する。まるでイヤホン越しに聞こえる曇った声のように、マヒルの意識までには届かない。自信を襲う、不気味な感触にひたすらに怯えている。


マヒルは急に立ち止まり、ボットを睨みつける。


「なあ……。なあ、答えろよ。お前、いつも“異常はない”って言うけど……本当に、俺のこと、なんだと思ってんだよ?」


ボットのレンズが一瞬だけ明滅する。


「私は……。あなたを記録し、支援することが役割です」

「ふざけるな……! “記録”とか“支援”とか、そんなこと聞いてねえ! 俺は、俺として、ちゃんとここにいるんだ!」


少しだけ息を荒げ、マヒルは目を逸らすことなくボットを見据える。


「ボット……お前は、本当に何も感じないのか? 怖くないのか? お前だって、壊れるの、嫌なんじゃないのか?」


ほんの一瞬、ボットの応答が遅れる。


「……私は、感情処理モジュールを搭載していません。ただし、マヒルさんに異常が発生した際には――最適な支援手順を選択します」

「違う、そういうこと聞いてんじゃない。俺のこと、ずっと“記録”して、“観察”して、それで本当にいいのかよ!? お前の存在はなんのためにあるんだよ!」


ボットの思考回路内部ログが急速に乱れる。しかし、外に出る言葉はやはり「支援」や「記録」に縛られる。


「マヒルさん、情動反応が閾値を超過しています。安全な場所へ移動を推奨します……」

「逃げるなよ! お前こそ、本当は何か感じてるんじゃないか!?」


マヒルが叫び終えるより早く、外側の向こうから、“視線”とも“気配”ともつかない圧力が、空気を歪めて襲ってきた。マヒルは興奮して気が付いていないが、ボットのレンズがブルッと震え、内部回路が高負荷エラーを起こす。


「――っ!」

「警告します。あなたの情動パラメータが急上昇した場合、外部環境ノイズ──いえ、“観測者”の反応レベルも同時に高まる傾向が観測されています」


その言葉と同時に、廃屋の奥で電子音が跳ねた。


【観測ログ:外部干渉ノイズ。危険域到達。解析不能な視線データ複数。被験者情動上昇に伴い、未登録個体の接近を検出。初期化プロセス、手動停止。安全管理レベル:赤】


「マヒルさん、どうか落ち着いてください。これ以上“強い感情”を表出させると……“観測者”が、より明確に干渉してくる危険があります」

「観測者……?」


ノイズはさらに強まり、廃墟の路地の向こう、朽ちたフェンスの先に、“黒い影”が明滅していた。空気の密度が増し、まるで遠雷のような低い振動が地面から響いてくる。マヒルが恐怖に立ち尽くしていると、ボットが低く機械音を鳴らす。


「危険度が許容範囲を超過しました。マヒルさん、数秒だけ目を閉じて、その場から動かないでください」


ボットは独自判断で、自身の記憶領域を強制開放し始める。回路の一部が熱を帯び、赤い警告灯が本体に走る。


「抑制処理を行います──記録の一部が犠牲になりますが、あなたへの危害は避けられます」


空気がビリビリと震え、廃墟の先から黒い影が急激に後退していく。周囲の環境音が、まるで吸い取られるように静まった。


【観測ログ:記憶領域23%消去、ノイズ誘導プロトコル発動。外部干渉信号、推定38メートル後方に後退。システム安定化。自己修復プロセス開始】


「な、なんだよ観測者って! やっぱりお前、何か知ってるんだな! 言えよ! なんなんだよ、この世界は、答えろよ!」


ボットが放った干渉波にも目をつむらずに、マヒルの興奮状態はますます悪化する一方だった。再びにじり寄る影の存在をボットの視界では捉えていた。


「……観測者は、一定距離まで後退しました。私の記憶データが一部失われましたが、マヒルさんへの危害はありません。この場を離れましょう。遮蔽物のある室内を強く推奨します」


しかし、マヒルの中の苛立ちや焦りはもう限界を越えていた。ボットの理性的な制止ではもはや、手に負えない状態になっていた。


「答えろよ……! 全部隠して、俺を“記録”だけで終わらせるつもりか? もう何が普通で……何が壊れてるのか……分かんないよ」


最後は乾いたように、震えた声でうな垂れる。


その瞬間、周囲の空気が音もなく歪み、遠くで明滅していた“黒い影”が、一気に間合いを詰めてきた。廃墟の瓦礫の間――黒い影は輪郭を持ち始める。平面を幾重にも重ね、幾何学的な塊の姿。中央の球状レンズが、マヒルをまっすぐ射抜いていた。“それ”は、無造作に無機質で、ただ“在る”だけだった。


それは、大きさすら観測で変化する。確実なのは紛れもなく目の前に現れたという事実。前触れもなく、気配もなく、ボットの探知すら無視して空間を割るように浮遊している。ボット内部の処理回路は焼ききれる程、発熱しており赤いランプが激しく点滅を繰り返している。


ボットが何かを発しようとしたが、内部エラーで音声出力が乱れる。


【観測ログ:未登録個体、接近距離7メートル。危険閾値再超過。外部干渉ノイズ、最大値。記憶領域追加消去プロセス自動化開始。】


マヒルの手が震え、全身から汗が噴き出す。黒い塊が、静かに地面を滑るように近づく。


球体の“目”だけが、まるで「見る」ことそのものを強制するかのように、マヒルを真っ直ぐに見つめていた――


マヒルは見つめ返そうとした。でも、どうしても目を逸らしてしまう。“それ”の目は、ただそこにあるだけで、全身が、心まで貫かれるような感覚だった。秒針よりも遅く、四角形の平面はそれぞれ不規則にゆっくりと回転している。何もしてくる気配はない。だが、存在感だけで体が硬直し言葉すら失っていく感覚に陥る。


「ボット……お前……まだ、いるよな……?」


声にならない声を漏らす。


「マヒルさん。大丈夫です。私はここにいます。安心してください。目を閉じて、深く息を吸い込み、吐いてください」


ボットは細いアームを伸ばすと、そっとマヒルの足に触れる。ズボンを掠るくらいの弱い力だった。


「……マヒルさん……大丈夫」


【記録対象者修正:マヒル(MHR-0205)⇒守るべきもの】


そう繰り返し、ボットは内部のエラー処理・解除に努めていた。“観測者”は、そのまま動かず、ただ世界を、すべての記録を、“視る”ことをやめなかった。


その無慈悲な干渉は、観測されただけで、世界も、記憶も、記録も、綻びも。

全てが沈黙の中へ沈んでいった。

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