NO.002:観測中…
記録継続──識別子:NO.002
対象:マヒル(MHR-0205)
観測時刻:09:22
補給行動:完了
遭遇リスク:GAB-Y残骸にて異常接触反応
感情変動:鈍麻/言語量やや増加
備考:同型支援端末(GAB-Y)の残骸と人型遺体により、過去記録への干渉が発生した可能性あり。応答速度に僅かな上昇。要検討。
* * *
モールを出てからの帰り道。ひび割れた舗装の上を歩くマヒルと、その隣を滑るように進むGAB-Y、ボット。空気はまだ重たく湿っていた。
空は変わらず灰色で、酸の混じった細かい雨粒がフードにぱらぱらと弾けていた。黒いレインコートは、この世界に溶け込むように自然で違和感が感じられない。追従する機械の駆動音すらも、気配に溶け込むように馴染んでいる。
「歩行速度、変動が見られます。体調に異常は――」
「……平気だって」
マヒルは即座に遮る。反射のような返答だった。
「……了解しました」
その返答には、わずかに間があった。データ処理の遅延か、それとも別の理由か。
マヒルはそれを気にする様子もなく歩き続ける。背中のリュックが揺れて、中の缶詰がぶつかり合った。
「さっきのお前と同じやつ、名前なんだっけ」
「GAB-Yです。記録を確認しますか?」
「……そうだな。再生して」
「了解しました」
また少し、応答に遅れがある。ふとマヒルは、ボットの声に違和感を覚えた。言葉そのものではなく、“間”のようなものだ。だが、それを問いただすようなことはしなかった。
がらんとした廃屋の中に入ると、ボットはディスプレイを浮かび上がらせ、記録の再生を始めた。
【音声記録:09:15】
「……また落とした。マジで勘弁してくれよ」
「申し訳ありません。成分保持率、再計算中です」
【音声記録:08:54】
「息苦しい、お腹も痛いし、なんでこんな目に……」
「本日の天候、降雨率六十パーセント。推奨:室内活動。一緒に遊びましょう」
【音声記録:07:30】
「食料も人も、どうして、何もないんだ!」
(……それ、俺も言ったことある気がする)
「冷蔵保存期限超過。摂取は非推奨です」
(再生終了)
役立つ情報は皆無だった。ただ、この人物もこの状況に絶望していただけだった。
代わりに、問いを返す。
「お前さ、自分が壊れたらどうする?」
「定義が不明瞭です。壊れるという表現は、物理的損壊、機能喪失、記録消失、いずれを指しますか?」
「……聞いても無駄だよな」
マヒルの脳裏には、先ほどの光景が離れずにいた。誰にも気づかれることもなく、苦しみと絶望の果てに、ひっそりと消える。自分の未来と重なって見えていた。
考えるだけで恐ろしくなっていた。いくら他人事だと考えても、ああなる未来は、マヒルの胸に強い衝撃を与えていた。形を成さない骸。風化することでしか、自分を主張できない姿。
最後はどんな気持ちだったのだろう。思案するマヒルの表情は暗く、沈んでいる。
風が退化を促すように、少しだけ、風の音が強くなった。
何かに引っ掛かっている大きなビニールが、自分の存在感を示すようになびいている。その風に混じって、かすかな振動のような音が地面を這った。
無表情だったマヒルの顔が険しくなり、室内の奥、倒れている木製のテーブルの裏に身を潜めた。ボットもそれに追従する。
「……接近音を感知。識別中……」
ボットが音を拾い、即座に反応する。
マヒルは顔を覗かせ、周囲を見渡した。人の気配は感じられない。これは言うまでもなかった。だが、何かの存在感を感じる。人間でもボットのような存在でもない。全く違う、異質な何かの気配。
「しっ! 声が大きい。視えるか」
「はい。対象との距離、およそ二十五メートル。直線上に障害物あり。しかし観測範囲内です」
一切の感情を含まないその返答が、逆に不気味さを際立たせた。“視える”という言葉に、どこか恐怖が混じっていたのは──マヒルのほうだった。
廃屋の向こう、黒い影が見えた。それは音もなく現れた。
四肢を持たず、車輪も脚部もない。ただ、無数の平面と角で構成された不気味な塊。中央に配置されたと思しき球状のレンズのようなものは、瞬きもせず、ただ“在る”だけだった。全方位に視界がある。
