第5話 イザナイ
ハァ、ハァ……
男は荒い吐息を漏らしながら、目だけを左右に動かして部屋の様子を探る。
暗いながらも、先ほどと同様、輪郭はわかる。
テレビも、カーテンも、座椅子も…
すべてが “いつもの場所” に “いつものまま” 在った。
どこにも異常は見当たらない。
男は警戒を解き、ゆっくりと上体を起こす。
そして、深く息を吸い込んだ。
……夢か
そう、ぽつりと独りごちる。
枕元に手を伸ばし、デジタル時計を手に取った。
上部のスイッチを押すと、小さな光が画面を照らす。
―― 午前2時。
男は、ふうっと深いため息をつきながら時計を元の場所に戻した。
そのとき、ふと気づく。
パジャマの襟元から、背中、足の裏まで… 全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
……喉、乾いたな
男は呟きながら、眠気を引きずるように目を擦り、立ち上がった。
引き戸をそっと開け、キッチンの蛍光灯を点ける。
瞬間、白くまぶしい光が、闇に慣れた男の目を刺激した。
思わず目を細めながら、棚からタオルを取り出し、顔や首筋、そして背中の汗を丁寧に拭う。
汗まみれになったパジャマを洗濯機に放り込み、新しいTシャツに着替える。
その一連の動きには、確かな現実感があった。
次いでグラスを手に取り、蛇口をひねる。
勢いよく噴き出す水音が、静まり返ったアパートに響いた。
グラスに満たされた水を一息に飲み干す。
全身に冷たい水分が染み渡っていく感覚。
一息ついた男は、先ほどの夢を思い返す。
……あれは夢だったのか?
駿河塚の交差点から帰路につき…
得体の知れない“ナニカ”に追われ…
焦ってアパートの玄関に辿り着いたものの鍵が開かず…
間一髪、なぜか突然鍵が開き、体を滑り込ませるように部屋に逃げ込んだ。
そして部屋では誰かが眠っており、その顔を確認しようとしたら…
……眠ってたのは、俺だった… てか。 ハハ…
ぽつりと呟いたその言葉に自分でも可笑しくなったのか、男は乾いた笑みを漏らした。
明晰夢……
不思議な体験をしたものだ…。
男はそんな言葉を胸中で転がしながら、ぼんやりとした目つきで虚空を見つめた。
通常の夢というものは、たとえどれほど印象的であっても、目覚めた瞬間から次第に記憶の底へ沈んでいくものだ。
両手ですくった水が、指の隙間から静かに零れ落ちていくように…。
だが、さっきの夢はどうだ…。
リアルで… 妙に生々しくて…
ついさっきまで本当に体験していたかのような実感が、男の内側にまだ鮮明に残っている。
完全に覚醒しているというのに、一向に夢の光景が色褪せない。
男は再びグラスに水を注ぎ、静かに飲み干す。
そして、再び深くため息をついた。
そのときだった。
ゴトッ。
左手側から重たい音が鳴った。
男の体がビクッと反応する。音の出所は…
玄関…?
咄嗟に顔を向けたその先、ドアの中央に設けられた横長のスリットから白いものが、ほんの少しだけ覗いていた。
チラシか? 郵便物か?
はたまた業者のポスティング…?
男は頭の中で可能性を順に並べてみる。だが、すぐに否定せざるを得なかった。
今は… 深夜2時だ。
常識では考えられない時間帯。
そんな時刻に誰が、何の目的で…?
先ほど丁寧に拭きとった首筋を、再度ざわりと冷たい汗が伝う。
それでも視線は逸らせない。
白い何かは、まるでこちらの反応を試すように、じり……じり……と奥へと滑り込んできていた。
ずぅ……ずずずぅ……
まるでプリンターから紙がゆっくり吐き出されるように。
不気味な静寂の中、白紙がスリットを滑っていく様は異様だった。
まるで、ドアが舌を突き出し嘲笑っているようにも見えた。
A4サイズほどの白紙。
それは止まることなく、スルスルと部屋の中へ這い込んでくる。そして、
サッ。
乾いた音と共に、紙は土間へ滑り落ちた。
男の全身から、再び汗が噴き出した。
手足が凍りついたように動かない。
さっきまで落ち着きかけていた心拍が、耳鳴りとともに再び跳ね上がる。
その光景を前に、男はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
白紙が滑り落ちた土間をじっと見つめる。
目を逸らすことも動くこともできない。
右手に持っていたグラスが、かすかに震えていた。
そっと流しの縁に置く。グラスがコトリと音を立てた。
空気が張り詰めている。
時間が止まったような感覚の中で、ただひとつ確かなのは、
土間に落ちた白紙がそこにあるということ。
しばらくの間、男はその白紙から目を離せなかった。
やがて、何かに突き動かされるようにして、男はハッと我に返る。
ほんのわずかに息を吸い、意を決して動き出す。
裸足の足裏が、冷たい土間に触れた。
ぺたり。ぺたり。
一歩ずつ慎重に距離を詰め、ついにその紙の前にしゃがみ込む。
紙には…
何の記載もなかった。
真っ白だ。ただのA4サイズの紙。
だが、それは"ただの白紙"にしか見えないというだけで、
「深夜2時の誰かの手によって差し込まれた」という事実が、その異様さを際立たせていた。
男は手を伸ばす。
指先がかすかに震える。
そしてそっと紙の端をつまみ上げた。
ゆっくりと手首を返し、白紙を裏返す。
その瞬間、背筋に氷の杭が打ち込まれたかのような衝撃が走った。
そこには、黒々とした文字でこう書かれていた。
『オマエハダレダ』
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