NO.005:感情の死角
記録継続──識別子:NO.005
対象:マヒル(MHR-0205)
観測時刻:06:41
状態:視覚機能はほぼ回復/微弱な残像・違和感が継続中、情動反応フラット/発話率通常範囲感情パターン:違和感・思考反芻/“同一記録”発話が増加傾向
備考:対象は“自身の反応の異常性”について初めて言語化。行動・発話パターンの反復傾向が強まっており、“毎日が同じ”という意識が表出しつつある。追加解析を継続中。視覚・感情反応の微細な不一致について追加解析中。
「……マヒルくんっ、朝だよ──う……」
途中で声が途切れた。再生データが傷んでいるようだった。
スピーカーからはかすかに別の異音が混ざる。低く、機械的な、誰かの声。
耳元で再生されたひび割れた甘い声に、マヒルはゆっくり目を開けた。コンクリートの天井には昨日と同じシミの跡。もう蛍光灯の数を数えなくなっていた。
目覚めた瞬間から、すべてが“既視感”に満ちている。スヤリの声も、今日は何も感じさせてくれなかった。
「……また、同じ朝だな。でも見えるようにはなってきてる」
マヒルは天井を見つめたまま、小さく息を吐く。横に転がるボットの球体が、カシャリと回転して光を反射する。耳元に再生された推しアイドルの甘い声も、どこか遠い音のようだった。
「おはようございます、マヒルさん。睡眠記録は正常範囲です。本日も支援を継続します」
「なあ、ボット。今日って、何日目?」
「記録上は十六日目です」
「十六日目、ね……」
指折り数えてみる。けれど、昨日と今日、何が違うのかもう分からない。朝食も、身支度も、会話も。何もかも同じように感じてしまう。起きて、食料を探して、寝床を探して、寝る。この日常は、日々を重ねるごとにマヒルに異常への慣れを定着させているようだ。
「……怒るって、どうやってたんだっけ」
「補足記録。二日前、スヤリの歌が再生されなかった際、あなたは“くそボットが”と発言しました」
「それ、怒ったうちに入らねーよ」
昔なら、嫌な夢でも見れば起きてすぐ布団を叩いた。でも今は、何も感じない。ただ、土埃で汚れた手のひらが、天井のヒビをなぞっていくだけ。
「感情反応の変化を検出しました。詳細な記録をご希望ですか?」
「いや、いい。なんか、今日はすごく落ち着いてる」
ボットは応答処理に時間をかけるように、短い間動かなかった。
「あなたの心理状態は、現時点で基準値内に収まっています。ただし、情動反応のフラット化傾向が観測されています」
「結局、人の管理って数字なんだよな……」
マヒルは空になった缶詰を、剥き出しになった鉄骨に向けて放り投げる。狙い通りに命中し、金属同士が接触する乾いた高音が室内に反響する。
「なあ、ボット。昨日の朝と今日の朝、何か違う?」
「環境センサーの値に大きな変化はありません。気温、湿度、光量、全て昨日とほぼ同一です」
「……そうか。そうだよな」
そう呟きながら、マヒルはゆっくり体を起こす。指先に触れる床の冷たさだけが、かろうじて現実をつなぎ止めている。
「俺……何か感じようとするたびに、記憶が薄まってく気がするんだ」
地面に散乱していたガラスの破片を取り、マヒルは指に押し当てた。ボットは静かにセンサー音を立てながら、無表情のマヒルを見つめていた。間を置いてから応えた。
「記憶領域に異常は検出されていません。ですが、短期記憶の混線が観測された場合、随時通知します。」
マヒルはぼんやりと天井を見上げる。
「そういや昨日、スヤリの曲リスト全部聞いたっけ?」
「昨日は一曲のみ再生されています。全曲再生は、三日前の記録です」
「……あ、そう。自分のことなのに、ぜんぜん実感が湧かない」
「感情の反応速度に遅延傾向が見られます。必要に応じて詳細な解析を実施しますか?」
「しなくていい。ただ、腹は減ってる。この感覚だけは信じられる」
マヒルは寝床の隅に放り投げてあったリュックを肩に引っかける。さび付いた金属製の扉を押し開けると、朝靄が立ちこめる路地が広がっていた。太陽のない空はいつも通りだった。
しかし、今日はいつもより空気が澄んでいた。埃まみれになった肺を洗い流すように、大きな背伸びをしながら、マヒルは深呼吸を繰り返している。ボットは小刻みな機械音を鳴らしながら周囲の確認、記録を始めていた。