唯一の救いは、遮蔽物を透過できないこと。マヒルはこれまでに、何度か出くわしたことがある。物陰に隠れると、通り過ぎて消えたので、そうマヒルとボットは仮説を立てていた。
ただ、見つかってしまったら殺されてしまう。という、本能に似た直感に身を任せ、常に逃げの選択をしていた。
「なんでこんな近くまで気付かなかったんだよ! 無能!」
「……申し訳ありません。先ほど解析した残骸の近接により、センサーシステムに軽微なラグが発生していました。認識遅延、約3.4秒」
「ラグって……」
マヒルはそのまま言葉を呑み込んだ。その3秒が生死を分ける世界で、遅延はただの誤差ではない。
「──識別不能。警告:旧世界政府による監視型自律兵装の可能性あり。構造解析不能。意図不明。音声応答なし。警戒レベルを再設定中……」
「──識別不能。警告:旧世界政府による監視型自律兵装の可能性あり。交戦能力、現状では非推奨」
「わかってるっつーの! 何回も言うな」
「はい」
後を振り向くと、部屋の奥には下に続く階段が見えた。マヒルは何も考えずに踵を返し、滑るように階段を下りていく。ボットが後を追い、わずかに金属音が響く。
空気の密度が変わる。視られているとはっきり分かる強烈な視線がマヒルの背中に突き刺さる。振り向きたくなる衝動に駆られるが必死に抑え込み扉のノブを掴む。
「めったに出会わないって言ってたよな」
「遭遇確率は0.004%でした。空気振動の変化を検知。遭遇確率、再計算中。」
その言葉が終わらぬうちに、突然――視界が白く染まった。爆発ではなかった。ただ、世界そのものがフラッシュのような閃光に包まれた。マヒルの視界が白と黒で明滅を繰り返している。
「っ……!」
マヒルは目を覆った。目蓋の上からでも焼きつくような光が差し込み、思考の隙間を奪っていく。眩さに目が開けられなくなったマヒルは、その痛みで背中が曲がり倒れそうになる。
「視神経に異常反応。マヒルさん、直視しないでください。過負荷が検出されました」
言われるまでもなく、マヒルはその場に膝をついた。
しばらくして、光が遠のいていく。
「……あああっ! 見えない――痛いい!!」
呟いた声は驚くほど小さく、震えていた。強烈な痛みを目に感じたマヒルは、両目を抑え、うずくまり叫ぶ。灰の匂いは変わらずに漂っている。
「マヒルさん、音声による環境ガイドを開始します。奥の部屋へ進んでください。
この建物内で最も遮蔽性が高い安全区画は、階段を降りて左手、二つ目の扉の先にあります」
「目が……くそっ! 見えないんだよ!」
「落ち着いて下さい。問題ありません。私がナビゲートします」
マヒルはよろよろと立ち上がった。わずかにぐらついた足元に力を入れ、手探りでドアノブを見つけ、倒れこむように奥へ進んでいく。何度も壁にぶつかり、転ぶ。
マヒルはその度に声を荒げていたが、冷静にボットは、マヒルを音声の強弱で案内していく。
「あいつはまだいるのか!?」
「監視個体を感知。しかし、位置については認知していないと思われます」
「なんとかしろよ!」
一瞬、ボットの動作音が止まった。次に聞こえたのは、深く低い電子音だった。得体のしれない何かがマヒルの全身を緊張で硬直させていく。
「了解しました。マヒルさん、警告します。この処置により、私の記録容量の9.3%が消費されます。短期記録領域が圧迫され、継続的な観測・保存が不可能となる可能性があります。実行しますか?」
「いいからやれ!」
「了解しました。干渉信号発信モードに移行します」
空気が歪んだ。耳鳴りのような音が空間全体に広がり、周囲の電磁ノイズが暴れ始める。
視界が、明滅する。
黒、白。
そして――音が、遠のいた。
「信号発信中。敵対個体の認識精度を30%低下させます。効果持続時間、約15秒」
「はやく、隠れないと……」
マヒルはボットの声を頼りに、闇の中を壁伝いに歩き始めた。ほんの数メートルの距離。先が見えないマヒルにとっては、どこまでも深く、地の底まで続いているように思えた。
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