第3話 交渉成立
一見無垢なようでいて、よく見れば、あまりにも底の知れない笑みだった。
「私が提示した、ふざけた報酬条件――あれをあなたが受け入れでもしたら、こちらから交渉を打ち切るつもりだった。そんな人間は私の偽装彼氏として相応しくないから」
「お前、まさか……」
「お前って呼ばないで。父の前では絶対。それ以外の場でも絶対。これについても契約書に盛り込みましょう」
「あ、はい。すまん……」
は? いや、「あ、はい」じゃないだろ、僕。なに契約締結前提の発言に頷いちゃってんだ。
白峰の意図はもうわかった。信じられないが、こいつはずっと僕を試していたのだ。そのために、馬鹿な演技をしていやがった。
「私に必要なのはビジネスパートナーだから。求めている条件は二つ。まずは、自分の利益を最大限追及することだけを考えて合理的に行動出来る人。そっちの方が、信用出来るから。そして二つ目。その『利益』の中に恋愛関連の欲求が含まれていないこと。どちらも、あなたは満たしている。と、ここまでのやり取りで確かめられたわ。契約満了後も私と接点を持ち続けようとするなんて、もっての外だもの。あの提案にとても不満げな顔をしてもらった時は、柄にもなく胸が高鳴ってしまったわ」
白峰はウットリとした顔で自分の胸を押さえる。
「それって……」
「自分の眼識に惚れ惚れしてしまって、ね」
全然馬鹿ではなかったが、自己評価が異常に高く、常識からズレた女というのは正しかったのかもしれない。
「ていうか白峰。その希望条件の言い回しも変だけどな。そもそも、恋愛欲求なんかがある時点で、一つ目の条件も満たしてねぇんだから。恋愛自体が、合理的とは対極にあるものだろ」
悔しい。何で僕が出し抜かれたみたいになっている? 何で白峰が交渉の主導権を握っている? 悔しさのあまり、余計な口答えまでしてしまった。
「あら、ムキになると、少し口調が崩れるのね。父の前では気を付けてね? まぁ、それくらいなら二人きりの時は全然いいけれど。面白いし。内容自体は正論なところが、輪をかけて面白いわ」
こいつ……! 勝ち誇ったような嘲笑を……! この僕に向かって……!
いや、待て。冷静になるんだ、黒瀬瞬。負け犬みたいに吠えるな。どう考えたって、この交渉は僕の勝ちだろ。堂々とした態度に騙されかけたが、白峰の言葉は全部、ただの負け惜しみだ。
だって僕は、最大の交換条件を、白峰に呑ませたのだから!
後出しで、何でも請求できる。契約書の文言も、いくらでも拡大解釈できるような、曖昧で穴だらけのものにしてやる! こんなのはもう、白峰の無条件降伏のようなもんだ!
「いくらでも笑えばいい。だが、いいんだな、白峰華乃葉。この条件で契約書を作成し、締結まで持っていくからな?」
「ええ。あなたが提示した交換条件、受け入れます」
白峰は、キッパリと言い切った。
「……マジか」
「マジです。あなたが考えている通り、こんな交渉、初めから私の負けだもの。他にいなかった。たった一人も。この条件に応えられる人間が。そうである以上、報酬は限界まで吊り上げられる。最初からそう腹を括っていたのよ。言ったでしょう、この交渉自体が、それを出来る人間かどうか見定めるための、採用面接だったって」
採用面接とは言っていなかったが。
白峰は涼しげに続ける。
「それに、結局はどうせ、お金で解決出来る要求になるのでしょう? 金銭自体を求めてこないことは分かっているけれど、実質的には同じことよ。安心して。私が大した現金を持っていないのは事実だけれど、その気になればどうとでも出来るし、お見合いなんてくだらないものを避けられるのであれば、お金なんて全然惜しくもないわ」
「……そうか。君も安心してくれ。僕という男は合理的である以前に、極めて常識的で良識的な人間だからな」
嘘だった。白峰が後悔で顔を歪めるくらいの非常識極まりない請求をしてやるつもりだし、それが可能な文言を白峰に察知されない塩梅で仕込んでやるつもりだった。
「じゃあ、黒瀬君。さっそく、契約書とやらを作成しましょうか。無駄な時間を取らせてしまって、悪かったわね」
嗜虐的な微笑ですら蠱惑的に見せてしまう、その美貌に、腹が立って仕方なかった。
くそぉ覚悟しとけよ、白峰華乃葉……マジで参考書二十冊分くらいは買わせてやるつもりだからな、僕は……! 古本で構わないが! 泣いて謝ってこようが絶対に譲歩しねぇ……!
契約書は、絶対なんだ……!
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