🌸第1話「言葉が起こした小さな奇跡」

――世界は、言葉でできている。

そのことを、僕はあの日、ほんの少しだけ知った。


春だった。

風が、まだ肌に少し冷たい。空はよく晴れていて、桜はまだ、五分咲きだった。


校舎の裏手にある、古い桜の木。

生徒の通り道から少し外れたその場所は、放課後のざわめきからも遠く、僕がときどき逃げ込む“静けさ”の中にあった。


鞄の奥から、薄いノートを取り出す。

表紙も折れて、少し擦れたそのノートに、今日もひとつ、言葉を置いた。


ひらひらと

想いはまだ咲かず

風に預けて


それでもどこかで

きみの心に触れたくて


誰にも読まれたくないような、でもどこかで誰かに届いてほしいような、そんな詩。


言葉が好きだった。

言いたいことがうまく言えなかった子どもだったから、代わりに詩を書いた。

紙の上なら、ちゃんと伝えられる気がした。


でも、それはあくまで僕だけの小さな遊びで――

誰かに見せるものではなかった。

ましてや、世界を変えるようなものじゃないと思っていた。


そのときまでは。


僕は、ふと思いついて、そっと声に出した。

誰もいないはずだったし、音読してみたかった。ただ、それだけだった。


「……ひらひらと、想いはまだ咲かず……」


詩を読み終えた瞬間――空気が、変わった。


風が止まり、辺りの音がふっと遠のいたような感覚。

まるで世界が一瞬、息を潜めたような静寂。


次の瞬間、風が返ってきた。けれど、それは自然の風じゃなかった。

空間のひだを滑らせるような、どこか滑らかで、異質な流れだった。


枝先の蕾が、光をまとって揺れた。

目の前の桜が、一斉に――咲いた。


淡い光を宿して、花は咲き、舞い、そして数秒後には、また静かに落ちていった。

時間が戻ったみたいに、そこには再び五分咲きの桜だけが残っていた。


でも僕の目の前には、ひとひらの花びら。たった今、咲いていた証があった。


「――あの詩、あなたが詠んだの?」


驚いて振り返ると、そこにいたのは、同じクラスの綾瀬詩織だった。


その名を知らない生徒はまずいない。学年首席で、常に冷静沈着。

でも僕がその名前を知っていたのは、教室の端で、ときどき古語のような言葉を小声で唱えていたのを見かけていたからだった。


彼女は、僕のノートをちらりと見て、ゆっくりとした声で言った。


「……構文が、発動したわね。きれいだった」


「え? えっと、なんの話……?」


「言語魔法のこと。知らない? AIによって解析された言語構造――詩や呪文、祈りのような“言葉”が、現実に作用する技術。いまやそれは、魔法と呼ばれている」


彼女の言葉が、すとんと耳に落ちた。


知ってる。ニュースで見たことがある。

天気を変える“歌”、建設現場で使われる“詠唱命令”、人の心を落ち着ける“詞式処方”。


でも、それはずっと遠い世界の話だと思っていた。

AIが解析する構文。プロが訓練を重ねて使う特殊技術。

それが、僕なんかの、即興の詩で?


「……偶然、なんじゃないかな。そんなすごいこと、できるわけ――」


「偶然なら、あの反応は起きない。あなたの詩は、“自然詠唱型構文”として、発動した」


詩織の瞳はまっすぐだった。

迷いも、疑いもない。まるで僕が何者かであると、初めから知っていたみたいな。


「――言語魔法部に、来てみない?」


「……え?」


「あなたの言葉には、力がある。AIが構文評価をしたら、きっと驚く数値が出るはず」


そう言って彼女は、ひらりと僕のノートを閉じた。

そこに書かれていた詩は、もう、ただの落書きじゃない。


「……でも僕、何かを“成し遂げたい”とか、そういうのじゃなくて。詩なんて、ただ……」


「それでいいわ。心に宿った言葉こそが、最も強く、純粋な魔法になるの」


春風が吹いた。今度は、いつもと同じ自然の風だった。


でも、世界が少しだけ違って見えた。


後日、彼女に導かれて僕は「言語魔法部」の扉を叩いた。


そこには、即興ラップ構文を操る男子、和歌調の構文を使う落ち着いた先輩、歌うように呪文を紡ぐ少女たちがいた。


みんな、言葉で、誰かを守ろうとしていた。


そして――僕も。

きっと、あの日から、そうなりたかったんだ。


世界が少しだけ、やさしく揺れたあの日。

僕の言葉は、確かに、魔法になった。


▶次話 第2話「初めての詠唱バトル」

放課後の部室で初めての“構文模擬戦”が始まる!

ルールもお構いなしの即興詠唱が、言葉の嵐を呼ぶ――

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