第2話 テスト

「じゃあ、そうね。おもてなしなら出来るわ。お食事会で」


 白峰が自信ありげに微笑む。やはりその表情が最も彼女らしい――かどうかは知らないが、少なくとも最も見慣れている白峰ではあった。


「おもてなし、とは? 具体的に」

「何でも言ってください。場所も、食べたいものも。私の希望というテイで父に伝えるから。ドレスコードがある場所なら、それも提供出来るはずだし」

「はあ」


 気のない相づちを打つ。意図したわけではなく、素で呆けた声音になってしまった。


「今回だけに限らず、契約が終わるまで、つまり私に本当の恋人が出来るまでは、何度でもあなたのお望み通りの会食を設けられるわ。父が同席という形にはなってしまうけれど」

「はあ」

「どう?」

「…………。……えっ。どうって……それだけか」

「これ以上は、出せないわ。これが限界なの」


 まっすぐと僕の目を見据えて、白峰は言う。動揺の色は微塵もない。

 労力に見合わぬ報酬をあえて提示している、といった交渉術のようにも見えない。これで要求が通ると、本気で思い込んでいるんじゃなかろうか。


 ……少し見誤ったか。白峰華乃葉を、過大評価していた。

 思っていたよりも、この女は頭が悪い――というのは違うか。自己評価が高い、というか……いや、金持ち故に、常識が一般とはズレているだけなのかもしれない。


 いずれにしても、僕が望む報酬にはほど遠い。どころか、話が噛み合ってない。交渉になってすらいない。


「不満、なのね。分かったわ。もう少し頑張ってみます。でも、これが本当に限界だから。契約が満了した後も、偽の友人として何度か父との食事会に参加する権利を付与します。もちろんその際も自由に希望を言ってくれて構わないわ」

「…………」


 こいつ、ホント……。


 父親同伴って……知らない中年男性同席って……どんなシチュエーションですら、その条件一つだけでご褒美にはならないだろ。どんな料理もどんな景色も味わえるわけがない。

 そもそも僕にとっては、父親同伴=偽装彼氏としての仕事、なのだ。食事会だとかいう「報酬」を要求する度、本来する必要がなかった仕事が新たに発生するという、謎のシステムが出来上がっているじゃないか。本末転倒が過ぎる。


 要するに、こいつは、


「却下だ。やはり君は、僕の負担を過小評価しているようだ」


 いや、まぁ、たとえ労力に見合った報酬を提示されたとしても、一度は首を横に振るつもりだったが。限界まで吊り上げてやろうと思ってはいたが。想像以上に酷い提案だったせいで、交渉術として用意していた台詞が、ただの本音になってしまった。


「…………」


 しかし、ここまで来ても白峰は表情を崩さなかった。もはや何を考えているのか分からない。というか、やはりただの馬鹿なのかもしれない。


「それは、残念ね」

「ああ。結果的に、君にも無駄な時間を取らせてしまったな。悪かった。話はこれで終わりだ」

「終わりじゃないでしょう。まだ、あなた側の希望を提示されていないわ」

「は? いや、だって。さっきの報酬が限界なんだろう?」


 僕が立ち上がり、帰ろうとしたのも、決して交渉術なんかじゃない。本当にこの交渉を打ち切るつもりだった。

 だというのに――白く細い指が、僕のワイシャツの袖を摘まんでくる。

 反射的に、振りほどく。我ながら、かなり強引な動きになってしまった。


「あ、いや、すまん……痛かったか?」


 交渉中にもかかわらず、頭を下げてしまう。仕方ない、今のは全面的に僕が悪い。


「いえ、大丈夫。」


 気にした様子もなく、白峰は続ける。


「その、限界だったけれど……黒瀬瞬を手放すという選択肢はないから。とりあえず、あなたが私に求めるものを提示して」

「無意味だ。時間の無駄だ」

「分からないじゃない。言ってみるだけ、言ってみて」

「…………」


 思わず、息を飲む。鋭い眼差し。本気だ。本気の目だ。


 ここまではっきりと拒絶されてなお、交渉成立の芽があると信じているのか? 思い上がりも甚だしい……いや。というより。その鋭い光は、自信というより、僕に対する希望のように見えてしまって。


