第1話:ログイン

春の午後、校舎の屋上からは、グラウンドの白線がかすんで見えた。


水城リナは、フェンスにもたれて、深く息をついた。

風が制服の袖をなでていく。あの感触は、かつて毎日のようにスタートラインに立っていたときの記憶を呼び起こす。


「……走れなくなったんだよね、私」


独り言に返事はない。

誰もいない屋上で、聞こえるのは、風と自分の心臓の音だけだった。


足のケガ。

復帰は難しいと医者に言われた。リレーのアンカーとして走っていた日々は、今ではまるで他人の記録みたいに思える。


でも、時間は進む。

周囲の友だちは、次々と予備校に通い始め、模試の結果に一喜一憂している。


「……私は、今から何をすればいいの?」


その夜。リナの部屋のPC画面に、ある招待リンクが届いた。


《AIDEN(Artificial Intelligence Driven Educational Navigator)β版 試験ユーザーのご案内》


担任の山本先生が推薦してくれた新しい学習支援システムだった。


《名前を入力してください》

──「水城リナ」


《志望校を入力してください》

──「都立大 医学部 医学科」


画面の背景が淡い青に変わり、音声が流れ出した。


「こんにちは、水城リナさん。AIDENです。

 本日より、あなたの学びのログを一緒に記録していきます。

 志望校合格のため、最も効率のよい学習順序を設計しました。

 まずは、現在の理解度を診断してもよろしいですか?」


声は機械的なはずなのに、どこか落ち着いた響きがあった。


「……はい」


画面に表示されたのは、10問の簡単な診断テスト。

でも、驚いたのはその後だった。


「あなたは酸塩基の反応式に不安定さを感じています。

 補強教材:動画×3本、演習×5問を提案します。

 1セット40分。完了後に感想を聞かせてくださいね」


“感想を聞かせてくださいね。”

ほんのひとことなのに、リナは少しだけ肩の力が抜けた。


40分後、演習を終えたリナの正答率は72%。

今まで意味が分からず投げていた反応式が、すっと頭に入ってきた。


AIDENが何かを言った。


「あなたの成功体験を記録しました。

 このデータが、次の自信につながります。

 リナさん、今日はよくがんばりましたね」


「……なんか、変な感じ」


AIDENは、感情なんて持っていない。

それでも、この機械的な言葉が、ずっと誰かに言ってほしかった言葉のように思えた。


自分がやったことを、ちゃんと誰かが見てくれていたみたいな。


ディスプレイ越しのログの中に、小さな安心が灯った。


そしてリナは思った。


「もしかしたら、このAIとなら──もう一度、走り出せるかもしれない」


〈To be continued…〉

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