🌟第3話「先輩の背中」

――その詠唱は、風景を描き、心を震わせる。


言語魔法部に入って、三日目の放課後。

僕はまだ、部室という空間に完全には慣れていなかった。

壁に貼られた詠唱記録のグラフ、詩的構文のAI解析ログ、和紙のような紙に毛筆で記された和歌の写本。どれもが、自分には遠い世界のものに思えた。


でも、それでもここにいたいと思わせてくれる空気が、この部室にはあった。


「今日は特別に、部長が“本気”を見せてくれるらしいぜ」


涼が珍しく真面目な顔で言った。

彼が言う“部長”――橘 蓮は、和やかな微笑を絶やさない三年生で、この部の象徴のような人だった。

けれど、彼の実力を本当に見たことがある部員は、意外にも少ないという。


「春人くん、準備できてる?」


優しく声をかけられ、僕はうなずいた。


蓮先輩が、今日は模擬演武をしてくれるというのだ。

AI構文生成機を通さず、純粋な言葉だけで、どれだけの“現象”が起こせるのか。


その意味を、僕はまだ知らなかった。


準備されたのは、屋上。

詠唱に適した開放空間。視界には夕焼け、春の空、そして吹き抜ける風。


蓮先輩は静かに、地面に正座し、目を閉じた。

まるで詩を“祈る”ような構えだった。


「天つ風 雲の彼方に 言の葉を

  託せし想ひ 春を染めゆく」


一語一語が、空に溶けていくようだった。

聞き取りやすいのに、どこか古い旋律のような、凛とした響き。

詠唱が終わった瞬間、風が旋回し、空気がきらめいた。


足元のコンクリートに、咲いた。


――花畑。


実在しないはずの、幻の草花が一面に広がった。

色とりどりの光で編まれた花々が、まるでこの場所に昔から根付いていたかのように、風に揺れている。


「“構文名:幻景構築式遥かなる詠景”。先輩の代表技だよ。和歌と漢詩を融合させた独自構文。AIも解析不能な“詩魂詠唱”ってやつさ」


涼が言う。僕は、ただただ見惚れていた。


言葉が、ここまでの世界を描けるなんて。

これが、“本気”の詠唱だった。


「……綺麗、ですね」


ぽつりと呟いた僕の言葉に、蓮先輩はやさしく目を細めた。


「ありがとう。でもね、春人くん。これ、最初はぜんっぜん上手くいかなかったんだ」


「え……?」


「実は去年の全国大会、僕はこの技を決めようとして、大失敗したんだよ。光が暴走して、観客のAIナビすら遮断するレベルの幻像が暴発して……。あれが、僕の“挫折”だった」


静かに語られる、意外な過去。

大会常連の彼に、そんな歴史があったなんて思いもしなかった。


「でも、それでも構文をやめなかったのは……僕にとって、詠唱って“誰かと景色を分かち合うこと”だったから。

 この花畑を、誰かに見せたかった。たとえ一度、壊したとしても」


彼は笑った。苦さと、誇らしさと、少しの照れを含んだ笑顔だった。


「言葉は、失敗しても、また紡げる。

  大切なのは、伝えたい景色があるかどうか、だよ」


春風が、屋上を駆け抜けた。

光の花びらがひとひら、風に乗って僕の手のひらに落ちた。


僕はその瞬間、自分の中に芽吹きかけていた思いを、確かに感じた。


僕も、いつか。

僕だけの言葉で――誰かの世界を咲かせたい。


そう思った。


その日の夕方。

屋上を片付けていたとき、僕は、誰もいない部室でふと、開きっぱなしの先輩のノートを見つけた。


そこに、彼の字でこんな言葉が書かれていた。


「言葉は、景色になる。

  それを信じた者が、魔術師だ。」


僕はそっとページを閉じ、心の中でつぶやいた。


――あの背中の向こうに、いつか追いついてみたい。


▶次話 第4話「歌声の導く新入部員」

春の合唱会。声を失った少女に、言葉の魔法は届くのか――

音楽と詩が交差する、出会いと再生のエピソード。


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