第3話 キキ
男の住むアパートは、2階建て4部屋ずつの計8部屋からなる小さな集合住宅だ。
2階の手前から2番目の部屋が男の自宅だった。
背後から迫る“ナニカ”に追われるように、男はアパートの備え付けの鉄製階段に飛び乗る。
カン、カン、カン
男が階段を駆け上がる金属音が、けたたましく辺りに響き渡る。
2階にたどり着いた男は自室の前に立ち、震える手でドアノブを回す。
しかしドアは微動だにしなかった。鍵が掛かっているのだ。
額や首筋を汗が伝い落ち、ジャケットは大きな染みでぐっしょりと濡れていた。
体中が汗で粘ついて気持ち悪いが、そんな不快感を意識する余裕など、男には残されていなかった。
男は急ぎポケットを探る。しかし鍵は見当たらない。
“ひたひた”はまだ続いている。
2階の廊下からは、先ほど自分が駆けてきた細い路地が見渡せる。
だが、そこに人の姿はない。
ただ、空っぽの道が月明かりに照らされているだけだった。
しかし、足音は確かに近づいてきている。
確実に“ナニカ”が、男を追って来ているのだ。
男の喉が乾ききり、呼吸がうまくできない。心臓は暴れ馬のように胸を打ち続けていた。
ドアノブを再び回す。祈るように力を込めて
――それでも、扉は開かない。
開いてくれ…頼む、頼む…!
懇願する声も空しく、静かに、しかし着実に“ナニカ”は、見えぬまま階下に忍び寄っていた。
ガチャガチャ、ガチャガチャッ!
震える指先を力いっぱい握りこみ、ノブを何度も回し、扉を必死に引くが… 鍵は無情にもかかったまま。
くそっ…開け…開けぇ…ッ!
半ば泣き声まじりに叫びながら、男はドアノブを捻じり続け、もう一方の手で扉を拳が潰れるほど叩き続ける。
かん、かん。
その音が聞こえた瞬間、全身の血が凍りついた。
鉄の階段を、あの“ナニカ”が… ゆっくり上がってきている。
“ひたひた”が、“かんかん”に変わったのだ。
頼むよ!開いてくれよ!
声は裏返り、喉の奥で潰れる。
泣き声にも似たその声を吐きながら、男はなおも扉に縋りつく。
男の声にならない悲痛で異様な叫びは、空しく闇夜に溶けていった。
かん… かん…
足音は一定のリズムを刻み、階段の中ほどまで達している。
それは、もうすぐそこまで…
いや、もう一段上がれば、視界に入る距離だった。
それでもなお男は扉を叩き続ける。
何かが追ってきている。確実に近づいてきている。
それがナニカは分からない。
だが見てはいけない。見れば、きっと終わる。
根拠はない。だが、本能がそう告げていた。
背後の気配が、確実に熱を帯びてくる。
空気が歪んで、背中に視線のようなものが突き刺さる。
頼む、頼む、頼むッ…!
もはや男の声は、祈りとも悲鳴ともつかない。
そして…
最後の“かん”という一歩が、階段の最上段に達した。
うわぁぁぁぁッ!!
喉の奥から絞り出された絶叫とともに、男はほとんど錯乱状態で右手のひらを扉に叩きつけた。
乾いた打音が連続でこだまする。
手の皮が裂けるような痛みが走る。だが、そんなものは気にならなかった。
左手でドアノブを握り、力任せに思いっきり引いた。
ガチャッ――バン!
まるで男の切迫した想いに応じたかのように、扉が唐突に勢いよく開いた。
“なぜ今、開いたのか”
疑念が一瞬よぎったが、深く考える前に本能が体を動かした。
男は咄嗟に室内へと飛び込み、自分でも信じられないほど素早く振り返って扉を閉める。
バンッ!!
という爆音とともに扉が閉じ、続けざまに震える手で鍵を回した。
ガチャッ、ガチャガチャッ――!
ドアの鍵がかかる。
内側の世界と外にいるナニカが、細い金属ひとつで隔てられた。
呼吸が荒い。目と鼻からとめどなく汁が流れ、喉が焼けるように痛む。
胸が上下に激しく波打ち、全身が小刻みに震えていた。
男は呼吸を整えるべく蹲り、外の様子を伺うため、そっと扉に近づいた。
耳を澄ます。
…外は静かだ。
……消えた?
そう呟いた瞬間、ドアの向こう側で、
コン…
軽いノック音が響いた。
1度だけ…。
まるで、人差し指で扉を叩くような控えめな音。
男は息を止めた。
ドアの前から1歩、2歩と後ずさる。
それ以上、近づいてはいけない気がした。
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