「じゃあ、言うが」

「ええ」


 だから僕はつい、口を開いてしまった。彼女と向き合って。意外と背が高いわけじゃないんだな、僕と十五センチ差くらいはあるか――だとか、無意味なことを考えながら。どこかヤケクソ気味に、声を出す。


「今はまだ決めていない。だから具体的な要求は後日出す。それを必ず受け入れてくれ」


 交渉として、あり得ないことを、僕は口走っていた。


「つまり、『何でも一つ、願いを聞くこと』という要求ね?」


 要約されたことで、そのあり得なさが、より際立っていた。


 こんな状況で、僕も白峰も、真顔を貫いている。そりゃ僕は、断られる前提でこんなことを宣っているのだから当然なのだが。

 ただ、白峰側が、呆れや不快感を覗かせてもいないのは、どういうことなのだろう。もしかして、僕が言っていることが、自分が今要約した言葉が、どんな意味を持っているのか理解していないのだろうか。


 それならそれで、僕はさらにゴリ押しするだけだ。ダメ元で。何なら、さっさと拒絶してもらった方がありがたいくらいの気持ちで。


「そうだ。契約書に盛り込む文言も、そうだな……『乙は甲からの要請があった場合、一件を上限として、協力的行動を行う義務を負う。』といった具合になるだろう。つまり、『協力的行動』とやらの具体的内容を僕が決めるのは、契約が施行されてからだ。満了した後になる可能性もある。まぁ、期限は設けても構わないが、少なくとも契約締結・施行前に決めるのは、」

「仕方ないわ。私の要求が喫緊なのだもの。後出しの交換条件を出されても、私は受け入れざるを得ない。他に選択肢がない――なんてことを先に口走ってしまったのも私だし」

「…………いや、もちろん、えーと……『ただし、協力の具体的内容については甲の提示および乙の同意を要し、その内容が社会通念上著しく逸脱したものである場合、乙はこれを拒否することができる。』といった感じの補足も付け足すつもりだからな? 『何でも』というのは言葉の綾だ」


 何言ってんだ、僕は。自分から進んで譲歩してどうする。

 いや、「何言ってんだ」は、やはりこいつの方か。「何でも」なんて表現を使ったのも向こうだし。まぁ、確かに僕は「何でも一つ」、という意味で言っていたわけなんだが……。


 白峰、こいつは、一体……


「ふふっ、『こいつは何で自分から不利な立場を明示しているんだ?』って顔しているわよ?」

「していない」


 たぶんしてた。


「だって、私に言われなくたって、どうせ元から全部理解した上で話を進めていたでしょう、黒瀬君は」


 不利な立場を明かしながら、なぜか白峰は不遜に微笑んでいる。十五センチ低い位置から見下ろされているような気分になる。


「それは、どういう……」


 確かに僕は、自分が絶対的に有利な立場にいることを利用して、大きな要求を呑ませようとしていた。この、「後出しで何でも請求できる」という、具体性に欠いていて、それ故に、僕に圧倒的有利な条件も、実は最初から出そうと決めていた。が、それはブラフとしてだ。


 最初に大きな要求を提示して、断られてから、徐々に要求値を、本来求めていたものに下げていく――なんていうのは交渉における初歩的なテクニックだ。つまり却下されるのが前提のものだった。ましてや相手があの白峰華乃葉なら、そんな「前置き」などさっさと切り捨てられ、すぐさま真の交渉に入るものだと思っていた。


 ただ、白峰がまともな交渉に値する人物でないことが判明してしまったので、僕はやけっぱちでブラフをぶつけるだけぶつけて、さっさと散ろうとしたわけだ。

 時間を浪費したくなかったし、何か、白峰の眼差しが……いや、そんな曖昧模糊な感情を、交渉の判断に混ぜたわけじゃない。……はずだ。


「テストさせてもらったの」

「は?」

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