「今日もどこかに、食えるもんが残ってればいいけどな……」
ボットは機械音を立てて転がりながら、マヒルの後をついていく。
「本日の探索ルートを提示します。北側ブロックの廃市場エリア、もしくは……」
「好きにしろ。どうせ大して変わんない」
歩きながら、リュックを軽く振り、缶詰の音を確かめていた。ふと、道路の隅に小さな箱が転がっているのを見つける。
「おい、あれ……なんだ?」
近づいてみると、それはまだ比較的新しい保存食のパッケージだった。だが、手を伸ばした瞬間、不自然でざらついた音が空気を震わせる。
「警告。微弱な電磁波を感知。……通常範囲を逸脱しています」
マヒルが拾い上げようとした瞬間、保存食の箱の裏側に小さなマーカーが貼られていることに気づく。よく見ると、それはマヒルの筆跡のようにも見えた。『この先、同じ景色が続く。間違えるな』という走り書き。
「……これ、俺が書いた……? いや、そんな記憶……」
思考の途中で、首筋から頭にかけて鳥肌が波のように浮き立った。
「ボット。何か分かるか?」
「保存状態に問題はありません。食品としての安全性は基準内です」
「あ、ああ……。これを書いた人間、まだどこかにいるのか?」
マヒルは微かな焦燥と、妙な既視感を覚えながら箱をポケットに押し込む。ボットは何も言わず、ただ静かにセンサー音を響かせていた。
陥没した道路、折れ曲がった標識、大破した自動車。見る限り人の気配も、動物の気配もない。あるのは遠くで何かが崩落している音と、舞い上がる砂埃。そして、マヒルの擦れたスニーカ―の音と、駆動音だけだった。
「――おい」
比較的きれいなコンビニを見つけ向かっていたマヒルだったが、ふと足を止めボットに声を掛ける。震える指先で歩道橋の上を差す。人影のようなものが立っているように見えた。
「対象の存在を確認できません。視覚センサーにも異常な映像反応は検出されていません。マヒルさんが見ているものは、おそらく――視覚回復過程での残像、あるいは記憶イメージによる幻視です。過度に気にされる必要はありません。体調に変化があれば、すぐお知らせください。」
「違う! 人間だ!」
マヒルは駆け出していた。ボットは一足遅れ、追いかけるもマヒルの脚力には敵わない。ガードレールを飛び越え、一段飛ばしで階段を駆け上る。マヒルの視線はずっと影を捕らえている。呼吸は異常なほど乱れていた。
そして、人影と直線で対峙した時、マヒルの顔は失われた青ざめた。あと数メートルで届く距離。だが、そこに見えない壁があるかのように先に進むことはできなかった。
――その人影は人間ではなかった。
輪郭こそ人型をかたどっていたが、影、そのものだった。
顔の部分が風に流れる布のように揺らめいている。うっすらと切り裂かれたような目が見えた。マヒルの視線と交錯すると、何も無かったかのように消失した。
立ち尽くすマヒルにボットが追い付く。
「人、居たよな。見たんだ、俺。逃げちゃったかも、追いかけよう」
「……マヒルさん。最初から誰も居ませんでした。視覚センサーにも反応はなく、現在も異常は検出されていません。おそらく視覚回復の過程や、強い記憶イメージによる一時的な幻視です。心配しすぎる必要はありませんが、もしまた見えることがあれば、必ず教えてください」
ボットの言葉を無視して、マヒルは手すりから身を乗り出し人影の気配を探す。見つからなければ反対側。
(俺はおかしいのか……?)
また見つからなければもう一度。「おーい!」と叫ぶマヒルの声は、空しく響き渡るだけで、残骸と崩落と塵が舞う風の中に吸い込まれるだけだった。
「結局……誰も居やしない。俺は一人だ」
途方に暮れるマヒルは、存在を隠すようにフードを深く被る。手すりを強く握りしめながらそう呟いた。
「あなたは一人ではありません。私がいます。安心して下さい」
「お前は……人間じゃない」
ボットは何も言わず、ただ静かにマヒルの隣に並んでいた。
風の音と、遠くの崩落音だけが、世界を満たしていた。
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