第7話 新居

 朝になると、外は小雨が降っていた。

 ミシャーナは二日酔いで少し痛む頭を押さえながら起き上がり、昨夜のことを思い出そうとした。


 ――何かとんでもないことをしたような気がするけど、思い出せない……


 こめかみを押さえ懸命に思考を巡らせるが、男に介抱されて部屋まで肩を借りたことしか思い出せない。痛みで綺麗な額にしわが寄っていたが、それも暫くすると落ち着いた。

 鈍い身体をのろのろと動かし、ベッドから降りて驚いた。いなくなったと思っていた子犬が、部屋の床の上に丸くなって寝息を立てている。

 戸は閉まっているのにどうやって部屋に入ったのだろうと不思議に思ったが、子犬が戻ってきたことの方が嬉しくて傍に駆け寄った。


 毛の感触とぬくもりをたっぷりと感じたあとに気が付いた。


「あ……そう言えば、客室に動物は入れられないってお話だったわ」


 触れても起きない子犬をそのまま置いて、ミシャーナはそっと部屋を出てフロントに向かった。昨夜は大いに賑わった酒場は静かで、かすかにアルコールの匂いが残っている。

 フロントにはおかみが居て、ミシャーナを見つけるといそいそと近付き、弾んだ小さな声で耳打ちした。


「昨日の夜、綺麗な男と一緒に消えたけど……楽しめたかい?」


 確かに意気投合した男に担がれて部屋に戻った覚えはある。もう一度思考を巡らせ、すべては思い出せない代わりに自分が男にすがったことを思い出した。


「なっ、何もありません! 私を寝かせ……そのまま部屋を……出られ……」


 おかみの優しい眼差しと笑みを見ていると、自分がとても悪いことをした気分になり、みるみる耳まで赤くなった。


「いい歳なんだから気にしなくていいよ」


 おかみは何かあったと察してニヤニヤが止まらない様子だが、は本当に何もなかったので、ミシャーナは慌てて否定した。


「ですから、本当に何もありません! 正直、顔も思い出せません」


 もやがかかったように、なぜか顔だけが思い出せないのは確かだ。おかみの視線が恥ずかしくて、話題を変えた。


「そ、そうです! 子犬が! 子犬が私の部屋に居たんです!」


 急な話題変更と大きな声に驚いたおかみは、耳を塞ぐ動作をしながら一瞬「はて?」と考えて、目を見開いた。


「子犬って、ミサが連れていたあの子犬かい? 良かったじゃないか!」


 おかみはミシャーナの背中をバシバシと軽く叩いくと、自分ごとのように一緒に喜んでくれる。


「で、どうする? そのまま子犬と一緒にいるなら客室には泊まらせられないが……先払いしてもらっているしねぇ」


「この町に暫く滞在したいとは考えていたのですが……やはり動物と一緒だと難しいですよね」


 おかみはミシャーナと一緒に暫く考えたあと、名案だ!とばかりに手を叩いた。


「そうだ、家を借りなよ。町はずれに一軒だけ最近できた空き家がある」


「いいですね。でも、私のような者に家を貸してくださるでしょうか?」


 町の人にとってミシャーナは、たった二日しかこの町に滞在していない得体しれずの余所者で、しかも若い女の一人旅。この町に来た時、誰もが警戒していたのを思い出して急に不安になる。


「大丈夫だよ、アタシが保証してやるから安心おし」


 心強い味方はミシャーナに店番を頼むと、手続きをするために不動産屋まで走っていった。


 ミシャーナは何をすればいいのか分からないままひとりカウンターに立ち、起きてくる宿泊客に「おはようございます」と柔らかな笑顔で挨拶をした。


 昨夜の宴会で二日酔いになった者も多くいたが、ミシャーナの笑顔に癒されて元気を取り戻した。それでも頭痛や吐き気の酷い者には野菜や果物でジュースを自ら作り、振舞った。


 ミシャーナの母親は二日酔いの酷い人だった。

 アルコールは極力飲まないように努めてはいたものの、舞踏会や王室が開くパーティーなど公式の場では勧められたグラスを飲まないわけにはいかず、翌日のお世話はミシャーナがしていた。

 そのため、介抱には慣れていた。


「ありがとう、気分が良くなったよ」

「野菜ジュース苦手なんだけど、これは美味しいな」

「二日酔いくらいでこんなに献身的に……もしかして、きみは聖女か何か?」


 ミシャーナの優しさに触れた人々は、勘違いして勝手に妄想を膨らませた。ただでさえ、昨夜の大々的な宴の席で一晩で有名人となっただけでは飽き足らず、とうとう聖女の異名まで冠してしまった。


「まさか、私などがそのような……」


 恐縮するミシャーナの姿は、その場にいる者の心を掴んで離さなかった。

 おかみが戻ってきたのはミシャーナが十名ほどの二日酔い患者を介抱した頃だった。


「ミサ、話はつけてきたよ。今から物件を見られるそうだけど、どうする?」


 鼻の下を伸ばして周りを囲む男たちを一蹴し、おかみはミシャーナの正面に回った。


「ええっ、良いのですか? 嬉しいです」


 おかみの手を取って喜ぶミシャーナに、おかみも心を奪われてしまった。口には出さないが、こんな良い子がうちの娘だったらなどと思う始末で、同時に息子を思い出すと「うちのには勿体ない」と思わず呟いてしまう程に。


 店主を叩き起こすと店番を押し付け、ミシャーナの手を引いて少し遠巻きになった野次馬を突っ切り、不動産屋を従えて町のはずれにある物件までやってきた。


「二日酔いの皆さんは大丈夫でしょうか」


 不安そうに言うミシャーナに「うちのが看るから大丈夫」と笑顔で返し、不動産屋を促して物件に入る。


「この物件は、先日借金苦で家人が夜逃げしまして……差し押さえと言う形でわたくし共が管理しております」


 分かりやすい揉み手で小太りの不動産屋は媚びを売った。

 差し押さえというのは悪評になり、なかなか住み手が見つからない。一度ミシャーナが住んでくれれば評判は変わるため、おかみの紹介だから家賃は安くすると必死に売り込んできた。


 家はこじんまりとしているが手入れは行き届いていて、夜逃げしたというだけあって家財道具は一通りそろっていた。

 今すぐ住める状態であること、宿に泊まる程度の価格で一日単位で借りれること、何より動物と一緒に住んで良いことがミシャーナに刺さった。


 信頼を寄せるおかみの勧めということもあり、ミシャーナはこの家に住むことに決めた。

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